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性愛に踏み出せない女の子のために 第12回 後編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第12回 後編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第12回誌面版と同内容の前編と、WEB上で第12回の中編、後編を公開。後編は、「感染」や「型の思考」が自分を変えることについて語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

第12回は前編が誌面掲載と同内容、中編、後編はWEBオリジナルです。

 

前回の第11回は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai11a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/
第11回は「季刊エス83号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CGJ11W58
第12回は「季刊エス84号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CN8ZJS32

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近刊は『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』『子どもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝との共著)、『神なき時代の日本蘇生プラン』(藤井聡との共著)。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


感染が起こる人間関係

──ところで、先ほど話されていた「姐さん」のように、年長の女の人で、恋愛や性愛に困っている若年層に、よき振る舞いを教えたいと思って活動している人はいるんでしょうか?

宮台 若干ですがYouTuberにいます。テンプレの外に出るという問題意識が総じて薄いのもありますが、大切な点は、対面でない分「この人のように生きたい」というミメーシスが起きず、「合理的だからやってみよう」という損得計算が勝るので、動機付けとノイズ耐性が弱くなりがちなこと。対面ワークショップを催す「姐さん」をずっと待っています。

──なるほど。会わずに動画サービスで見るから、情報として処理してしまう感覚はわかります。その人と自分の関係が薄いから、自分の身に沁みてこない。

宮台 性愛の学習には、コスト&ベネフィット計算のような合理的判断より、「この人みたいに生きてみたい」という非合理なミメーシスが大切です。ウェーバーは社会の出発点に「よく分からないけど何か凄い」という「カリスマ的正統性」を置きます。非合理なミメーシスに、人に一定方向の「力」を与えて秩序を作らせるという合理性を、認めています。

同時代のデュルケムも、社会の出発点に「沸騰」を置きます。2人はジンメルと並ぶ「近代社会学の父」。彼らが活躍した19世紀末~20世紀初めは、国民国家の成立と産業革命の重工業化を背景に、帝国主義的領土争奪戦がモースからマリノフスキーへと連なる「人類学の時代」をもたらした時代でした。そのことが、彼らに社会の始源を考察させたのです。

社会学が社会の始源を考えたのはこの時だけ。それが示す「非合理の合理性」という思考はこそ性愛の要です。ミメーシスの「この人みたいに…」には、無数の要素と関係が含まれ、これらを個別に実装するのは困難。ならば非合理なミメーシスで一挙に実装するのが合理的です。逆にマニュアルに留まるYouTuberの指南は、個別実装という非合理を招きます。

「この人は姐さんになれるな」と思える30~40代の人は今もいます。対面なら「この人は凄い」「この人みたいに生きたい」と思わせられ、「姐さんに感染した非合理な構え」であまたの行動に包括的に促されます。でも彼女らがYouTuberになれば、それが薄れる代わりに、「コスパとタイパに優れた合理的なマニュアルの伝え手」に成り下がるでしょう。

理論的に語ると、ウェーバーは、内容的正しさを意味する正当性rightnessでは、社会が要する服従が供給不足になるとして、内容的正しさと無関係な自発的服従契機を意味する正統性legitimacyを言挙げし、筆頭にカリスマ的正統性=ミメーシスを置きました。YouTuberの「姐さん」だと、内容的正しさに関係ない服従契機が、内容的正しさを置き換えます。

指示や指南のたびに内容的正しさrightness(有効性など)を弁証するのはコスト高ですが、弁証しないと服従動機を調達できません。内容とは無関係な服従契機legitimacy(カリスマなど)は、内容的正しさの弁証が免除されるので、包括的なワンセットの指示や指南に対する服従動機を調達できます。なお、この負担免除機能は教育一般に拡張できるものです。

またブーバーの哲学に従えば、対面の「姐さん」は「あなたが心配で」あれこれ答えますが、YouTuberになったら「〇〇さんの質問に答えます」的な形になります。対面の「姐さん」はあなたを取替不能irreplaceableな「汝you」として扱い、YouTuberの「姐さん」はあなたを取替可能replaceableな「それit」として扱う。それが動機付けの違いに繋がるのです。

