対談・インタビュー

  1. TOP
  2. スペシャル記事
  3. 対談・インタビュー
  4. 性愛に踏み出せない女の子のために 第12回 前編 宮台真司

性愛に踏み出せない女の子のために 第12回 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第12回 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第12回誌面版と同内容の前編と、WEB上で第12回の中編、後編を公開。前編は、推しを汚してしまうと思う感情について語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

第12回は前編が誌面掲載と同内容、中編、後編はWEBオリジナルです。

 

前回の第11回は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai11a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/
第11回は「季刊エス83号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CGJ11W58
第12回は「季刊エス84号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CN8ZJS32

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近刊は『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』『子どもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝との共著)、『神なき時代の日本蘇生プラン』(藤井聡との共著)。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


推しを汚してしまうと思う感情

──今回は、宮台さんが最近の聞き取り調査の中で、気になって考察した事柄があるというので、それについてお話いただきたいと思います。

宮台 最近、大学生たちの性の現状について聞き取りをして驚きました。「自慰する際に推しの子を想像することがあるか」を尋ねたら、殆どが「ない。推しを汚したくない」と答えたのです。僕が1990年にメジャーな雑誌の支援を得て大学生女子の性行動を調査した時は、「自分がファンであるアイドルを想像する」のが普通でした。これは驚くべき変化です。

東大・早稲田・青山・立教の4大学でサンプリングしました。自慰の頻度は東大が他の三大学平均の2倍で、あとは偏差値順です。自慰の際に想像するのは、好きな同級生・先輩・先生・アイドルとバラけました(複数回答)。「好きな」というのは、片想いを含みます。また、当時は教師と生徒の恋愛が当たり前だったことにも注意してください。

勤務先だった東大での男女学生のインタビュー調査で補強しました。医学事典を含む当時の研究レポートでは、女の自慰は具体的な想像が男より乏しく、雰囲気的なものだとありました。それは確認できました。ただし今と違い、男も自慰を始めた当初は、グラビアやブロマイドをネタにするものの、雰囲気的で曖昧な想像なのは、女と大差なかったです。

男は小6から中2にかけて精通します。精通の多くは夢精です。そこで初めて射精に到る性的想像に触れます。僕も中1の終わり頃に夢精しました。僕が心を寄せる女子が牧場の柵に寄りかかっていて、招かれて近づき、ハグしてキスしたところで射精。以前も週刊誌のエロ小説を読んで欲情したことがありますが、精通以降はエロ雑誌を読み始めました。

今と違って無修正動画はなく、ピンク映画も修正付きで男女の腰を映さない。だから、若松プロの作品が観たくて中2からピンク映画館に通ったのに、性交の具体は分からない。グラビアやブロマイドを眺めて、エロ小説が描く「いけない関係」「いけない場所」「いけない行為」を想像して文脈を補いつつ自慰した。90年頃の大学生男子も同様でした。

90年頃の大学生女子も、男子ほどグラビアイメージを使わないけど、エロ小説やエロ漫画の設定に、好きな男を登場させる形です。92年、転籍先の東京外大の、性愛アクティヴがやたら多い男女同数のゼミで、各自のカミングアウトを元に男女の違いを議論して、幾つか重要な発見をしました。ちなみに86年からの素人女子大生AVブームが終わる直前です。

第一に、女子も男子も、AVよりも小説と漫画を使っていました。小説と漫画なら小説重視。男子はフランス書院文庫とグリーンドア文庫など「男向けエロ小説」。さて、女子はハーレクインロマンスとその亜流を含めて「女向けエロ小説」かと思いきや、それも使うものの、むしろフランス書院文庫やグリーンドア文庫の方が自慰ネタに使われていました。

女子らに尋ねると、ストレートな恋愛ならぬ「いけない関係」「いけない場所」「いけない行為」が過激に描かれているからだと。一部の女子に促されて、当時流行していたダイヤルQ2の男女別有料エロ番組を、皆で聞き比べたら、全く違いました。男向けは記号的・フェチ的で直ぐにズッコンバッコンでしたが、女は小説並みに関係が描き込まれていました。

詳しく言うと、女向けは「いけない関係」重視。親友の恋人を好きになった。旦那の上司を好きになった。既婚の先生を好きになった等々。男向けは「いけない場所」「いけない行為」重視で、相手がナース服やスチュワーデス服やセーラー服を着ている設定。一口で、女向けは関係性重視。男向けはフェチ重視。後で効いてくるので、覚えておいてください。

