性愛に踏み出せない女の子のために 第12回 中編 宮台真司
性愛に踏み出せない女の子のために
第12回 中編 宮台真司
雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第12回誌面版と同内容の前編と、WEB上で第12回の中編、後編を公開。中編は、関係妄想の大事さについて語ります。
過去の記事掲載号の紹介
第12回は前編が誌面掲載と同内容、中編、後編はWEBオリジナルです。
前回の第11回は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai11a
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/
第11回は「季刊エス83号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CGJ11W58
第12回は「季刊エス84号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CN8ZJS32
宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近刊は『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』『子どもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝との共著)、『神なき時代の日本蘇生プラン』(藤井聡との共著)。
聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。
「あってはいけない関係」と「○○プレイ」の違い
──社会にいて、社会の外に出るような気持ち、社会から解放されるような感覚についても、突然「今からそうです!」と切り替わるものではありませんよね。例えばお祭りをしているうちに、徐々に現実感や社会性が薄れていって解放される。性愛も同じで、最初は社会の中にいて、徐々に解放されていく道筋が大切なのだろうと思います。アダルト動画でいきなり性行為を見る体験は、まだ社会の中にいて、何の用意も出来ていないのに、突然それが来てしまうことだと感じます。
宮台 そう。正しい性愛能力は、溜め(カセクシス)と解放(カタルシス)で与えられます。思春期に欲情が昂まりながらも性交のイメージがぼんやりしたままの時間が長く続くのが、溜め。溜めの期間に小説や年長者の経験談を通じて関係妄想を蓄え、機会が来たら昂まった欲情を関係妄想の引き出しを使い、解放。この過程を壊すのが、無修正動画です。
年長者の経験談と言えば、祭り。僕がフィールド調査をした90年代半ばまでは、祭りで結ばれる中学生が地方にたくさんいました。祭りで初交した経験談を先輩達から聞き、今度は自分の番かな、相手は誰かな…と期待して待つ。これが幼馴染みの性愛に繫がった。「良い性交ができても、恋愛が困難」という問題を伴うものの、既に話したように対処可能でした。
祭りは普段出来ないことが出来る反転時空だと、中学生でもわきまえました。性交は夕暮れ後の学校内や雑木林などでしました。ちなみに、その際、互いに相手のアソコがどうなっているのかジロジロ見なかったし、暗くて見えにくく触覚を頼るしかなかった。初交で一応の相手が決まって以降は、互いに好奇心でいろんな体位や野外性交などを試し続けました。
その過程でフェラやクンニやシックスナインをして、やっと互いの生殖器の詳細な外形を知ります。性交に馴染んでから知ったので、「あの触覚像に対応する視覚像はこれか…」と思うのが普通で、性交以前に視覚像の詳細を無修正動画で知って性交イメージにバイアスが掛かる、なんてことはなかったです。詳しく語れるのは僕も同じ過程を辿ったからです。
この伝統的過程を辿れた世代は、視覚像より触覚像から入ったので、視覚像から入った場合の否定的バイアスから自由だっただけでなく、相手が違うと触覚像が違う事実に敏感になり、所謂「相性がいい相手」を今より真剣に探しました。そうやって自由に探すうちに、やがて「これって異次元!」と驚嘆するような相手と巡り会うようにもなったのです。
