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性愛に踏み出せない女の子のために 第10回 第2部 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第10回 第2部 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年6月15日発売号で第10回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第10回誌面版を、WEB上で第10回の第1部として公開して、その後にWEB版の第2部を続けて公開していきます。今回のWEB版第2部は、実践の導きとなる「予測符号化理論」について語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

前回の第10回第1部は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai10a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


実践の導きとしての予測符号化理論

 

──前回(誌面版=WEBでは第10回第1部)は性愛がこの「生き辛い社会」でどんな意味を持つのか語っていただきました。そこで社会が生き辛いのはなぜかについて戦後史を学問的に辿る話がありました。前半は社会の全体についてマクロな話をしていただきました。それを踏まえた後半は、あなた自身はどう生きるのかという話でした。

宮台 復習します。まずは前半のマクロな話です。第一に、日本は血縁主義を欠く極端な地縁社会なので、「3段階の郊外化」でホームベースを失った結果、ブーバーがいう「入替不能な汝you」として眼差される機会を失い、24時間バトルフィールドで「入替可能なそれit」として眼差されるようになった。結果、孤独・孤立問題が増殖中で止まらないこと。

第二に、「蓄財や蕩尽ならぬ資本の自己増殖によるそれit化」と「自営業ならぬ会社という行政官僚制によるそれit化」が世界中で拡ったこと。第三に、日本人には価値貫徹の構えがないので課題への直面が先行したが、最終的にそれit化に抗えるのは、価値貫徹が揺るがない宗教的血縁主義があるユダヤ人と中国人だけだろうこと。日本は課題先進国に過ぎない。

次に後半のミクロな話です。第一に、地縁の空洞化などで死者の目撃機会が減って死を意識できないので、「今は勉強」「今は仕事」と性愛や家族形成を先送りし、孤独死しがちなこと。人間の尊厳は「看取られ」「弔われ」「悼まれる」ことにある──それらを欠く死者は尊厳ある生から見放されていたことになる──から、先送りできない生を考えよということ。

第二に、尊厳ある生は、入替可能なそれreplaceable itならぬ入替不能な汝irreplaceable youとして眼差される営みとゲノム的に同一。古来ヒトは「ヒトに見られなくても万物に見られる」「万物に見られなくても神に見られる」形で延命した。近代の「見られなくても自分が自分を見る」とする主体信仰は既に崩壊。汝youとして見られる生の回復が必要であること。

第三に、回復には、性選択ならぬ文化選択のランナウェイ(暴走)に抗う営みが不可欠なこと。ランナウェイとは、自然選択に有利だった性選択や文化選択が、自己増殖的に展開した結果、自然選択の妨げとなって滅びること。抗うには、近道ゲノム(安全・便利・快適)と孤独ゲノム(汝youとして見られないと心身衰弱)の再バランス化への意識的努力が必要だ。

第四に、再バランス化の実践として古来、祝祭と性愛があるが、いま個人で実践できるのは性愛。幸福な性愛は、相手の反応が自分の反応に自動的に写像される「なりきりrole-taking」が不可欠。「なりきり能力」の多寡が性交で暴かれる事実を、見たくなくても見る必要がある。この能力は言外・法外・損得外での子供の戯れで培われるが、臨界期(締切)がある。

第五に、臨界期を過ぎると「なりきり能力」は習得できない。だが読者の多くは「なりきり」能力があるのに、自己防衛機制ゆえ恋愛に限って活かせない。一つ目の勘違い。「なりきり」ならぬテンプレ的(それit的)カレシカノジョ関係は恋愛ではない。二つ目の勘違い。「なりきり」ならぬテンプレ的性交は相手の体を使ったオナニーである。勘違いの意識化が必要。

第六に、これらは言語処理の誤謬の指摘だが、「なりきり」能力があるのに自己防衛機制ゆえ恋愛に限って活かせない読者に宛てたものだ。読者はまず、相手に「なりきり」能力がないと感じたら──言葉の自動機械(ウヨブタやクソフェミ)だと感じたら──即切りせよ。次に、相手に「なりきり」能力があると感じたら…ということで、今回以降の実践編の話です。

──前回(誌面版)は内容が濃すぎて、何度も読んで少しずつ理解しましたが、全体が見えなくなっていたので、まとめていただいて助かりました。ここからが「なりきり」能力があっても「性愛に踏み出せない」読者にとっての実践編ということになりますね。楽しみにしていました。

宮台 実践編ですが、数百人を相手にしてきた経験知から語ると普遍性を疑われるので(笑)、まず徹底して学問的に語ります。導きになるのが、認知科学や脳科学の最先端で議論されている「予測符号化predictive coding」理論です。数理モデルですが、錯認を含めた様々な認知不全を高次脳機能の言語・概念処理への過負荷から説明します。実践編の前提になります。

理論の説明に先立ち、僕の社会学的枠組の側からインタフェイスを確保します。性愛の営みは3次元あります。①いちゃいちゃ次元。②関係性次元。③社会的承認次元です。①は言外・法外・損得外の営み。子供自体を思い出せと語ってきました。②は「私達の関係は何だろう」と言語的に意識する営みです。恋人だ・不倫だ・セフレだなどの言葉による枠付けです。

