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性愛に踏み出せない女の子のために 第11回 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第11回 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年6月15日発売号で第10回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第11回誌面版と同内容の前編と、WEB上で第11回の後編を公開。今回の前編は、性愛についての3つの次元についてを、前回よりさらに詳細に語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

第11回は前編が誌面掲載と同内容、後編はWEBオリジナルです。

 

前回の第10回第2部は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai10b

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/
第11回は「季刊エス83号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CGJ11W58

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近刊は『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』『子どもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝との共著)、『神なき時代の日本蘇生プラン』(藤井聡との共著)。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


「いちゃいちゃ次元」は
言語と社会の外にある

──前回は性愛の実践を支える理論的な前提として、予測符号化理論や、性愛の3つの次元(①いちゃいちゃ次元、②関係性次元、③社会的承認次元)のお話を少ししていただきました。今回はそこをさらに詳しく伺いたいと思います。

宮台 ある種の共通感覚の中で「いちゃいちゃ次元」でシンクロして、コール&レスポンスの流れの中でセックスをする感覚について話してきました。身体能力と感情能力の劣化でそれをイメージできない若い人が多い。イメージが浮かばないものは現実化できません。だからこの連載を通じてイメージできるようにしたいと思っているわけです。

劣化は表現者にも意識されていて、言葉の外にある「いちゃいちゃ次元」と言葉の内にある「関係性次元」との関連を描く映画が増えました。六月に公開された是枝裕和監督の『怪物』も、「いちゃいちゃ次元」と「関係性次元」の対立の話。予測符号化された世界の外を触知できない人は「いちゃいちゃ次元」を目撃すると不安なので、「キモい」と差別します。

主人公の少年二人は同性愛。といってもいちゃいちゃがシンクロし過ぎて事後に同性愛を意識する展開。二人の関係が同性愛として言挙げされる悲劇を問題にします。彼らの「いちゃいちゃ次元」を言語外で捉えて擁護する大人は教員にも親にもいない。「だから」二人がトンネルを抜けると、森の中で廃墟化した電車があってイルミネーションに彩られています。

──廃線跡にある湊と依里の秘密基地ですね。

宮台 湊が厳密には主人公。そこで二人きりで過ごしてからトンネルを抜けて社会に戻る。彼らの視座では「こちらの森」が言外に開かれた「いちゃいちゃ次元」でホームベース。「あちらの社会」が言語へと閉ざされた「関係性次元」でバトルフィールド。社会は「令和の社会」。言外の「いちゃいちゃ次元」が許容されていた「昭和の社会」ではないのです。

社会とその外にある森の対比。「社会=言語の時空」対「森=言外の時空」。最終的に「社会=非性愛の時空」対「森=性愛の時空」となるものの、当初は「社会=大人(化した子供)の時空」対「森=子供の時空」。「子供の時空」を生き切った者に「性愛の時空」が開かれるという、この連載でも話した構造があるけど、主題はむしろ「子供の時空」の消滅への嘆きです。

だからLGBTや性愛に引き付けるより、「子供の時空」が消えた社会=「言外・法外・損得外の時空」をおぞましがる社会の劣化ぶりに引き付けるのが正しい。映画はどう受け取ってもいいとの俗論は誤り。送り手の無意識に発して、受け手の無意識に呼び掛ける隠喩的二項図式に矛盾する見方は出鱈目です。今作では「子供の時空」対「大人の時空」の二項図式です。

「大人の時空」が「子供の時空」に程よく寛容だから「大人の時空」の外に「子供の時空」がある。「社会の時空」が「性愛の時空」に程良く寛容だから「社会の時空」の外に「性愛の時空」がある。「大人の時空=社会の時空」とは「言語・法・損得へと閉ざされた時空」。でも人々がその外に「子供の時空」や「性愛の時空」を予感する時にだけ人々は健全です。

その意味で、かつて程よく許容された言外・法外・損得外の「いちゃいちゃ次元」が消去されて予感できなくなれば、人はつまらなく=生きづらくなります。定住化で言語・法・損得へと閉ざされた法生活が始まると、例外なくタブーとノンタブーを反転する祝祭(的な性愛)が始まって、言外・法外・損得外の時空を予感可能にすることで人を生きづらさから救ってきました。

そのように救われた大人たちは「子供の時空」にも「性愛の時空」にも程よく寛容でした。これまで話してきた通り、3段階の郊外化(60年代団地化・80年代新住民化・90年代ケータイ化)で寛容さが消えて「子供の時空」も「性愛の時空」もなくなった。ただしそこでの性愛とは「祝祭的性愛」、つまり「言外・法外・損得外にある性愛」。社会に登録されたテンプレとは別物です。

ニーチェはゲーテ『若きウェルテルの悩み』初版本に署名とメモを残します。「愛する者が愛されることを望むのは虚栄心」。性愛は「贈与=非損得」であって「交換=損得」ではないと。これは「神様の言うことをきくから神様は私を救え」という神強制に汚染されたキリスト教への隠喩的批判です。産業革命後期で重工業化と都市化が急展開した19世紀末のこと。

それを受けてブーバーは「置き換え不能な汝」が「置き換え可能なそれ」に堕する動きを、フッサールは生活世界がシステムに置き換えられる流れを嘆きます。生活世界とは、共同体を生きる人から見える世界。共同体は、掟(対内道徳)と法(対外道徳)の二重性、域内の贈与と域外の交換の二重性、同じ事象を誰もが同様に体験できる共通前提で定義されます。