──サービス業のやりとりのようですね。宮台さんが先日、X(旧Twitter)のスペース上で対談されていた坂口恭平さんは、Xにもウィキペディアにも携帯電話番号を載せて、すべての相談の電話を受けるとおっしゃっていましたよね。強烈でした。

宮台 14年ぶり2度目の対談です。彼のコミュニケーションは特異です。1度目の対談では、9割を相手が喋り、僕は相槌だけという、生涯1度切りの体験をしました(笑)。彼の語りは、個別センテンスにあまり「意味」がなく、センテンスの大群からなるクラウドが「力」を与えるものです。僕が自説を語れば彼の「力」が失われると思い、黙りました。

古典的カウンセリングは内観法的「なりきり」を出発点に表象(心に浮かぶ事物)を分析、表象に距離を取らせます。坂口恭平カウンセリングは、「世界を生きる作法(生活形式)」と結合した相談者の言語ゲーム・に現れる環世界を、「世界を生きる別の作法(生活形式)」と結合した新たな言語ゲーム・に現れる環世界に置換し、クライアントに「力」を与えます。

環世界はユクスキュルの概念。ヒトとミミズの世界体験に優劣はなく、前者が高精細で後者が低精細だとは言えない。ヒトの世界体験はヒトの生活形式に、ミミズの世界体験はミミズの生活形式に対応します。生活形式に対応して与えられる世界体験が環世界。坂口は、同一環世界内で別の生き方を指南する替わりに、生活形式を変えて環世界を替えよと説く。

坂口恭平氏に似た喋りを過去に聞きました。95年に関西テレビでナンパカメラマン特集の企画・取材に関わった際、アイドル写真とナンパ写真(ハメ撮り等)を二股かけていた福永ケージ氏が、表参道でリクルートスーツ姿の22歳に声を掛け、面接集合時間まで30分だとして断ろうとする彼女をコインパーキングに誘い、15分で大股開きにするのを見ました。

ビル屋上からの超望遠カメラで映像記録。福永氏の衣服に忍ばせた超小型マイクで音声記録。驚きは音声です。褒め言葉による巧妙な説得かと思いきや、仕事や出身地や芸能人や原宿の話題など、個別センテンスを文字起こししても意味不明なマシンガントーク。センテンスの大群からなるクラウドに相手を置き、変性意識に誘って不可能なことをさせます。

坂口氏も同じ。完全なOpen to allで電話が掛かれば何時でも全て受けるのは凄いけど、問題はどこが凄いかです。どんな悩み相談でもクライアントを満足させるのが凄いのです。全ての内容の各々に対応した知恵を持つのは不可能です。千差万別の相談内容にも拘わらず「力」を与えるのは、相談者が誰であれその世界体験(環世界)を替えてしまうからです。

──年間9000本の電話を受けるという話に驚きました。宮台さんは、「感染する」という言葉をよく使われますが、「こういう風になりたい」というモデルになる人で、ちょっと社会から外れていそうな人に憧れる一方で、「社会から外れたらまずい」という怖れが今は強すぎるように思います。例えば「エス」では前号でも小説家ジャック・ケッチャムによるドラッグ体験を掲載しましたが、90年代までのカルチャー誌には、「ドラッグにはこういう効果があって、貴重な体験です。昔の文学者や芸術家、ミュージシャンは結構やっています」と、頻繁に取り上げられていました。だから当時は、「ドラッグは未知の体験で、面白いこともある」という感覚があったと思います。でも今はニュースで、「この人は麻薬をやったから仕事を失う」という話題ばかり。

宮台 連載で話したけど、この数年LSD体験やTHC体験を伝えています。使うのは全て合法なアナログ(分子構造変成体)です。目的は世界体験が内部表現である事実に気付いてもらうため。内部表現とはシステムの作動による環境のイメージです。「富士山が見える」というのも、神経網という閉じたシステムが、光子を入力刺激として作り出す描像です。

昨年11月末に襲撃された際の深い傷の再手術で50年ぶりの全身麻酔をしました。50年前には覚醒するのに10数時間掛かりましたが、医療の進歩は凄くて術後4時間で夕方に覚醒しました。ところが明朝「あれ? これが本当の覚醒。昨日のは思い違い」となり、さらにもう一晩寝たら「いやいや、こっちが本当の覚醒。昨日までのは思い違い」となりました。