現在、高校生女子や大学生女子の多くが、カレシはいても自分からセックスしたいとは思わず、相手が要求するので「カレシカノジョ関係だから」セックスに応じると語ります。この十数年で目立ち始めた傾向で、僕が大学生の頃にはなかったので長く不思議に思っていましたが、最近の調査で触覚像ではなく視覚像から入ることがあるのだと判りました。
──関係妄想的なものは、何かあり得ない関係みたいなものに、気持ちが高まっていく様子ですから、お祭りで現実感が薄れていく過程と近いですね。
宮台 鋭い。「あり得ないことが起こる」のが祭りの反転時空。だから無礼講と呼ばれました。今は「あり得ないことはあり得ない」というトートロジーに閉ざされがちですが、「あり得ないことがあり得る」という感覚を育て上げる点で、祭りの反転時空を「待つ」構えと、関係妄想に沿う現実を「待つ」構えは、歴史を通じて機能的等価であり続けたのです。
連載で「社会の時空と性愛の時空は互いに外在する」「性愛の時空は社会の外にある」と語って来ましたが、「あり得ない過激な行為をする」がゆえに「社会の外」にあるというより、「あり得ない関係が実在し得る」「あり得ない相手を欲望し得る」がゆえに「社会の外」にあり、後から好奇心や冒険心で過激な行為が付随するというのが、伝統的な姿です。
前に話しましたが、20歳代の僕は友人の恋人を誘惑する営みを反復していました。最初はマジで恋をして思いを抑えられなかったからですが、意外にそれがうまく行ったことから、女の忠誠心がどの位のものかを確かめたい気持ちにシフトしました。ところが、あまりにも女が「恋人を裏切る」ことから、しばらくは女を信用できなくなってしまいました。
しかし、これも話したように、30歳代(90年代)に余りにも衝撃的な事件が続き、深く考えたことで、捉え方が変わりました。祭りと同じく、性愛自体も反転時空であるがゆえに、「あり得ない相手を(女が)欲望し得ること」「あり得ない関係が実在し得ること」に思い至り、必ずしも「恋人を裏切る」営みだとは感じなくなりました。ただし、条件があります。
女が恋人を深く愛しているという条件です。それがあれば、①誘惑に応じる一時的な営みで深い愛が揺らぐことはなく、②自分がどんな男を愛しているのかという輪郭の理解のために誘惑に応じる営みが機能し、③誘惑者がどのみち他の女にも同じことをしているとの予期ゆえに誘惑に応じる営みが安全パイだと理解され、必ずしも裏切りではなくなります。
これは相手への「なりきり」によるメタ視座への移行です。半端な「なりきり」だと、相手の営みを、誠実な自分ならば選ばない営みだとして「裏切り」に怒りを感じます。でも「誠実な自分なら」が欺瞞です。自分が誠実でもソレをなし得る、あるいは、ソレをなすこと自体が不誠実だとすれば自分も不誠実であり得るとするのが、真正の「なりきり」です。
かくて「あり得ない」が「あり得る」に変換されます。「一般的に」あり得る、「誰にでも」あり得る、となるのがメタ視座の取得です。関係の内的視座から外的視座へのシフトです。こうした外的視座を可能にするのが「ゴッコ化」。自分達は敢えてしているという距離化です。痴話喧嘩を「愛してるから嫉妬する」と思い直し、スワッピングに乗り出すのもそれ。
再説すると「浮気されて嫉妬する」「浮気して嫉妬される」を敢えてするゴッコとして組織し直すのがスワッピング。愛ゆえに嫉妬するのに別れるのは不合理だと気付いた二人が、浮気と嫉妬の営みを「誰にでも」出来るゴッコとして組織化し、外的視座にシフトします。ストローソンが言う「反応的態度(内的視座)から客観的態度(外的視座)へのシフト」です。
遡ると、アダム・スミスが言う「中立的な観察者」へのシフト、即ち自分と相手の双方に対する「第三者」の同感可能性を吟味する営みです。この第三者への「なりきり」へと道を開くのがゴッコ化です。「パンと手を叩いた瞬間にゴッコのモードに入ろう」と提案して実行するのがお勧め。互いの「実在の行為」を「演技の行為」として読み替えるのです。
平たく言えば、この種の営みで、御都合主義的な「なりきり」ゆえの「自分だったら絶対しない」という臆断をやめ、真正な「なりきり」ゆえに「自分もやるかも…」と思い直せます。「真正な」なりきりとは、スミスの「中立的な観察者」によるなりきりです。「自分も不誠実ならやるかも…」と感じて怒るのが、「誠実でもやるかも…」にシフトします。