この定義は野放図な産業化・都市化・郊外化で共同体と生活世界が消えればどんな悩みも話せる≒話さなくても分かり合える親友関係も教師生徒関係も親子関係もなくなることの予測です。的中しました。今は共同体が消えて生活世界は体験できない。大人に加えて子供までどんな悩みも話す≒話さなくても分かり合う営みを失って互いが置き換え可能になりました。

民主政に引き付ければ、フランス革命前にルソーが民主政の条件として示す「この決定で自分はいいがアノ人やコノ人はどうなるんだと想像して懸念する感情能力」の消失です。すると人々は政治信条や宗教信条や価値観の違いで直ちに「敵味方図式」を駆動させて、動員合戦と攻撃合戦に勤しんでリソースが豊かな者だけが勝つだろう——これも的中しました。

60年代に小学生だった僕は、親から「人に物語あり」と教わります。乞食もホームレスも頑固オヤジもヒステリーババアもそれぞれに共感可能な物語がある。見掛けやカテゴリーで判断しちゃダメと。それで、所属の政治党派や宗教団体で敵味方図式を駆動させる前に、腹を割って話そうと呼び掛けていた新右翼一水会創設者の鈴木邦男氏からも高校で影響されます。

僕の親や鈴木邦男氏の如き語りは、共同体で生活世界を生きてきた体験に拠ります。僕にもお百姓の子・お店屋の子・地主の子・医者の子・ヤクザの子らと年齢性別混ざって遊び、よそんちで御飯を食べて一緒に風呂に浸りました。そんな体験を欠く「育ちの悪さ」が言葉のカテゴリーにテンプレを結合して、差別や敵味方図式に淫するクズを育てあげて来ました。

子供の体験としては、メディア体験も大切。60年代の子ども向けコンテンツでは円谷英二・水木しげる・手塚治虫が、善に見える人間が悪で、悪に見える怪獣・妖怪・猛獣が善だと語ります。80年代からの宮﨑駿も見えない世界を含む生態学的全体性を描く。『風の谷のナウシカ』では、ヒトを脅かすと見える腐海はヒトが汚した土壌を浄化してくれて、腐海を王蟲が守ります。

現在は目に見えるものが全てじゃないという感覚が消えた。『怪物』が描く社会もそう。でもトンネルを抜ければ社会が消去した「森=いちゃいちゃ次元」がある。最後は森が台風の崖崩れで潰れて、天国で永遠にいちゃいちゃできるようになりました。是枝監督は24年前の初期作品『ワンダフルライフ』で天国を描きましたが、久々にまた天国が出てきました。

今回は二人には「最後の救い」で、僕らには「永久の絶望」です。この社会では言外の戯れである「いちゃいちゃ次元」「同じ世界で一つになる営み」「フュージョンしてフローする営み」を願望しても期待できないと宣言されるのですから。もう無理だと。でも相対的に感情能力の高いゼミの学生たちでさえ、それを読み取れる人がとても少ない。なぜでしょう。

子供の頃は空き地に、土管に加えて廃車や廃バスが放置されていました。草が生えてしまった車が転がっていたんです。今は沖縄の離島を除くとありません。土管や廃バスに入って、言語外的フュージョンを体験するのは僕らにとって当たり前でした。今の離島には土管や廃バスがあっても、そこで遊ぶ子供の姿はありません。だから僕が土管や廃バスの中で佇みます。

──ちょうど前号のエスで廃墟の特集をおこないましたが、廃墟では都市(社会)の機能が止まっていると言われていて、だから廃墟にいると、逆に癒されることがあるということを記事にしました。

宮台 優れた特集です。都市が機能する時は、システムの出番はあっても人間関係の出番はなくて、万事自動的に進行します。でもシステムが災害などで破滅すると、再び人間関係が——人間関係が人に与える力や、人が人間関係に与える力を含めて——前景化します。すると人は悲劇を体験したのに力を得ます。レベッカ・ソルニットが『災害ユートピア』で描きました。

前回話した予測符号化理論の予期理論的応用で説明します。兆候だけで十全な認知を代替する予測符号化は全動物にある。さもないと捕食されたり捕食対象に逃げられます。ヒトは予測符号化に言語を持ち込んだ。当初は言外の感知を要したけど、文明化で言外をキャンセルしても生きられるようになります。文明化とは原生自然の間接化による大規模定住化です。

でも言外の触知を閉ざされるとヒトは力を失うので祝祭で回復しました。社会(言語・法・損得)と祝祭(言外・法外・損得外)の制度的分割です。近代が進むと社会に登録された祝祭に傾きます。言語・法・損得の時空の外に出ない疑似祝祭。タブーとノンタブーの反転はない。祝祭と切っても切れない性愛も疑似祝祭化で社会に登録される方向になりました。

ヒトは言外のコールにレスポンスするゲノム的潜在性を持ちます。ただしこの潜在性は言語で上書きされます。トロッコ問題を実証調査したハウザーは、功利論的には合理的でも眼前の人間に手を下せないという「感情の越えられない壁」を見出します。でもサンデルは眼前の人間の人種・性別・年齢などで壁の高さが変わるとして、共同体による言語的上書きを見出します。

サンデルは共同体文化の負荷がない自己はないとして、共同体主義擁護の文脈ですが、その応用で言外のコールにレスポンスする能力をキャンセルする文化があり得ることになります。するとヒトは力を失って毎日がつまらなく生きづらくなります。精神医学的な抑鬱化。すると一定確率で「全て滅びてしまえばいい」という加速主義の構えが生じることになる。