つまり「これぞ覚醒」と見做す意識(再帰的反応)ですら内部表現なのだと実感しました。これは衝撃でした。ドラッグが変性意識に対応し、しらふが通常意識に対応するとされますが、しらふだと自己認識される状態もまた変性意識だという事実が示されているからです。そのことはつとに苫米地英人氏が指摘していますが、改めて体験的事実として確認しました。

それを早くから主張していたのがティモシー・リアリー。通常意識状態における世界体験も所詮は脳神経メカニズムのこしらえものなら、僕らが常に縛り付けられる通常意識状態における世界体験を、真の世界に近いものとして尊重すべき理由はなくなる。むしろ世界体験のモードが数多存在することを知るべく、ドラッグ体験が重要にならざるを得ません。

この主張が60年代の公民権法時代(リベラル時代)に受け容れられ、「西海岸のテクノロジスト」が、「世界体験が別様であり得ること」を僕らに教えるLSDやTHCの、機能的等価物としてコンピュータグラフィック(エレクトリックシープが象徴)、コンピュータサウンド(ムーグシンセが象徴)・ガレージコンピュータ(アップルが象徴)などを喧伝しました。

それも今は昔。「西海岸のテクノロジスト」は解放の伝道師ならぬ保守の伝道師。新反動主義者(ピーター・ティール)やそこに含まれる加速主義者(ニック・ランドー)です。累進課税率の激減が象徴するように、国民が仲間である国民国家が風化して再配分できなくなったので、ドラッグとメタバースに人を収容してベーシックインカムで支えよと主張します。

「西海岸のテクノロジスト」は「解放の視座」から「(解放を使う)統治の視座」に移行しました。ドラッグも「オルタナティヴ(別様)な世界体験をもたらすツール」から「オリジナルな世界体験を前提として楽に生きるツール」に位置付けが変わります。並行して、先進各国の若い人が「解放の視座」に無関心になります。「解放を信じなくなった」からです。

気付いた僕は95年に『終わりなき日常を生きろ』を上梓します。それまでに経済では70年までの大量生産の大衆消費社会(上昇の時代)から耐久消費財一巡による多品種少量生産の高度消費社会(差別化の時代)に移行。73年石油ショックからは低成長時代。政治では80年の小室直樹「ソビエト帝国の崩壊」上梓、89年ソ連崩壊、91年のベルリン壁崩壊と続く。

技術では、20世紀に航空機・原爆・原発・ロケット打ち上げ(スプートニクからアポロ月面着陸まで)と進化してカー・クーラー・カラーTVなど大型耐久消費財が全戸普及したSFブームの時代も、70年に終焉。21世紀までに木星移住などの予測が潰え、白物家電の時代になる。技術進化が輝かしい未来の非日常性を感じさせた時代が終了。日常に埋没します。

社会では、便益を生活世界でなくシステム世界(市場&行政)からだけ調達する「新住民化」(人間関係の空洞化)が進む。システム化は計算可能性が不確かな「社会の外」(祝祭)を消します。社会は言語・法・損得で成り立つ「法の時空」ですが、「法の時空」は「法外の時空」を伴わないと人から「力」を奪う。「解放を信じなくなくなる」のは「力」を奪われた結果です。

日本では理解されないけど、元々ドラッグは一人でやるものではない。バッドトリップの可能性を伴うLSDは、いざという時にグラウンディング(着地)を援助する補助役が不可欠だし、人をフレンドリーにするTHCも、大麻料理対決番組「クッキング・ハイ」が描くように仲間でキメてこそ享楽がある。そう。ドラッグは絆を前提とした祝祭なのです。

人が「解放を信じなくなる」と社会は微熱を失います。システム化が進んだ国はどこもそう。ただ各国に比べて日本が圧倒的に冷えています。特に性愛。そこには「法外が消える→力が湧かなくなる→解放を信じなくなる→性愛から退却する」という前提・被前提関係があります。だから「法外を取り戻す」「法ならぬ掟の界隈を回復する」必要があります。