性愛が社会の反転時空で「あり得ないことがあり得る」からです。さもないと性愛の実りはありません…というようなことを話して思うのが、最近の若い人に性愛の不全感についての相談相手がいないこと。話して来たようなことを昔は地域や部活の経験豊かな「姐(あね)さん」が教えました。地域や部活の空洞化が進み、伝えられるだけの経験を持つ女も減りました。
昨今は「性愛が苦手な女の子」がゼミにも多数いる。カレシがいない子だけでなく、カレシがいても些細なことで違和感を感じて冷める子も、苦手な子。些細なことで違和感を感じて冷める場合、元々相手に唯一性を感じられない点で不全感があり、前意識クラウドに「寂しいから別れたくない」と「別れて素敵な相手と交際したい」が共存しているのです。
初期フロイト三項図式の復習。無意識は、前意識に作用する変わりにくい二項図式の磁場。前意識は、量子論でいう電子雲の如きクラウド。そこに意味が真逆のサブクラウドが混在し、「寂しいから別れたくないクラウド」からも「別れて素敵な相手と交際したいクラウド」からも偶然にシュレディンガー収縮して意識を与える。それが「すぐ冷める関係」です。
…みたいな話を含め、僕が話すようなことを伝える「姐さん」が、「性愛が苦手な女の子」に必要です。僕のゼミが外部から年長の女達を招くのも、「君はこの姐さんね」と繋げる目的があります。経験豊かな「姐さん」とは、不幸もたくさん経験し、「時が経って何が起こっていたのか判った、あれはヤバかった」と思い出せる人のこと。それが若い人に必要です。
──テンプレのような型にはまった恋愛に憧れたとしても、実際の体験から生まれるエピソードや関係性を前提とした性愛を聞ければ、違うでしょうね。
宮台 体験報告には普通「思い違いだった」という話が含まれます。性愛報告がテンプレ系であるほど「意外につまらなかった」となる確率が高く、それに満足したという報告であれば違和感を感じさせます。逆に、僕が開示したような非テンプレ系の性愛報告であるほど「意外にぶっとんだ」となる確率が高く、聞いた女に「出口を出る力」を与えます。
高校卒業までに同級生や先輩と初体験を済ませた子は、決まったカレシとの間で性交を重ね、「意外につまらない」ので、友達から聞いた目隠しプレイ・縛りプレイ・見られるかもという程度の露出プレイに関心を持ちます。でも所詮はテンプレなので誰が相手でもできることに気づいて飽き、カレシを取り替えることになるけど、同じことを繰り返します。
その結果「性愛はこんなものか…」となって願望水準が下がります。話したように、「明け渡しとゆだね」のような関係性志向ならぬ、〇〇プレイと名前が付くようなフェチ志向(目新しさや破廉恥さの刺激追求で医学上のフェティシズムより広い)であれば──薬物で言えばエモーション系ならぬアッパー系であれば──刺激が必ず頭打ちになるからです。
女若衆宿や運動部に昔いた「姐さん」なら言うはず。非日常の高揚が欲しいなら──社会の外に出たいなら──、〇〇プレイという名で社会に登録された「互いを入替可能にする」フェチ系テンプレ性愛より、あってはいけない関係性ゆえの「互いの唯一性を失わない」困難を乗り越える性愛のほうが、盛り下がらない分ずっといいと。伝統的な智恵です。
心から愛しているけどあってはいけない関係の相手との性交であるほど、そこに〇〇プレイが累加されると高く飛べます。〇〇プレイ単独ではあまりにも非力です。連載でこう言ったのを覚えていますか。眩暈の度合と持続可能性が強い順に①〈愛のセックス〉と〈祭りのセックス〉の重ね焼き、②〈愛のセックス〉、③〈祭りのセックス〉だと。伝承されるべきです。
社会の外──言外・法外・損得外──に逃れて享楽するのが、性愛のゲノム的傾向です。その点、「フェチ志向の〇〇プレイ」と「関係性志向のあってはいけない関係」は機能的に等価ですが、眩暈の強度と持続可能性において後者がずっと優位です。敢えて言えば、〇〇プレイへの願望は、あってはいけない関係を諦めているがゆえの神経症的埋め合わせです。
つまり、祝祭と同じく日常のルーティンから遠く離れたいだけで、はじめから○○プレイがやりたいわけではないかもしれないというのが僕の考えです。その点、昔の女若衆宿みたいな「姐さん」とのコミュニケーションチャンネルがあれば、肉食系と呼ばれる過激プレイ系の「空っぽ」を生きるテンプレ女子も、より実りある方向を模索できると思います。