──都市と人との関係は複雑ですね。映画『怪物』では、廃墟が森の中にあるのも印象的でした。

宮台 ボタニカルなものに覆われる廃墟のイメージがあります。廃墟と森が結びつくのは森がフラクタルだから。フラクタルは際限なき曼荼羅で、輪郭がなく、部分と全体の区別がなく、どのスケールでも同じ形です。これは文明を支える言語体系の外にある未規定性。ゆえに子供たちは森で力を得ます。同時に、言語で規定された世界で力を失うことを意味します。

これはアジア的なバラック都市と欧州的な計画都市との違いに関連します。原生自然から離れた、構築で威信を示す文化ではシンメトリーと高さに執ります。日本を含むアジアの都市には、王宮を除けば元々シンメトリーも尖塔もない。構築された作品ならぬ自然成長に委ねたバラック。都市が森のよう。だから人に力を与えます。バックパッカーブームの背景です。

ブームは80年代後半で、今は途上国を旅しても森のような都市を昔ほどは体験できません。でも今話した概念図式を頭に置けば残響を見出せます。ちなみにCGアーティストのジュリアス・ホルシスはフラクタル関数を用いて現実の森より森らしいCGを連作した後、同じ手法で昔のアジアの都市より「森のような都市」らしいCGを作り始めたことが参考になります。

ボタニカルな廃墟は階層的に構造化された秩序が、フラクタル状のバラックに崩れたもの。それで僕らがワクワクして力を得るのは、全てのモノが僕らを見ていると感じるからです。つまり僕らが原初のアニミズム的感受性に還るのです。アニミズムの本質は万物に見られること。万物に魂が宿る云々のスピリチュアリズムは、キリスト教圏への翻訳に過ぎません。

渋谷の街を歩いて「PARCOのビルに見られている」とは感じません。でもPARCOが廃墟になればそう感じる。なぜか。アニメ『鉄コン筋クリート』を監督した元ニューヨーカーのマイケル・アリアスが日本に帰化した理由がヒント。彼は、下北沢や吉祥寺にあった焼け跡の闇市的なバラックに魅力を感じたと言います。十数年前まであったし、もっと前は荻窪にもあった。

彼は、蜘蛛の巣が張る軒下やヒビ割れて古びた壁が、設計されたモノならぬ自然成長した生き物に見えたと言う。確かに生き物なら僕らを見ます。インディオ研究を下敷きにした環境倫理学者キャリコットは、機能的な空間と違って、「生き物としての全体性」を示す場所が人の尊厳を支えるとします。アリアスは場所が生き物であるための条件を語ったのです。

廃墟とバラックは近縁です。廃墟は「自然に」古び、バラックは「自然に」成長する。全体像が不明で、未来も予測できない。新住民の安全・便利・快適化は、秩序が人を幸せにするとの前提に立つ。でもゲノム的には渾沌が人を幸せにする面がある。先に話した「予測符号化理論の予期理論的展開」に従えば、「予測的符号の外側」が人に力を与えるからです。

幾度も対談してきた黒沢清監督は、映画作りの醍醐味は予想もしなかったものが出来るからだと言う。表現に普遍的に妥当します。表現し終えるまで何を表現しているのか未規定だから、表現に動機付けられます。やってみなきゃ分からない。渾沌への飛び込みだからワクワクします。そう。言外・法外・損得外の時空にある祝祭と性愛にも同じことが言えるのです。

──なるほど。輪郭がなく、混然一体となって、部分と全体の差がない。廃墟と森と性愛がそのようにつながるんですね。そこで人が力を得るということが「いちゃいちゃ次元」という形で、『怪物』でも描かれていたというわけですね。

 

身体的な接触による
コミュニケーション

──いちゃいちゃ次元と関係すると感じたのが、最近よくメディアで話題になる、昭和と令和の違いです。昔のバラエティ番組が紹介されているのですが、すごく身体的接触が多いと感じました。女性が男性の肩や背中を叩いたり、素人の男の子も芸人をパンパン叩いていました。番組観覧者がヤジを飛ばすと、その客を出演者が殴りに行って乱闘になったりして。こういう光景は今は見ないと思います。

宮台 単純な原則。トラブルを避けたいなら距離は遠いのが良い。まして接触は無いのが良い。身体距離が近いとトラブルも起きます。冗談で叩くと「本気で叩いたな」と強く叩き返され、エスカレートしてぐちゃぐちゃになる(笑)。昔の子供にあるあるです。かくして雨降って地固まる=喧嘩して仲良くなる。本音を語れる関係への踏み石と理解されていましたね。

僕が西部邁氏と仲良くなったのも、『三島』vs.「全共闘』で有名な元全共闘・芥正彦氏と仲良くなったのも、園子温監督と仲良くなったのも、近く上梓される僕の自叙伝をプロデュースしていただいた近田春夫氏と仲良くなったのも、喧嘩から。古くは東大社会学の主任・高橋徹教授と院試前日に飲み屋で大喧嘩した後、なぜか合格させてもらえて仲良くなりました。

芥正彦氏と園子温氏との喧嘩は同じプロセスでした。壇上で揉めて「表に出ろ!」「出てやろうじゃないか!」と立ち上がったら、「ゲストがいなくなったら困ります!」と司会に止められた。芥氏との喧嘩は、彼の芝居のポストトークに呼ばれた時。二度と呼ばれないなと思ったら新作で再度呼ばれ、また「表に出ろ!」。ところが最近また呼ばれました(笑)。