性愛の項にドラッグを代入しても同じ。「法外が消える→力を失う→解放を信じなくなる→ドラッグから退却する」。僕は大麻非犯罪化運動をしてきたけど、欧米と違って日本の若い人には大麻非犯罪化の世論がない。「大麻やめるか人間やめるか」みたいな政府広報や教育は問題だけど、それが原因とは思いません。日本がとりわけ冷えているのが原因です。

理由は、昔もそんな政府広報や教育があったけど、若者は「枠の外に出る体験」に憧れ、そんな体験を持つ人がいると聞いたら「もっと詳しく教えてくれ」と“弟子入り”したものだからです。でも今は逆。「枠の外に出た体験」をいろんな動画で話してきたけど、「もっと教えてくれ」という若者がいないどころか、「そんな話は聞きたくない」と言われたりします。

解放を信じるとは、ハイデガーによれば「ここではないどこか」があると思う営みで、つまらない場所を生きる人に「力」を与えます。解放を信じない構えはドラッグと性愛への無関心として表れますが、社会内への──法内=「言葉・法・損得の時空」内への──閉ざされを意味します。そんな毎日はつまらないだけじゃない。自身がつまらない人間に見えます。

敏感な若者は、毎日がつまらないのに加え、自分がつまらない人間に見えるのを感じます。だから敏感な若者は、解放が信じられなくなるほど、避難所としてカルト宗教に惹かれます。つまらない社会から外に出たいので、無害な制度的宗教より、有害なカルト宗教の方が心に効くからです。オウム教団を論じた『終わりなき日常を生きろ』1995年の主題です。

オウム事件以降のカルト宗教バッシングがそうした避難所を消去しました。だから、社会の外=「ここではないどこか」を諦めて「ここしかない」と決め、無意識ではつまらなさを感じている「社会の中のポジション取り」を、「いいね」を掻き集める神経症的営みで補完しながら、続けます。だから、外を示唆する営みをノイズとして排除したがります。

排除したがるのは、社会に従う他ないとの「諦め」が超自我的二重性を際立たせるから。復習すると、「性的であってはいけないのに性的であること」が享楽になるのが超自我的二重性です。だから制服が意味を持ちます。制服はただの布きれですが、「性的であってはいけないのに性的であること」の表象だから、女子の一部でさえ制服を着たセックスを好みます。

1993年、援交女子高生の存在を新聞に書き、殺到するテレビ局にクラスタを紹介した所から援交ブームになります。僕が「性的であってはいけないのに性的であることの記号」である制服の廃止を提唱したら、「制服で高校を選んでるのに、ふざけんな」と『朝生』で女子の猛反発を喰らいます。でも、女子高生愛好家を生まないためには、制服廃止がベスト。

今もパパ活女子高生の界隈は活況です。ネンカク(年齢確認)のあるパパ活アプリは使えないけど、X(旧Twitter)のハッシュタグ「#P活〇〇」(〇〇は地名)で募集をかけ、DMで遣り取りします。バンゲ(番号ゲット)せずに裏垢ごと消すので、両者とも足がつかず、規模はかつてのブームと変わりません。皮肉にも、各自治体の淫行条例が、超自我的二重性を強めます。

制服が表象する超自我的二重性を大半のパパ活女子が自覚します。「諦め」はなく、社会への「嘲笑」を愉しみます。むしろ問題は、社会の外に出るのを「諦め」た社会規範に柔順な若者。「ここ(法内)しかない」と「諦め」ると超自我的二重性に鈍感になり、無自覚に社会の外を欲望する。さもなければスルーするのに、外を示唆する営みをバッシングします。

社会システム理論家ルーマンは、アジェンダの共有がなければ対立の営みがあり得ないので「対立は統合の証」と言いました。同じく、選択肢が地平にプールされていないと、主題化して否定する営みがあり得ないので「否定は肯定の証」と言います。「性的関心が激しい性への蔑視として表現される」とするフロイトの反動形成を、言語論的に記述したものです。

以前、性愛には「内在系」より「超越系」が相応しいと話したことが、関連します。「ここ」で充分な内在系に対し、超越系は「ここではないどこか」を望みます。真の内在系は「ここではないどこか」に無関心ですが、「ここではないどこか」を示唆する営みをめざとく見つけて炎上する人は、実は「ここではないどこか」への関心に支配された疑似内在系です。