ただし《心から愛しているけどあってはいけない関係の相手との性交であるほど、そこに〇〇プレイが累加されると高く飛べます》は従来の記述とやや不整合です。心から愛する相手に、呼吸や声や体温の変化にコールされてレスボンスするアフォーダンス能力があれば、〇〇プレイ抜きに女は高く飛ぶと語ってきたし、この記述は経験的には完全な真実です。
だから正確には以下のように理解して下さい。心から愛し合っている(のを互いに知っている)という前提を置きます。①相手にアフォーダンス能力があるだけで、他に何もいらずに女は高く飛びますが、②相手にその能力が乏しくても、あってはいけない関係という意識があればかなり高く飛び、③そこに〇〇プレイが累加されると、さらに高く飛ぶのだと。
──例えば「複数プレイをやりたい」という人がいるとして、それは複数であることだけが目的なのか、愛する人を含む複数なのかでも変わってきますね。
宮台 再確認です。愛する人を伴って参加するスワッピングと、愛する人を伴わずに参加するオージーが分けられます。次にオージーは、愛はないけど慣れ親しんだ者達のオージー(=複数プレイ)と、見知らぬ人達ないし親しくない人達が参加するオージー(=乱交)に分けられます。「広義の複数プレイ=スワッピング+複数プレイ+乱交」となります。
これら最低限必要な概念的区別が四半世紀前から失われ、何が目的か不明確なまま「複数プレイがしたい」という若い人が増えました。理由は感情的劣化。関係性が織り成す「内容」の違いが識別できなくなり、所詮はテンプレ的な過激プレイの「形式」しか目に入らなくなったからです。ちなみに、広義の複数プレイではスワッピングだけ極めて特殊です。
スワッピングでは、女は「恋人が見ているのに感じてしまう制御不能な私」というタブー破りが享楽になり、男は「そんな恋人を眺めて嫉妬してしまう制御不能な私」という平常心喪失が享楽になります。それらは愛がないとあり得ない享楽だから、スワッピングの成功が互いの愛の再確認になる──スワッピングの目的です。若い人は理解が困難でしょう。
若い人の感情的劣化が理由で、今世紀に入るとスワッピングサークルが廃れたか、ネットで見えなくなりました。とはいえ、関係性の想像力が秀でた女子が稀にいると言いました。僕は、二人きりでも現場にいるような臨場感溢れるスワッピングの再現プレイができますが、相手次第。それで半狂乱になる相手なら、関係性に基づく深い愛を腹の底から信じられます。
腹の底から愛する相手との〇〇プレイも同じです。「本当に好きな人の前で、そんなことで感じたら、変態だと思われるかもしれないから恥ずかしい。でも感じちゃう…」という心の働きが、単なる〇〇プレイの過激さや目新しさを越えて、享楽を招き寄せるのです。これが、〈愛のセックス〉と〈祭りのセックス〉の重ね焼きが、強い享楽をもたらす理由です。
こうした本来自明なことを若い人達が理解しなくなりました。だから若い男子に言います。女が○○プレイに興味を示したら、女が「本当は」何を望んでいるのかを、「なりきり」を通じて理解すべきです。これを理解しないから、前に話したように、僕の話に触発された学生男女が複数プレイに乗り出しても、「見ちゃいられない寒いもの」になってしまいます。
──相手の欲望をただのフェチなんだと解釈してしまったらズレていきますね。ただのフェチなプレイになると交換可能になる。本当に願望していたことは、好きな人と固有の関係を築くことだったはずなのに、プレイの名前で目眩ましにあって、交換可能なものにすり変わってしまうと。
宮台 はい。そうした若い男の感情的劣化ゆえに、例えばスワッピングでカノジョが強い享楽を示すと、事後に「普段出さない声を出しやがって!」などと、僕ら世代ならあり得ない難詰をするようになりました。そんな「事故」が繰り返されたので、90年代末から若い世代をスワッピングから閉め出し、ネットから見えなくするようになったのですね。
とはいえ、僕ら世代が最初から洗練された作法を踏みおこなえたわけではない。当初は目標混乱ゆえの様々な誤解や痴話喧嘩があった。それでも二人が何度も話し合って「そういうことだったのか!」と分かり、絆が深まって真の恋人になる。それがスワッピング(詳しくは同室プレイ・別室プレイ・貸出プレイの別がある)の恋愛的な醍醐味だったわけです。
自己防衛を外した「明け渡しとゆだね」の状態で二人が話し合えないと、スワッピングが成功しても問題を生じます。例えば頻度。頻度が多くなると、日常の絆を深める営みだったのが、日常が退屈だから刺激を求めるアッパー系フェチ志向に近づく。頻度をどうするかも話し合いです。90年代の調査では、長く関わる者達の頻度は祭りに似て年3回でした。