元・赤軍派議長の塩見孝也氏やブント議長の荒泰介氏とも壇上の喧嘩で仲良くなりました。なぜそれがあり得るのかが若い人には分かりにくい。第一は、忖度なく本気で喋る構えに、互いに「意気に感じる」から。第二に、喧嘩慣れでアンガー・コントロールできるから。ただし「怒らない」ということじゃなく、「激烈に怒る」けど「やり過ぎない」ということです。

関西で小学校時代を過ごした僕は、毎月のように取っ組み合いしました。慣れてくると喧嘩は観客がいる見世物になります。噛みつきや目潰しなど「やり過ぎ」は先生が呼ばれてダメ。「やらな過ぎ」もヘタレの烙印を押されてダメ。プロレスみたく「派手なワザに見えて効かない」絶妙なあわいを狙います。本気に見えて、実は観客を意識して計算しています。

「朝まで生テレビ!」など論争に強いのもそれ。壇上や番組での喧嘩では、相手の言葉にダイレクトに反応するのでなく、司会者や観客や視聴者がいるのを前提に、どう見せるかを自然に意識します。壇上での「表に出ろ!」「望むところだ!」は、立ち上がった時点で司会が止めに入ることを互いに——後に芥氏などに確認しました——当てにしてのことです。

「意気に感じる」について。喧嘩して仲良くなった有名人は十数人います。例外なく「ヒラメ・キョロメでポジション取りする忖度野郎=損得野郎」じゃなかった。もとより「大勢の影に隠れて気勢を上げる」「匿名だと威勢がいい」タイプでもなかった。そんな輩を僕ら世代までは「弱い犬ほど吠える」と軽蔑します。とすれば、喧嘩で相手を評価するのは合理的。

喧嘩した経験がない人は、いざ喧嘩になると感情をコントロールできません。危険な営みをした経験がない人は、非常時に危険な営みを要求された際にどこからが危険なのか判断できない。だから子供らに言います。「喧嘩してもいい。叩いてもいい。規則を破ってもいい。嘘をついてもいい。でもやり過ぎはダメ」。子供らは「どこからがやり過ぎ?」と返します。

僕が答えます。「その質問を待っていたよ。それが分かるようになるのが成長だ」。子供らが訊きます。「どうしたら成長できる?」。再び答えます。「実際に喧嘩してみる。叩いてみる。規則を破ってみる。嘘をついてみる。それで周囲と自分に何が起こるかを経験する。それでどこからがやり過ぎなのかが分かるようになる」。『ウンコのおじさん』に詳しく書きました。

──宮台さんのお話は、喧嘩しても関係が切れないということですよね。そこがすごいと思います。私の場合は、喧嘩ではないですけど、小学生の時はよく男子の背中を叩いていました。確かに気を遣わない身体的接触だったと思います。中学生になったら、そういうことはありませんでしたけど。

宮台 小学生では、女子は男子を叩きまくった方が良い。僕の経験では基本そうした女子は男子に対して弱い立場に立たずに、言いたいことを言える大人になる。五人きょうだいで一人だけ女だった母は、小学生時代に帚などで男子を叩きまくりましたが——写真がある(笑)——僕にいつも言っていた。「その場で戦わないで、後でグチグチ言うようなヘタレになるな」と

基本の論理は「叩かない学級委員」は暴力に割って入れないから「叩く学級委員」であれ。それには「叩くとどうなるか」を叩く経験で学ぶ必要がある。昭和の経験を話します。小4年までは男女が対等にいちゃいちゃしますが、第二次性徴が始まると「女子の胸は触っちゃダメ」と言われます。でも鬼ごっことかをやっていると、偶然触れちゃうことがあるんですね。

よく覚えているけど、小5の時に鬼ごっこで「タッチ!」と叫んで触ったら、女子の胸をギュッとつかんじゃって二人とも何秒間か固まりました。実際に何秒間だったのか分からないけど永遠の時間でした。その後はそれまで互いに何も意識していなかったのが急に意識するようになりました。甘酸っぱい何かが始まっちゃって、バレンタインをもらいました。

──今だとアニメで見るエピソードですね(笑)。昔のバラエティ映像を見ていて感じたのは、乱暴なことがあっても、全部その場のコミュニケーションで解決するから構わないというムードです。だから事前にコンプライアンスを意識して自粛しなくても良かったのかなと。規則を作って個別にコミュニケーションしないで済むようにしているのが現在ですね。

宮台 鬼ごっこのエピソードもそれ。過剰な事前コンプライアンスがあれば僕の不用意さは生じず、生じたとしても嫌悪と罪意識しか生じず、「ごめんね」「いいよ」のテンプレで終了。実にイライラしますが、親と教員のせいです。「トラブルも危険も最小限に!」となったら未規定な体験が生じることはなく、全てが言葉・法・損得の枠内で生じるようになるのです。

──大人も触れ合いが減っていますよね。昔の映像を見ていると、大人の女性が気軽に男性に触っていました。性的な感じでもなく、男女の距離が近いな…と思いました。

宮台 90年代までは大人でもやたらと触ってくる女がいました。「これはどういう意味なんだ?」と考えるわけです。それで改めて彼女の振る舞いを観察して「触り癖だから、意味はないな」と、いったんは思うものの「それでも僕に対しては触る頻度が高い気がする…何か意味があるのかな」と思う。そんな曖昧さに耐えて慎重に判断するのが重要な訓練になりました。

女の人もそんな曖昧さの中で意思を伝えた。何かを渡す時にワザと手に触ったり。万年転校生だった僕は女子にかまわれることが多かったけど、「あ、わざと触ってるな」と感じても、女子の側には幾らでも言い訳する余地が残っていました。だからゆっくり距離が縮まり、「コクってイエス」で「カレシ・カノジョ一丁上がり」という今日的愚昧はなかったです。