彼らは無関心なのではなく、関心があったから「諦め」たのです。「諦め」は無意識に関心を残すので、「諦め」ていない人を見ると、「諦め」という選択の正しさが脅かされる不安から、自己防衛機制で、「諦め」ていない人に露骨な嫉妬や嫌悪をします。これら①超自我的二重性と②反動形成の機制は、性教育の一番最初の段階で伝えられるべきものです。

真の内在系に比べて、所詮は「隠れ超越系」に過ぎない疑似内在系は、むしろ性愛(の対象)に向きます。彼らの「諦めグセ」を解除すれば、本来の超越系の傾きが表に出ます。諦めグセは、個人の人格的傾向でもあり得ますが、「社会の外=法外」を禁圧する過去四半世紀の社会的雰囲気への、広汎な適応の結果でもあります。その意味で今日的な問題です。

 

他の人の存在が自分を変える

宮台 予測符号化理論をベースに脳神経を包括的に考えるアニル・セスが先日代官山蔦屋書店に来ました。彼いわく、脳神経科学者がこの20年一貫して語ってきたのは「リアル(実在)とアンリアル(非実在)の関係」で、「非実在が内部表現であるように実在も内部表現だ」とします。内部表現仮説もそれ自体が内部表現ですが、それで何の問題もありません。

復習します。言語で指せるものが「存在」。夢や妄想にでてきた何かは、存在します。「実在」は存在より狭い概念です。夢や妄想にでてきた存在は、非実在です。「これは皆にも見えるよね」と問うて「確かに見えるよ」と答えて貰えるものが、実在です。論理実証主義を踏まえれば、実在に対応する命題から演繹された命題に対応するものも、実在します。

こうした仕分けは、数多の内部表現を脳神経が操作して与えられます。一部は遺伝的=生得的で、残りは文化的=習得的。前に〈世界〉と〈世界体験〉を分けましたが、実在も非実在も全て脳神経が出力した〈世界体験〉です。〈世界〉の客観的事実が僕らに実在として与えられることはない。逆に「皆にも見える」と予期できる共同主観的体験が、実在を与えます。

これをどれだけ真剣に受け止めるかが、正しい世界観にとって大切です。でも常識に反するので、真剣に受け止めるのが難しい。だからドラッグ体験を薦めたのです。数回前に話した通りLSD体験は僕らの視覚が言語に縛られている事実を突きつけ、言語次第では別の視覚が与えられることを納得させます。それでセスの「全ては脳の映像だ」に深く納得します。

再説すると、LSD体験の本質はトリップ中に見えた「幻影」にはなく、グラウンディング後に自動的に与えられる「〈世界〉の客観的事実を含めて全ては脳の映像」という世界観にある。一度きりの体験で世界観が変わるから、常用不要。LSDは身体的依存性も精神的依存性も皆無ですが、これを統治権力が規制するのは、当の世界観の帰結が計算不能だからです。

LSD体験に限らない。先の全身麻酔体験もそう。「これが覚醒だと思えるから、覚醒なのだ(=〈世界〉の客観的事実を認識できる)」という話にはならないことが、自動的に体験されます。「これが覚醒だと思える」という事実があるだけで、真に覚醒していることを識別できません。「これが覚醒だと思える」のは重要ですが、客観的事実だからではない。

思い出されるのがユングの言葉「神秘体験の存在は、神秘現象の存在を意味しない」。応用すれば「覚醒体験の存在は、覚醒の存在を意味しない」。神秘体験の存在は疑えない。僕も友人と共にUFOを2回見ました。覚醒体験の存在も疑えない。僕は今覚醒しているという前提で執筆しています。でも、〈世界〉の客観的真実との対応関係は定かではないのです。

性愛は社会の外にある想像的時空。相手は〇〇であるはずとの予期に全面依存し、それ以外を当てにしないので、想像的。だから「怖い」「不安だ」が当たり前に思うけど、「不安体験の存在は、不安な現実の存在を意味しない」。実際〈世界〉の客観的真実との対応は永久に定かでなく、不安を体験させる主体は自我の自己防衛機制です。それを理解するべきです。