次に、AVを見てどこに欲情するかを語り合いましたが、男女差が歴然。男子は女優に欲情します。欲情は専らフェチ記号的。女子は男優に欲情することはなく、女優への「なりきり」で女優の体験を自らの体験だと感じて欲情します。欲情の多くは関係性のタブーの踏み越えに関わる。ただし、当時のAVは今と比べものにならない広範囲の「モザあり」です。

最後に、初回から現在までの自慰的妄想の変化の、男女差を議論しました。すると、自慰を始めた主に中学の時は、男女ともAVを見られなかったので、行為のビジュアルイメージを思い描けるのは、テレビや映画で見たハグとキスまで。そこから先が漠然とするから、女子は「関係妄想」で補い、男子は「フェチ的記号」で補うようになることが判りました。

ちなみにビデオデッキの拡材(おまけ)としてAVが使われるのが81年から。街道沿いにアダルトビデオショップが林立するのが82年から。AVの内容は物語重視。その分「いけない関係」がフィーチャされました。宇宙企画やサムビデオの時代です。それが変わったのが92年。アナルやスカトロのフェチに傾斜した目伏せのセル(販売)ビデオになります。

「単体もの」から「企画もの」へのシフトと呼びます。単体ものは女優のギャラが100万円以上で物語重視。企画ものは女優というより目伏せの素人がギャラ5~10万で出演するフェチ重視。両者を合体して、物語がありつつもフェチ的な抜き所が満載で、かつプロ女優が顔出しで演じる、今日的セルビデオの形は、95年創業のソフト・オン・デマンドから。

ちなみに僕は、レンタル時代のAVを支えた代々木忠・村西とおる・カンパニー松尾・バクシーシ山下など各氏と交流があり、現場も何度か見てきて、歴史に詳しかったので、2003年のソフト・オン・デマンド創業8周年記念大会で「アダルトビデオ・ファン大賞」を高橋がなり社長から授与され、賞金30万円をもらい、記念DVDにナレーションをつけています。

そんな流れで、複数の女優との交際経験があって、彼女らの現場体験を熟知します。話を戻すと、91年当時、自慰開始時の性的妄想はキスとハグまでが現実的。その先がよく分からないから文字ベースで必死に補った。それがタメになって性的妄想が膨らんだ。男はフェチ的妄想が膨らみ、女は関係妄想が拡がった。こうした経緯がここからの話の前提です。

──自分と誰かの、あり得ない関係を想像する「関係妄想」は女性のほうに多いのですね。

宮台 はい。復習です。「親友の恋人を好きになった」とか「先生を好きになった」とか、深い関係になっちゃいけない相手なのに、思いが抑えられない。この「いけない関係」が関係妄想の典型。19世紀来の恋愛小説史でも「困難を乗り越える愛」の変奏としての「いけない関係」が定番。キス以降の不明部分を文字ベースの関係妄想で補うのは、自然です。

少し補うと、男が女から分化してフェチ的妄想に強く傾くのは92年から。この年、同型の動きが多発します。話したように物語的「単体もの」がフェチ的「企画もの」にシフト。エロ本が「字もの」から「絵もの」にシフト。都市部では「物語を売る売春女子高生」から「フェチ的記号を売る援交女子高生」にシフト。性愛領域外の変化とも連動しています。

まずカラオケボックス・ブーム。楽曲が与える世界体験や歌詞の世界観への没入immersionから、誰もが知るドラマや映画のタイアップ・ソングの「歌えば拍手、歌えば拍手」の盛り上がりlivening upへ。没入して陶酔する作法が忌避され、各曲は横並びの社交ツールになる。これが90年代後半のネット配信化(iTune Music Store化)に先立つことが重要です。

次にストリート・ブーム。日米構造協議の置き土産で、非関税障壁と指弾された長時間労働を緩和すべく、まず教員からと学校週休二日制を拡充したのを機に、土日連続でストリートに繰り出す中高生が増え、『egg』『東京ストリートニュース』等のストリート誌や、小室哲哉から安室奈美恵に連なるストリート音楽の時代になり、J-POPに道を付けます。

これは「ヤンキーからチーマー(&コギャル)へ」のシフトです。ヤンキー(一部は暴走族)は、地元ベース。本名で呼び合い、離脱に際し「卒業」儀式があり、やがて商店会や町内会で神輿の担ぎ手になります。チーマーは、都会のストリートベース。本名を互いに知らない匿名的関係で、参入離脱自由で流動性が高く、初期クラブ・ブームを担いました。