──今だと「あざとい」とカテゴリー化されて、自然ではなく、「そういう人がやるものだ」という風に色がついていますね。予測符号化されていると言いますか。私のお母さんは時折エス編集部のスタッフと会うんですけど、すごく編集部の子たちを触るんですよね。みんなびっくりしていて。

宮台 小学校で「プライベートゾーンは触らせてはいけない」と教え過ぎるからですね。するとプライベートゾーンじゃなくても触りにくくなり、触られたことを言いにくくなって当たり前です。「性教育専門家」の頭が悪いのです。それでも経験値が高ければ大丈夫だけど、それもない。あなたが言う通り「何でも話せて個別にコミュニケーションする」のがいい。

それには、よく分からないことについて違和感があれば、頭ごなしに白黒つける前に、判断に必要な文脈情報をたくさん与えることが必須です。それを社会学的啓蒙と呼ぶと前に言いました。例えば30年前から語る通り、エロ出版社の仕事をしていた時に調べたら、ロリコン趣味ゆえに小学校教員や塾講師を選ぶ男が相当数いました。そうした情報を伝えるのです。

すると「人間不信になる」との声が上がりますが、性教育に反対して「寝た子を起こすな」とホザく輩がいるのと同じで、文脈情報を何も伝えないがゆえの衝撃の増幅で、遙かに強い人間不信に陥ります。そんなこともあり得るという情報で免疫化されていれば、「そんな人もいるが、皆じゃない」と構えて、被害体験による「言葉の自動機械」化を避けられます。

90年代半ば以降のインターネット化、特にスマートフォンが出来た2007年以降のSNS化が、大きいです。言語情報が大量に入って来て、いろんなものに言葉のラベルが付されて、良いか悪いかの値も付けられています。決めつけずに判断材料を提供する社会学的啓蒙とは対照的で、未規定性を覆い隠す神経症です。これは予測符号化理論的にも非常にまずい。

本来なら、言語外的なものを触知して「これは何なんだろう?」とコンテクスチュアルに状況を見つつ自分で判断すべきものが、事前に全て予測符号化されてしまうからです。「何をやってはいけないか」という言語的縛りがタイトになり、その中で振る舞うよう促されるのです。すると予測符号化できない未規定性に触れて力を与えられる機会まで奪われます。

連載で話してきた通り、性愛は祝祭と同じく、社会に寄生しつつも社会の外にある緩衝帯。「社会と同じじゃいけないが、何でもありでもいけない」という微妙な時空です。この未規定性を壊し、全て事前に社会に登録すると、性愛も祝祭もコスパとタイパで評価されるようになり、性愛からも祝祭からも退却します。統計が示すように現実にそうなりました。

数理生物学者・郡司ペギオ幸夫氏も言う通り、人は本来何だか分からないものにワクワクします。彼の言葉では「否定的アンチノミーと肯定的アンチミーの共起」。「もしかして気があるのかな…。あ、他の人にも同じようにやってる。気のせいか…」。鬼ごっこの話では、固まった時間が何なのかに悩んでぎこちなくなりましたが、振り返れば光り輝く時間でした。

──わからないことが起こった後に、自分で思いを巡らせる時間ですね。いちゃいちゃも同じで、名付けられないような、どんな関係性か言われていない段階のことだから、未規定性を塞ぐための情報が多過ぎる世の中だと、どんどん減っていってしまうのですかね…。

宮台 緩衝帯を許容しない社会がクソ社会。クソ社会かどうかは「つまらない=力を失う」対「ワクワクする=力が湧く」という実存に即した二項図式で測れます。つまらない社会では人は不安になり、不安の埋め合わせで「生きる意味」を問い始めます。すると「敵と戦う」がでっち上げられ、劣化した感情を釣るポピュリズムやSNSのクソリプ湧きに繋がります。

繰り返します。「叩いても、嘘をついても、大体何をしてもいいが、やり過ぎはダメ」「どこからがやり過ぎ?」「経験を通じて成長して自分で見極めるの」「どんな経験?」「いけないことをちょっとやってみる経験だよ」。ヘタレな大人が「ハラスメントだ!」「プライベートゾーンだ!」と外から言葉で定義するのを真に受ければ、魅力のない大人になると教えます。

「魅力のない=つまらない大人」は毎日がつまらない。毎日がつまらない大人は「魅力のない=つまらない大人」。ただし経験的には、思春期以降、不登校を含め毎日がつまらなくて仕方ない子には見込みがある。緩衝帯を許容しないクソ社会に適応しないからです。緩衝帯を許容しない言葉・法・損得に閉ざされたクソ社会に適応すれば、魅力なきクズになります。

 

性愛の3つの次元に
絡まった言葉の縛り

──「いちゃいちゃ次元」についてもう少し伺いたいと思います。それは自然と身体的接触が起こっていく段階なんですよね。その段階に、「関係性次元」、「社会的承認次元」が後続していく。3つの次元のプライオリティをどうするかを最近の宮台さんはよく語られていますね。

宮台 「いちゃいちゃ次元」は言語以前的。言葉による制御じゃ実現できない。子供時代のフュージョン体験を思い出せる人は思い出すといい。「気がついたら別の状態にシフトしていた」という感じ。一方が他方をコントロールする非対称性はない。性愛の「いちゃいちゃ次元」で言えば「双方とも」気がついたらセックスをしていたという体験になります。