適正な頻度は、恋人同士や夫婦が話し合いを通じた持続的な調整で導き出された智恵です。次の段階が、智恵の伝承。カップル次第では「適正頻度を超える実験をしてみよう」となるけど「やはり伝承通りだったね」と落ち着く。仮に伝承がないと試行錯誤が長引いたり、気付かずに目標がズレたりします。つまり伝承が「試行錯誤の短縮」の機能を持ちました。
今そんなカップルはいません。第一に「明け渡しとゆだね」を前提に微妙な問題を「なりきり」ベースで話し合えるカップルが消えた。第二に(異性愛では)同性同士の関係が希薄化して伝承線が切れた。①カレシカノジョが心を開いて話し合えず、②微妙な問題を相談できる同性仲間がいない。この二重苦を乗り越えることが、この連載の目的の一つです。
不自由を意識していると、外に出たくなる
──今は失敗しないため、時間を短縮させるために振る舞うと言いますね。映画を見に行く前に、感想などを調べて、「これは間違いない!」と思うものを見に行く。「損したくない」という思いが強烈だと言います。人間関係においても、失敗したくないという声をよく聞きます。
宮台 認知科学や脳科学の最先端が予測符号化理論predictive coding model。いわく動物は認知コストを下げる符号化に向けて進化します。十全な認知を待てば狩りに失敗して捕食されるからです。一般に動物は予測的符号の内側で事物が生起しても驚きやストレスに見舞われます。ただしストレスとは生体に対処を要求する圧を意味する中立的概念です。
ここからが論者が見逃す大切な点です。ヒトの予測符号化は言語的です。言語的予測符号化が予期です。戦後の新制東大で三人目の博士学位を取得したのが『権力の予期理論』。事前の触知を負担免除する機能的装置が予期だとしましたが、言語的予測符号化には新しい機能があります。原生自然を間接化して驚きを免除する文明化を、可能にする機能です。
復習です。7万年前からネアンデルタール種やデニソワ種を含めたヒト属が歌を手にする。4万余年前からサピエンス種は歌の遺伝子群FOXP2付近の突然変異で歌がぶつ切れ、語彙を組み合せた言語を手にします。一般に7万余年前に言葉を得たとするのは鯨目と同じく歌の獲得です。つまり「言葉=歌+言語」で、言語を手にしたのはサピエンス種だけです。
言語を得ても長らく狩猟採集の遊動段階だったので、そこでの言語は散文言語より詩的言語が優位、つまり事実確認的(記述的)constativeよりも遂行的peformativeで、多くは歌みたく用いられた。ただし歌よりも運べる情報量が増えた言語のおかげで「技術」の蓄積・伝承が可能になり、打製石器が磨製石器になって、狩りの協働的分業が複雑化しました。
それでサピエンス種が氷河期を生き延び、他のヒト属は人口減でサピエンス種と交雑します。一万年弱前からは農耕ベースで定住化し、バンド(150人以下)が連合したクラン化で成員数が増え、農耕の必要から「言葉で語られた法に損得で従う法生活」が始まって散文言語が優位化し、三千余年前からは書記言語を用いた文明化=大規模定住化に至ります。
音声言語は、互いが見える範囲で使うので、記述的用法においてさえ挙措や抑揚や韻律やピッチやリズムが機能してミメーシスが生じましたが、近接性に依存しない文脈自由な書記言語が普及するほど、ミメーシスよりもロゴス伝達に傾き、詩的言語ならぬ散文言語の圧倒的優位化に帰結。詩的言語は散文言語より歌に近いものだと解されるようになります。
遊動段階のリアル血縁的バンドを離脱した同じ法に従う法共同体たる初期定住段階の疑似血縁的クランであれ、小ユニットが横並びに集まった環節社会(ミミズみたいな環形動物に由来する語)でしたが、文明化は技術化による収量増大で、非農耕人口を増大させて階層化し、分業体系の複雑化で人々の多くを原生自然original natureから間接化しました。
以上を縮約し、「言語的予測符号化が、原生自然を間接化し、驚きを免除する文明をもたらした」と言います。むろん原生自然の間接化は、遊動段階から離脱した定住化=法生活化で既に生じています。そもそもそのために定住化したのです。しかし驚き(変性意識状態)の常時免除は人から「力」を失わせるので、力を回復する定期的祝祭を例外なく伴ったのです。