これらは一口で「アウラの喪失」です。アウラとはW・ベンヤミンの概念で、ルーツは神性降臨advent of devinity。例えば神の彫像(イエス像やマリア像)。人は彫像を通して神性を見ます。同じくエロ表現の「字もの」。文章を通した向こう側にある虚構世界の実在に欲情します。ところが「絵もの」では与えられたグラビアイメージに直接欲情します。

同じくAVの「単体もの」。演技の向こう側にある女優の物語に魅惑されます。だから女優の物語を増幅するアダルトビデオ誌が売れた。「企画もの」では目伏せ(目モザ)の女優に関心を寄せず、アナル・スカトロ・中出しなどフェチ的記号に直接欲情します。そこでは女優は入替可能なブツに過ぎず、その向こう側に入替不能な物語を見ることはありません。

同じく「援交女子高生」。かつて「売春女子高生」には不幸な生い立ち(貧困やDV等)の物語があったけど、東京の「援交女子高生」は、周囲の女子が憧れる全能感あふれたトンガリキッズで、スクールガール・フェチの男に記号を高く売る。だから、地方では一律1万5千円なのに、東京では中学生5万、高校生4万、大学生3万、OLや主婦2万なのでした。

ブルセラ&援交は92年夏に始まりましたが、これを支えたのが買う男のフェチ化。女子高生らは「40代(団塊世代)はフツーだけど、30代(新人類世代)はヤバイよ。フィルムケースにヨダレを入れてくれとか、制服の着衣のまま顔の上に跨がってくれとか」と語っていました。実際、乱交やスワッピングの現場でも、30歳代フェチ男を多数目撃できました。

だから、まさに92年、学生らと調べたダイヤルQ2の女向けアダルト番組が「いけない関係」の関係妄想を主軸とするのに、男向けがフェチ的記号ベースでいきなりズッコンバッコンという違いが、顕在化していました。同時期から、女の望みと無関係に〇〇プレイを要求する男が増え、女が「好きな男の要求だから」とそれに合わせる営みが拡がります。

──AVの内容もそういうものだと仰っていましたね。

宮台 男はAVを見て「やりたい」と思う。軽い順に、変則体位プレイ・目隠しプレイ・縛りプレイ・バイブプレイ・露出プレイ・複数プレイ。番外がスカトロプレイ。86年から村西とおるが仕掛けた黒木香ら「素人女子大生AVブーム」で、「身近な子がこんなプレイをするんだ」という妄想が一般化したのも大きい。それで女の多くが不全感に苛まれました。

連載を復習すると、こうしたプレイは「女側の妄想を現実化する」という形を取らないと、女に「男の欲望の入替可能な道具になっている」という寂しさを抱かせます。でも大半の女は、男を替えても同じだから「こんなものなのかな…」と認知的に整合化し、願望水準を下げます。ちなみに、ナンパ師時代の僕は「女の妄想の現実化」に命を賭けていました。

これは、転校だらけだった幼少期にいつも女子に助けられてきた(=贈与されてきた)という記憶に由来する「女には贈与しなきゃいけない」という対抗贈与の構えによるように感じます。僕のことを40回ほど書いた『噂の眞相』編集部が、数百人相手にしてもMeToo的なタレコミが一切ないのを不思議がっていたけど、対抗贈与の構えが真相だと思います。

──事前の打ち合わせでは、キャラ&テンプレを越えた恋愛力がある高校生女子や大学生女子が、ごく少数ながら今でもいて、その子たちに共通した育ち上がりがあるという話が、今回の本題だということでした。そこをお聞きしたいので、ぜひお願いします(笑)。

宮台 構造的背景を知ってほしくて前置きが長くなったけど、さて本題。復習すると、今時の若い女は性的退却系・テンプレ系・肉食系(過激プレイ系)に分かれるけど、これらに属さずに昔ながらの恋愛ロマン主義を生きる女子が少数ながらいる。前に話した通り読書量の多さが特徴ですが、関連して、アダルト映像を見始めるのが遅いという特徴もあります。

スマホ・タブレット・PC全てダメという厳しい家で育った高校生や大学生は可処分時間の多くを読書に使います。連載では読書が恋愛ロマン主義の中核となる関係性リテラシーを育てる点を話しました。今回決定的なポイントとして強調したいのは、小学校高学年や中学生からFC2PPV(無数の違法転載サイトで無料視聴可能)など無修正動画を視ると、恋愛ロマン主義が破壊されることです。