それは意識的選択という「行為」じゃなく、気がついたら…という「体験」です。ネットのQ&Aにありがちな「何回目のデートでセックスしたら良いですか?」みたいな言語的コントロールは、鈍感さをテンプレで埋め合せるショボい営みです。双方とも「いちゃいちゃ次元」に開かれていれば、シンクロ率次第では、初回デートで自然にセックスに至ります。

それこそ映画『怪物』で描かれていた、子供同士が社会の外で戯れている感じです。「偶然そうなってしまう」のです。ところが「偶然そうなった」では済まない段階が訪れます。自分達はどういう関係なのかを言葉で定義せざるを得なくなる。特に片方か両方に恋人や結婚相手がいる非正則的関係では、「遊びなの? 本気なの? 」という問い合いが生じるのです。

クオリア(体験質)のない人が聞くと難しいでしょうが、出発点では「浮気なのか? 本気なのか? は保留して、二人で一緒にいる特別な時間だけが尊い」という瞬間恋愛の反復があり得ます。そこでは「いちゃいちゃ次元」は言葉による当て嵌めの界隈から見たアジール(治外法権圏)です。さもないと「自堕落な関係があるだけ」となって、萎えるでしょう。

ところが言語以前的「いちゃいちゃ次元」を長く継続するのは難しい。言語的「関係性次元」で「本気か? 遊びか?」「あなたは私のことを本当はどう考えているのか?」、要は「私は入れ替え可能か? 入れ替え不能か?」を問いたくなります。それは「互いに入れ替え不能だ」と感じられることの享楽が、「いちゃいちゃ次元」の享楽を恐ろしいほど増幅するからです。

なぜ増幅されるのか。恋愛史で話した通り、内在から超越に離陸することが享楽だからです。内在は入れ替え可能な部分性。超越は入れ替え不能な全体性。全体は定義からして入れ替えられません。入れ替えられない全体へのエンゲージメントが人類学的普遍なのを見ると、社会編成の必要から来る進化生物学的な達成としてのゲノム的基盤があるでしょう。

話を戻すと、どこかの時点で関係性に合意しなければならなくなる。さて合意したにせよ、片方ないし両方にパートナーがいたら、社会は認めてくれないと感じます。その時に二人が「社会が裏切りだと非難する関係はイヤだ」と思わず、「社会なんてどうでも良い」と思えるか。それが「社会的承認次元」です。以上の三層構造を中高生になれば知る必要があります。

──いまパートナーがいる段階での話になっていますが、私たち読者でいうと恋人がいない人も多いですから、いっとき恋人になれたと思っても、言葉で規定される関係や社会的承認がハードルになると捉えておきます。学校に行ってないとか、絵を描いていて就職してないとか、相手の家族によく思われないこともあると思いますので…。

宮台 中高生に伝えたいので問題ないです。伝えたい理由は、何が障害になり得るのかを言語化しておかないとミスるから。「いちゃいちゃ次元」の奇蹟的シンクロのような、言葉にならないものを擁護するには言葉が必要です。だから連載で言葉を使っています。「言葉にならないものを自分は擁護するぞ」も言葉です。言葉がないと言語以前も蟻の一穴で崩れます。

「いちゃいちゃ次元」にはアフォーダンスの身体能力とミメーシスの感情能力の両方が要ります。前者が身体的「なりきり」。後者が感情的「なりきり」。両方に恵まれても「いちゃいちゃ次元」は持続不可能です。近代というとびきり複雑な文明社会を生きているからです。「関係性次元」と「社会的承認次元」への対処戦略を整えて、初めて持続可能になるのです。

「いちゃいちゃ次元」の奇蹟的シンクロにはセックスの相性がすごく良いことが含まれます。イケメンとかカワイイとか外見で識別できないぶん、とても稀になります。せっかく稀な相手を見つけても「関係性次元」と「社会的承認次元」で言語的に合意できずにダメになるのは残念です。だから性愛に飛び込む前にちゃんと問題を識別する能力を身につけるのです。

──「社会的承認次元」には、私たちが自分の恋人のことを友だちに話して、周りから賛同を得られるかどうかを気にすることも含まれるんですか?

宮台 まさにそれが「社会的承認次元」の核です。

──極端な例だと、友だちに自慢出来ないから恋人のことを話さないとか…。

宮台 いや。問題は「友達に自慢できない相手は恋人にしない」という2010年頃から拡がった構えです。なぜ問題か。本来は社会の時空=言葉・法・損得の界隈とは、区別されるべき性愛の時空=言外・法外・損得外の時空を、社会に従属させるからです。本気なの? 遊びなの? 的な「関係性次元」をすっ飛ばし「周りが認めないからダメ」となるのは感情的劣化が過ぎます。

「いちゃいちゃ次元」の外にある言葉の時空で「周りがどう見るか」でなく「自分達がどう定義するか」に合意しないと、「いちゃいちゃ次元」の奇蹟は一瞬で終了します。ただし合意のエネルギーの多くは「いちゃいちゃ次元」の奇蹟のシンクロ率に由来します。だからデートやセックスはこんなものというテンプレに甘んじれば、濃密な関係の持続は難しい。

 

性愛の願望は本当は
テンプレの外にある

宮台 テンプレに甘んじないとは「いちゃいちゃ次元」の高シンクロ率に執ることです。そのシンクロには、一緒に散歩して同じ世界に入る水準から、セックスで互いが意識を失う水準まであります。散歩水準のシンクロに留まり、セックス水準のシンクロを無視すれば、セックス水準のシンクロが可能な新たな相手を、どちらが見つけた時点で関係は終了です。