元々ストレスは中立的概念で(=悪い意味はなく)、対処すべき問題の出現による圧を意味します。ヒトの生体も動物と同じくストレスによってアクティベイトされます。だから安全・便利・快適でストレスフリーになれば「力」を失います。法生活の反転時空たる祝祭や祝祭的性愛の機能のキモで、80年代新住民化以降の生きづらさを考えるキモでもあります。
「Amazonでポチれば当日配達」みたいな条件プログラムで生活形式が覆われれば、やがて人との接触をノイジーに感じて消費場面でも仕事場面でも人が排除され、全てが言語的テンプレ内で生じるようになります。システム(市場&行政)への依存が人の助け合いを不要にして孤独になるだけでなく、全てをつまらない(=力を失わせる)と感じさせます。
だから「適切に驚く体験」でわくわくする(=力が湧く)ことがヒトには不可欠。思ったものと違ったという驚きはヒトの生体をアクティベートし、わくわくさせます。そんな当たり前が忘れられました。幼少期の外遊びによる「カテゴリーを越えたフュージョン」を新住民化が消去。「驚きには良いものもあること」が体験的に刷り込まれなくなったのです。
85年から11年間に渡って沖縄から北海道まで、「社会を何も知らないのでは…」という神経症的不安を背景にナンパ行脚した結果、新住民的ジェントリフィケーション(安全・便利・快適化)が人々の毎日を生きづらく・つまらなくさせる過程を、意図せずしてつぶさに目撃しました。社会学者としては稀有な僥倖でした。それなくしてはこの連載はありません。
──驚いてわくわくすることと、予測の枠内で安心して過ごそう、ということの分岐点があるわけですね。
宮台 安全・便利・快適は必要ですが、度が過ぎると驚き全般を不快に感じ、わくわくする驚きから見放されてつまらなくなります。他方「私は何にも驚かないよ」と驚き全般に免疫化されても、わくわくする驚きから見放されます。僕は「規定された安全圏に居つつも、時には未規定でリスキーな外に開かれよ」と推奨していて、過激な主張をしていません。
最初の話に戻って、偏差値の高い人ほど自慰の回数が増える理由を検討します。一つは、読書経験の多さが関係妄想の引き出しの多さに繋がるから。もう一つは、親の期待や抑圧に応じてきた分、外側に出て自由になりたいと思うから。例えば90年代の取材で目立ったのは「親が道徳的に厳しいから潜在的な当てつけとして援交する」という動機です。
懇意にしてきた全国的デリヘル・チェーンのオーナーは、風俗嬢には「親にコントロールされてきた反動の高偏差値系」と「親にネグレクトされてきた低偏差値系」が世間の分布より多く、営業を始めた四半世紀前から不変だと言います。共通して、地域の空洞化で、親の関わりが過剰であれ過少であれ、親の影響を受けやすくなっていることがあります。
高偏差値系≒復讐系について言うと、何かにつけて我慢させる古典的なコントロール親に加え、好きにしていいけど全てはあなたに返ってくると言い続ける昨今的なコントロール親も問題です。低偏差値系≒ネグレクト系について言うと、自分が注目されるという体験が乏しいので、他人の視座を取ることができず、ゆえに他者との関係性も薄くなりがちです。
僕の取材から得た感触を言うと、双方とも「規定された安全圏に居つつも、時には未規定でリスキーな外に開かる」回路に不全があります。高偏差値系≒復讐系は、本人が自由を求めていても強迫的で不自由な印象を漂わせますが、客のウケは良いです。低偏差値系≒ネグレクト系は、他者の気持ちを汲もうとしないので、客からのクレームが多くなります。
「適切に驚く体験」で力が湧くには、復讐系の「外に出なければならないという強迫的な思い」が障害になる一方、ネグレクト系の「内と外の区別がうまくつかないこと」も障害になります。だから復讐系もネグレクト系も瑞瑞しい感受性に溢れているとの印象を与えません。親の構えが、「社会の外にある性愛の時空」を生きる感情的能力に影響するのです。
──私は、親はぜんぜん厳しくなかったんですよね…。
宮台 性愛に乗り出す動機についてだけ見れば、親が厳しかったら、親への怨念を抱き、必ずしもわくわくしなくても、親が設定した道徳枠の外に出たがります。それが高偏差値系≒復讐系です。その点、あなたは復讐系が持つバネがありませんが、その分、自力で性愛の時空に出ればわくわくします。「何もしなければ何も起こらない」を肝に銘じて下さい。
性愛に踏み出せない女の子のために