聞き取りで分かるのは、性愛に興味を抱き始める思春期の只中で陰茎が膣に出入りする生々しい無修正動画を視ると、関係妄想を自慰ネタに使えなくなる事実です。90年時点では男子がフェチ的で、女子が関係妄想的でした。現時点だと、男子がフェチ的なのは同じですが、女子もフェチ側に寄って性愛を「性欲を満たすが汚いもの」と捉えがちになりました。

冒頭に話したように90年調査では好きなアイドルを自慰ネタに使う女子が一般的だったのに、現時点だと逆に「汚しちゃう感じがするから」と推しの子を自慰ネタに使わない女子が一般的になった背景に、性愛に興味を抱く思春期に「性欲を満たすが汚い」無修正動画を視て、「いけない関係」などの関係妄想を自慰ネタに使わなくなったことがあるのです。

僕の初交は20歳になって2ヶ月後。初交前に公園でヘビーペッティングする段階では女性器の視覚像がなく、びしょびしょに濡れた粘膜の触覚像が専ら。相手の女も、男性器の視覚像を知ったのは初交後しばらくしてからだと話してくれました。男女共にフェラやクンニやシックスナインをする段階で初めて互いの性器の視覚像を確認しました。それが人類の長い歴史です。

それでうまくやってきた長い歴史がある場合、無闇に営みを変えてはいけない──それがフランス革命期に保守主義を唱えたエドムント・バークの言。いわく「塀がそこにある理由が全て分かるまで、塀をいじるな」。伝統主義と違い、諸事物の潜在機能とそれを捉えきれない理性の容量限界に注目した合理的思考で、システム理論の機能主義に親和的です。

──自分で恋愛経験をしないうちに、性行為だけが前面に出た作品を見ると、汚らわしいとしか思えなくなる。確かに性的刺激だけが取り沙汰されると、フェチに寄るし、人間関係とは離れるかもしれません。

宮台 だから「汚しちゃうから推しの子はネタにしない」となる。かつて女子の自慰的妄想の特徴は、「肝心なところはぼんやりしていること」と「そこに自分が憧れるアイドルや学校の先輩や先生が出てくること」。具体的なところがボケていたから、憧れの人が関係妄想に登場できた。そうした機能的連関を、早い段階での無修正エロ動画が破壊します。

小学生高学年になれば無修正エロ動画が簡単に見られるので、多くは見ています。「あの視覚像」に推しの子や憧れの人を当てはめるのは認知的に不整合。さて思春期には性欲を覚えます。キスやハグは分かるけどその先が分からない。ならば性欲をどう発露すべきか。そう悩む段階で「空白のX」を埋めるべく関係妄想が備給される。この道筋が合理的です。

90年代前半の僕は表現規制に反対し、ゾーニング規制に置き換える活動をしていたけど、インターネット元年の95年から表現規制の囲いもゾーニングも小指の先で破れるようになったので、新たな性教育が要る。小学校高学年になったら「無修正動画が恋愛力を奪うこと」を理由と共に伝えるべきです。「見たきゃ見てもいいが、恋愛が難しくなるよ」とね。

 

関係妄想をともなった性愛の構え

宮台 以上を踏まえて連載を復習すると合点が行くはず。93年は野島伸司脚本『高校教師』がブーム。描かれた教師生徒恋愛は「いけない関係」の関係妄想で、スクールガール・フェチとは関係ない。正確にはスクールガール・フェチの英語教員が悪役だった。「いけない関係」に踏み込むべきかという葛藤ゆえに燃え上がる「困難を越える愛」の物語でした。

教師生徒関係を描く今のアダルト作品は全て「制服を着てりゃ良いんだろ」みたいなスクールガール・フェチ。ラブホ街入口にある渋谷ドンキホーテはコスプレ用制服を売っていて、SKプラザ(旧P&Aプラザ)がコスプレ服を貸し出す最初のラブホになったのが90年だけど、昔は関係妄想的ゴッコ遊びのツールだったのが、勃たない男をフェチ的に勃たせるツールに頽落しました。

詳しく話したけど、恋人同士で参加するスワッピングが廃れてオージー(乱交)にシフトしたのも「関係妄想からフェチへ」の流れ。全て「恋愛力」を妨げる感情的劣化です。パラメータとして80年代新住民化による「育ちの悪さ」(カテゴリーを越えてフュージョンする体験のなさ)を挙げて来たけど、今回は関係妄想を阻害する動画体験を挙げました。