だから昨今軽視されがちなセックス水準のシンクロを深めます。80年代末からパソコン通信、95年からインターネットが拡がり、いろんなセックスをする人々が可視化されました。その表れの一つが80年代末からほぼ10年間続いたスワッピング・ブームです。中心は僕の世代です。連載で話した通り「テンプレの外で究極の愛を探求する営み」が模索されたのです。

既に話したので短く言うと、当時は僕の世代を中心に「露出プレイ」「SMプレイ」「複数プレイ」など「〇〇プレイ」が盛んでした。女達がプレイ経験を聞きたがるので、話すと、「エロ小説やエロ漫画を読んだみたいでめちゃめちゃ濡れたよ」となりました。当時の僕は、真剣に愛せないがゆえの希薄さを、プレイでの「女の興奮」で埋めようしていました。

僕にはフェチ傾向が弱くダイヴ傾向が強い。だから不特定者が単独参加するオージーでは、プレイヤーとして優秀でも、眩暈を覚えるほどは興奮しない。でも恋人同士で参加するスワッピングでは、恋人が眩暈の渦に巻き込まれれば、ダイヴによる「なりきり」で僕も同じ享楽に浸れます。だからそうした状況に向けたセットアップに努力するようになりました。

語りたいのは女の状態です。交際したのは自慰をする女ばかりでした。女達から自慰のオカズを聞き出してみると、やや激しめのSM妄想やレイプ妄想でした。「それって現実化できたらどう?」「そんなの無理」「僕なら現実化できるよ」。実際、AV男優や複数プレイ仲間・SM仲間に協力を仰ぎ、度々現実化しました。すると女達が飛ぶので、僕も飛びました。

女達が本当にしたいことは自慰のオカズに表れます。それを現実化することは本当にしたいことをすることです。それで女達が飛ぶということは、本当にしたいことをすれば飛ぶということです。重大な学びでした。でも、次第に自慰のオカズの現実化を欲望する女達が減りました。イレギュラーな営みの敷居が上がったのではありません。なぜそう言えるか。

ゼロ年代になると〇〇プレイの経験率自体は増えたから。でも女達は、自慰のオカズの現実化ではなく、カレシがしたがるから応じるだけで、プレイで飛ぶことはないと言う。実際、女達は、自分がしたいことを問われても、言わなくなりました。第一は、男に引かれたくないからというパターンで、第二は、自慰的妄想の強度自体がさして高くないパターンです。

共通点は、願望水準(本当にしたいこと)が、期待水準(できそうなこと)に引きずられて下がったことです。期待水準から懸け離れた願望水準を折り畳み、やがてそれを忘れます。それが、連載で繰り返した「キャラ&テンプレへの閉ざされ」として表れます。一口で「登録されていないものの忌避」です。背景は、言葉・法・損得の界隈である社会への過剰適応です。

こうして女達がセックス水準の高シンクロ率を願望しなくなりました。どうせそんなものだと。でもフロイトに従えば「抑圧されたものは回帰する」。ここ数年の女風(女性用風俗)の隆盛には、性愛市場での賞味期限を意識した30代半ば以降の女達の、「このままセックスで飛ぶことを知らずに死にたくない」という「折り畳まれた願望の回帰」を見て取れます。

僕が巻末対談に参加した菅野久美子『ルポ女性用風俗』は必読です。女風クライアントは世に言う真面目な女達です。役所や会社に正規雇用される女達が大半で、多くが既婚です。「未来は無限」と思える若い時分と違い、(現実と乖離するものの)賞味期限切れが意識されると、性愛に関する思ってもみなかったリグレットが生じ得ます。それを忘れちゃダメ。

ここからは男向け。女が「あなたがした(またはあなたがやれそうな)〇〇プレイをしたい」と言う時、プレイすべきか。僕の真似をした男達を見る限り、慎重になるべきです。どのプレイも、女が飛ぶほどのものは簡単ではありません。女ごとに違う「それをどう感じるか」を「なりきりシミュレーション」しつつ、女が飛ぶように演出する必要があるからです。

まず、自慰妄想を精査して女の願望を見極めないといけません。次に、願望通りの状況をセットアップできるかを精査する必要があります。両方できる人が元々珍しいのに加え、今は女が本当の願望を言わないので、セットアップに手間が掛かります。うまく行かなかったら「お清めセックス」でぎこちなさを修復する必要もあり、真剣な愛が不可欠になります。

今も昔も広く興味を持たれるのは「複数プレイ」ですが、女の自慰的妄想の現実化が最も難しいです。協力者が女の心身をモニターする能力を欠く自己中心的な男だと悲惨な結果になるし、最近の男には互いの下ネタを完全共有して分かり合える仲間がいません。だから、言葉を用いてあたかもその場にいるように感じさせる「再現プレイ」が、まずはお勧めです。

「再現プレイ」が上手にできないのであれば自慰的妄想の現実化は無理だし、「再現プレイ」だけで女が飛ぶのであれば現実にやる必要は薄くなります。僕の場合は「再現プレイ」を重ねた末、誕生日サプライズみたいなものとして現実化しました。それがうまく行けば、散歩水準のシンクロを遙かに凌駕するセックス水準のシンクロを互いに確かめ合えました。

──プレイをどの相手にも同じようにおこなっていたら、交換可能ということですもんね。同じ「複数プレイ」という言葉でも、その人が思い描いていることを感じ取らなければいけないですよね。