復習すると、自我egoは自己selfではない。自己selfは自己像・自己物語で、自我egoの生成物。その自我egoとは、直接的反応reflexによる過剰反応から生体を防御して生存確率を上げる装置。ただし自我egoはしばしば暴走run awayする。そのとき自我が警戒する〈世界〉の客観的真実は存在しない。だから自我egoの働きを反省reflectionして制御する必要がある。

細かい話を除くと、それが精神分析学があなたに与える知恵です。誰もが理解できる知恵。そこから様々な知恵が派生します。その一つが相談です。相談で、自分が体験する不安が〈世界〉の客観的真実に対応するか否かの見込みが変わります。むろん対応の有無は確定できません。だからそれはどうでもよく、あなたの見込みが変わることが大切なのです。

再びルーマン。ロマン主義的な愛は二人の心身の究極の融合です。何度も繰り返すけど、それを目指すべきです。でも、二人の心身の究極の融合は〈世界〉ならぬ〈世界体験〉の次元にあります。これは究極の融合という〈世界〉の客観的真実が分からないのだからと不安がるべき事実ではなく、逆。どこまでも〈世界体験〉の次元だと覚悟して突き進むべきなのです。

──自分の体験は現実を実証するものにはならないけれど、周りの人が共有してくれたら、それは現実と解釈されるものになる…。だからコミュニケーションが大切で、仲間を過ごすことに意味があるんですね。

宮台 お見事。最後にマヤ暦を研究する者として「型(パターン)の思考」の大切さを話します。精神分析学は「型の思考」の典型。〈世界体験〉に自我の生体防御メカニズムに起因する型が刻まれるとします。『サブカルチャー神話解体』で示した人格五類型はアウェアネス・トレーニングで見出した反応の型を、システム理論で必然的だと跡づけたものです。

難しい話じゃない。「型の思考」の目標は、距離化による操縦可能化です。有史(文字以降)に限っても今までどれだけの人数が生きて死んだのか。それを思うと、どんな悲劇や困難に出会っても「自分と同じような目にあった人はどれだけいただろう」と自動的に想像します。その時あなたは「型の思考」を用いて、距離化による操縦可能化をしています。

一年前に襲撃されたとき、救急車がなかなか来なくて50分経った頃、失血で意識が薄れてきました。当時ウクライナ戦争が始まって9ヶ月だったので、自動的に「僕よりひどい目にあった人・あっている人がどれだけいるか」を想ったら、「こんなのは大したことではない」と感じられ、死ぬかもしれないという不安から、誇張なく完全に自由になりました。

これも「型の思考」。「僕みたいな目にあった人がどれだけいるか」を想像すると、その時に彼らがどんな構え方をしたのか複数の型が想起されます。不安になった人もいただろう。不屈の意志を燃え立たせた人もいただろう。すると僕は構え方を選べるようになります。マヤ暦の如き「型の思考」は、自己弁護ならぬ自己操縦のために使われてきたのです。

マヤ暦は、計算方法にもよるけど、五百万の型の中の一つの型として個人を記述します。理由は不明であれ記述には思い当たる所が多数あります。そこで当たっているか否かに一喜一憂するだけならマヤ暦を誤用しています。そうではなく、同じ型の無数の人間たちがどう生きただろうと想像し、直接的反応reflexを反省的反応reflectionに置き換えるのです。

自我egoの働きの内部表現に過ぎない自己self(自己像・自己物語)と違い、自己egoは暴走しがちな直接的反応reflexを再帰的反応reflectionに置き換える生体防御装置だけど、今度は自我egoの暴走があり得るのだと言いました。ゆえに機能的に思考すれば、マヤ暦みたいな「型の思考」によって生体防御装置である自我egoの働きを適切化できるのです。

──マヤ暦にあるような「型の思考」で、他の人を思えば、孤独に絶望している自分の悩みを少しズラせるのですね。先ほどの「すごいと思う人に感染する」という話題にも通じる関係性のお話ですね。そこは次回にまた詳しくお聞きできればと思います。今回もありがとうございました。

 

性愛に踏み出せない女の子のために
第12回 終わり