改めて確認すると、恋愛力の本質は「コントロールよりもフュージョン」「フェチよりもダイヴ」。変則体位プレイ・目隠しプレイ・縛りプレイ・バイブプレイ・露出プレイ・複数プレイなどフェチ的セッティングに向けて相手をコントロールする営みは、①相手ならぬ自分に意識を集中させ、②相手に入替可能な道具として扱われたとの不全感を与えます。

変則体位プレイ・目隠しプレイ・縛りプレイ・バイブプレイ・露出プレイ・複数プレイなど自体がいけないのではない。これらを関係妄想ベースのゴッコ遊びに繰り込めば、ゴッコ遊びが要求する「なりきりrole play」ゆえに①自分本位と②入替可能性を回避し、「同じ世界で一つのアメーバになる体験」を享楽できます。僕も実際そうしてきたのです。

でも、この種の関係妄想ベースの「なりきり」遊びを完遂できる感情能力を備えた男は、女の呼吸・体温・体色・匂い・挙措の変化にコールされて自動的にレスポンスする身体能力(アフォーダンス)を論理的に持たざるを得ないので、こうしたプレイを省いた普通の性交でも、女は高く飛んで過呼吸・落涙・失神のエクスタシス(脱自)に到ることになります。

読者の方にもさすがに分かったでしょう。「エス」を読んでイラストを描くあなた方は、関係妄想系であるがゆえに、フェチ系(テンプレ系+肉食系)が席巻する今の性愛界隈に違和感を抱き、「性愛に踏み出せない」のです。これはむしろあなた方の「可能性」そのものです。感情能力と身体能力が痩せたテンプレ系や肉食系を羨む必要は、一切ありません。

ただしこれも復習ですが、フェチ系(テンプレ系+肉食系)であれ出来るだけ早いうちに済ませ、「所詮こんなものだ」と当たりをつけて「勘違いのロマン」を見切るのも意味があります。テンプレ系や肉食系の外側を生きる相手を見つけるのが至難の業なので、いつまでも性愛に踏み出せない状態になり、テンプレ系や肉食系をも羨む状態に墜ちるからです。

とはいえ、女風(女性用風俗)のメインユーザーの30代女には「性愛の数はこなしたのに良いことがなかった」という人が多く含まれます。身体能力と感情能力を備えた男が稀少になり過ぎ、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当た」らなくなったからです。経験的には、数を撃っても当たらないと、命中させようとする意欲が減って、無駄撃ちする割合が増えます。

まず、テンプレ系であれ肉食系であれ選り好みせず「所詮こんなものだ」と当たりをつける。次に、テンプレ系や肉食系の外側を生きる稀少な男を見つけるための合理的戦略を立てる。稀少な男には必ず相手がいるので、敢えて相手がいる男を選ぶのが合理的です。「中学生、五年も経てば大学生」の摂理に基づき、長期戦覚悟で年少の男を育てるのも合理的です。

「育ちの悪さ」ゆえにフュージョンやダイヴから見放された自分、或いは思春期段階から無修正動画で自慰してきたがゆえに恋愛ロマン主義から見放された自分を、自覚する場合には、フュージョンやダイヴや恋愛ロマンの実在を手っ取り早く信じるために、SNSで評判が極上の女風セラピストを見付け、お金を払って素敵な性交をしてもらうのも有効です。

いずれにしろ「何もしなければ何も起こらない」という摂理をわきまえ、今話したような合理性を意識しつつ動き始めるべきです。女は、35歳とされる恋愛市場での賞味期限切れを意識しがち。マッチングアプリ界隈を見れば無根拠でもなく、雑に扱われ始めます。あなたが25歳とすると残り十年。命短し恋せよ乙女。何もせずに終った後悔はあなたを苛みます。

──この連載がはじまる頃に、「性行為を汚いものと思っていた」と話しましたよね。その時に、社会の外の性愛においては、そのような社会常識が逆転して、「汚いはきれい、きれいは汚い」という風に感じられると伺いました。こういったことも、何の文脈もない性行為を動画で見ていては感じられないんでしょうね。ロマンや関係性がなければ、そうなりますよね…。