宮台 さもないと「テンプレの変態プレイ」に堕し、女は入れ替え可能なモノに落とされたと感じ、傷付きます(落とされを望む女がいるのは別問題)。セックス水準の高シンクロ率はテンプレの外にあります。でも、テンプレの外での〇〇プレイで高度にシンクロできるなら、そもそも〇〇プレイがなくてもセックス水準の奇蹟的シンクロを体験できるのです。

相手の眼差し、肌の赤らみ、全身の体温変化、膣内の動き、呼吸変化などに「コール」されて、手・足・全身による愛撫、ストロークの角度・速度・頻度、ピロートークなどで自動的に「レスポンス」できれば、瞬間瞬間に女が最も望むものが与えられるので、女が飛びます。研ぎ澄まされた「普通のセックス」が眩暈の渦であれば、〇〇プレイは必要ないでしょう。

以上、男向けに話した部分を、女性読者は「いちゃいちゃ次元」でセックス水準の奇蹟的シンクロを与えてくれる男がどんな存在か理解するために読んで下さい。それを元に、「テンプレはつまらない=テンプレの外が凄い」という一点だけ確認して下さい。本当にシンクロ率が高ければどんな〇〇プレイも可能ですが、その場合は、プレイしなくても飛べます。

──いわゆるテンプレと言われるデート、映画を見た後にディナーとか、メディアやSNSで社会的に設定されたものは、自分が本当にドキドキする性愛のあり方なのかということですね。それより世間が認めてなくても、自分の中に湧き上がる性愛の願望、妄想していることがあるのではないかと…。

宮台 女にも好奇心があって自慰で妄想します。その妄想は現実化できます。現実化できる男を見つけるのは一つの戦略です。見つけられれば〇〇プレイをしなくても過呼吸・落涙・気絶を伴って飛べます。それを支えるのが「いちゃいちゃ次元」の高シンクロ率。良いセックスはその意味で相手を選ぶ必要があります。ただしイケメンとのテンプレ・デートは無関係です。

性愛については元々全ての人が言語的抑圧を受け、一部は精神的外傷を被っています。「いちゃいちゃ次元」のシンクロに加え、相手の経験が豊かなら、超自我的二重性として話したようにタブーを反転した享楽があり得ます。代々木忠が『プラトニックアニマル』で示したように精神的外傷の周辺にロールプレイを構築し、享楽を伴いつつ外傷から離脱できます。

別の本で書いたように僕はこれらを経験して来ましたが、奇蹟にもトリックにも見えるこうした性愛の可能性も、言外・法外・損得外にある「いちゃいちゃ次元」の高シンクロ率に由来すると経験的に言えます。ただし「いちゃいちゃ次元」のシンクロが散歩水準のシンクロに留まれば無理です。セックス水準のシンクロへと昇格して、初めて可能性が開かれます。

 

ゲノム的な潜在性を
覆い隠さないために

宮台 「いちゃいちゃ次元」でシンクロする能力は万人にゲノム的な潜在性としてあります。でも潜在性の顕在化(認知的発達)には臨界期までに適切な刺激が必要です。以前話しましたが、シュタイナーは3つの臨界期を考えます。第1臨界期は「ワクワクする力」、第2臨界期は「感覚データに惹かれる力」、第3臨界期は「論理に惹かれる力」に関連します。

各々の臨界期は7歳、14歳、21歳だとされますが、子育てや大学教育の経験から当てにならないと感じます。でも順序はロジカルです。ワクワクする力がないと感覚データに惹かれない。感覚データに惹かれる力がないと論理を誤用する。ワクワクする力と感覚データに惹かれる力が「いちゃいちゃ次元」に、論理に惹かれる力が「関係性次元」に関連します。

性愛の営みに致命的なのは「いちゃいちゃ次元」の劣化。ワクワクする力が与える「自己信頼」と感覚データに惹かれる「五感のダイナミズム」の未発達です。自己信頼と五感のダイナミズムが欠けると「委ねと明け渡し」ができず、言葉で論理を紡いだ「自己防衛」が過剰になります。僕が「感情的劣化」と呼ぶものです。若者達が広く見舞われています。

予測符号化理論の予期理論的展開に引き付けると「言語的予測符号化で、言外の感覚データから閉ざされ過ぎた状態」です。カテゴリーにステレオタイプを結びつけるだけの「キャラ&テンプレ」的性愛がそれ。「言語的予測符号化で、言外の感覚データから閉ざされ過ぎた状態」は人から力を奪う=ワクワクしないので、性愛から退却、自己防衛で正当化します。

自己防衛で性的に退却するのではない。孤独研究によれば、自己防衛で孤独になるのではなく、孤独だから、孤独のつらさを見ないように「周囲は加害だらけ」と自己防衛を持ち出す。「いちゃいちゃ次元」の劣化で「委ねと明け渡し」ができず性愛的に孤独だから、孤独のつらさを見ないようにクソフェミの加害・被害教育を「渡りに舟」に自己防衛を持ち出す。

加害・被害教育が蔓延する中、森のようちえんに通ってワクワクする力と五感のダイナミズムを得て「いちゃいちゃ次元」に開かれた子供の多くは、大人になっても性的に退却せず、「キャラ&テンプレ」に違和感を覚え、願望水準を維持して願望に見合う相手を見つけようとします。みなさんも「いちゃいちゃ次元」の記憶があれば、導きの糸にしてほしいです。

──言葉やテンプレに囚われないから、他人と関係するときも、その人と向き合う性愛をつむげるのでしょうね。それでは、この続きは後編にてお話していけたらと思います。ありがとうございました。

 

性愛に踏み出せない女の子のために

後編につづく