宮台 無修正動画がなくて性交イメージが未規定な分、関係妄想を用いて自慰していた時代には、「性行為は汚いもの」という思い込みは稀でした。あなたは時代の犠牲者ですが、時代に負けるのは嫌でしょう。あなたは幼少期にカテゴリーを越えたフュージョン体験があり、ファンタジーの中に性愛を置く能力がある分、時代に違和感を感じているだけです。

あなた同様、幼少期にカテゴリーを越えたフュージョン体験があり、ファンタジーの中に性愛を置く能力がある分、高校時代から性愛に乗り出して違和感を感じ、やがて願望水準を下げて「どうせこんなもの」と力を失う女も見て来ました。違和感を感じて乗り出さないのと、乗り出して違和感を感じてスレるのは、実りからの見放されとして、等価です。

だから、乗り出すことは必要だけど、戦略を伴うのが大切です。戦略には情況の適切な認知・評価・指令が要る。平たく言うと適切な歩留まり計算で期待外れの大半を想定済みにする免疫化が要る。この連載は「戦略を伴う乗り出し」の後押しが目的です。「いいとこ取り」を諦めて「肉を切らせて骨を断つ」決意が出来ないなら、性愛は諦めた方がいいです。

──私は中学生の頃から、BLを含めてエッチな漫画を読んでいましたが、女性向けの漫画は関係妄想が多かったと思います。誰でも良いわけではなくて、「このキャラとこのキャラは、ライバル同士だけれど、本当は愛し合っている…」という感じ。関係妄想にプラスして、交換不能な相手同士のことを思って、ドキドキすることが多いです。

宮台 知っています。あなたと話すとファンタジーの中に性愛を置く能力があるのが分かります。仰った設定は昔から「愛憎同居ambivalence」と呼ばれます。寝ても覚めてもライバルのことばかり考えているなら殆ど愛。僕にも経験がある。恋する女に恋敵の男がどんな性交をしているだろうかと想像を重ねると、やがて恋敵を愛している感覚になります。

──ただ、確かに男性向けのエロ漫画では、いわゆる「モブおじ=モブのおじさん」という言葉があるように、女の子がいて、その相手はモブみたいなケースがあります。読者は女の子しか見ていないから、相手の男は人格的には透明な存在で、性行為シーンになると、輪郭だけが描かれて透けていたりします。

宮台 先ほど話したことです。AVを見る女は女優になりきって享楽し、AVを見る男はバーチャルに女優と性交して享楽する。いずれも、男優は存在しない形で存在します。監督は男優の存在感がノイズにならないよう注意します。そこにも「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」というバタイユの摂理がある。この性交の性別非対称性をあなたはわきまえるべきです。

関連して、92年の東京外大ゼミの話を補います。男子学生が訊ねる。「ハーレクイン・ロマンス(女向け)とフランス書院文庫(男向け)のどっちに興奮しますか」。女子学生が答える。「フランス書院に決まってるじゃないですか」。男達は騒然。「あんな強烈なのを読むんだ」。そこに僕が割り込む。「強烈さにも、関係妄想寄りとフェチ寄りがある」。

当時の小説家で言えば、団鬼六や千草忠夫は関係妄想寄りで、結城彩雨や綺羅光はフェチ寄り。関係妄想寄りの強烈さはタブー破りの強度で、フェチ寄りの強烈さはハードSM的なグロ。ちなみに時代に拘わらず性的対象異常(医学上のフェティシズム)の9割が男。このフェチに関わる顕著な性別非対称性も、あなたが理解しておくべきことです。

これら性別非対称性は、女が「男が何を見ているか」をわきまえ、男が「女が何を見ているか」をわきまえるためにも大事です。このわきまえに向けられる力も思春期の無修正動画で削がれます。むろん無修正動画を嫌だと思わない人も多数いる。「そんなもんだよね」と。問題は、嫌だと思うか否かじゃなく、視覚像の生々しさが豊穣な関係性への敏感さを上書きすることです。

それで性愛が関係性抜きで性交に還元され、「恋愛力」が失われます。性交は「同じ世界で一つのアメーバになる」身体能力と感情能力を暴露するので重要ですが、関係性への敏感さがあって初めて性交が自我の極小化(ゆだねと明け渡し)をもたらし、両能力の解放で性愛が豊穣な恋愛に昇格します。なおフロイトによれば、自我は生体の自己防衛機制です。

──関係性やコミュニケーションへの敏感さが性愛において大事だということ、この後のお話でも詳しくお伺いできればと思います。続きはWEB版でどうぞよろしくお願いいたします。

 

性愛に踏み出せない女の子のために

中編につづく