③は、言葉で枠付けされた関係が皆に受け容れられないと予期された時、社会の時空(言葉・法・損得の界隈)と、性愛の時空(言外・法外・損得外の時空)の、いずれを優先するかの態度決定です。後期フロイト全体論では、①はエス、②は自我、③は超自我に重なります。 エス(未規定なエネルギー)と超自我(規範意識)をバランスして生体防御するのが自我です。

生体とは、自己self(「これが私」という経験的自我)を越えた心身統一体です。生体防御にとって社会の時空と性愛の時空のどちらが有効なのか、自我egoが無意識裏に評定します。前者に軍配が挙がる場合、より言語的抑圧を伴います。後者に軍配が挙がる場合も、②関係性次元が言葉で定義される限りで、言語的抑圧を伴います。以上は連載の復習に当たります。

「これが私」という自己self(言語的自己物語)のホメオスタシスに固執する程度に応じて「自己防衛的」と呼ばれます。自己防衛self defenseも、自我egoの生体防御の働きに由来しますが、生体防御と矛盾する結果を導く場合が「過剰な自己防衛」。「性愛に乗り出せない」場合の多くがこれです。「自己物語self storyへの固執」の解除方法も連載で語りました。

──同じ事柄でもいろんな語り方があるのですね。そういうことだったのかと改めて思います。

宮台 はい。自己selfは意識された像ですが、自我egoは前意識(時系列で変容するクラウド)と無意識(二項図式的磁場の複合)を交叉させる意識不能な機能です。喋る・書く・見られるなどの営みで、無意識の磁場(縦の力)の圏内で前意識クラウドが意識へとシュレディンガー的に偶然収縮し、次時点の前意識クラウドに影響する。前期フロイトの局在論です。

後期の全体論は脳部位を無関連化して機能連関を論じます。ただし脳科学の発展を踏まえると、エスの快感原則が中脳に由来し、前意識クラウドを意識へとシュレディンガー的に収縮させる機能が新皮質に由来し、収縮に磁場を与える無意識が新皮質と中脳を架橋する半言語的賞罰二元図式を与えると推測できます。全体論はやがて脳部位に関連づけられるはずです。

それとの兼ね合いで、予測符号化理論は「生体防御機能を担う自我egoへの知覚的入力が自我の働きで言語的遮蔽を被ること」を示します。これは、「言葉の自動機械」となることでの性的劣化・による報償不在(つまらなさ)から性的退却に到る、若い世代の道筋を理論的に理解させます。一口で「自我のランナウェイ(暴走)」をニューラルモデル化しています。

理論自体は、「高次脳機能(新皮質)が言語・概念的予測で外界認知を符号化し、予測に反する事態が顕在化しない限り、低次脳機能(旧皮質以前)の認知が抑制される」とする負担免除モデルです。19世紀後半のヘルムホルツに発する「(知覚に使う)自由エネルギー最小化仮説=サプライズ最小化仮説」と呼ばれる百年余りの思考伝統の、上にあるとされます。

そこについては異論があります。予測符号化理論の新しい点はニューラルネットワーク上のシミュレーションに成功した点。昨今話題の機械学習するAIの人間化に貢献するものです。そう。これはヒトの認知モデルであることに留意すべきです。自由エネルギー最小化仮説はヒトの低次脳機能に限って妥当だと僕は考えます。これから学問的な傍証を試みます。

予測符号化は全動物にあり、部分情報で天敵か捕食対象か識別します。さもないと捕食される。そこに自由エネルギー最小化が孕まれます。そこでは言語前イメージが予測的符号(異なる反応をもたらす引金)として機能します。予測符号化の適切性(誤認度)で淘汰があります。ヒトは予測符号化が言語と結合。情報節約度の昂進で後述のランナウェイが生じます。

 

自由エネルギーの
内的秩序と外界情報への割り振り

──先ほどのお話は、言葉に縛られることで、言葉の外が見えなくなるメカニズムと思えばいいでしょうか。

宮台 はい。ヒトと他の類人猿の認知を比べる比較認知科学によると、500万年前のヒトとチンパンジーの同祖では同一だった認知構造が今は鋭く分岐します。モニター上にランダムに分布した1~9の数字を一瞬見せた後、個々の数字をマスキングすると、小さい数字から順に押す訓練を受けたチンバンジーは全マスクを正しい順に押しますが、ヒトは3個です。

実験した松沢哲郎氏の話。チンパンジーの脳は森で眼前を一瞬よぎったものを捉えるフォトグラフィック・メモリー方向に特化し、森を出たヒトの脳はこれを犠牲にして見えないものを認識する方向に特化しました。例えばチンパンジーは眼前の営みに嫉妬しますが、眼前の営みが消えれば収まります。ヒトは「10年前に裏切られたのを忘れないぞ」と粘着します。

チンパンジーは手足を失っても打ちひしがれず、使える筋肉を用いて体を動かして移動したり何かを伝えたりしますが、ヒトが手足を失えば「手足さえあれば」とリグレットして打ちひしがれます。ヒトには眼前にない遠い過去が現・在し、ゆえにリグレットなき未来を企図します。つまりヒトには眼前にない未来が現・在します。これが時間観念に繋がりました。

松沢氏はどちらが進んでいるかは言えないとします。眼前にしか反応しないチンパンジーはリグレットと無縁で幸せです。その分ヒトは不幸ですが、眼前にない過去と未来が現・在するので、過去の悲劇が再来しない未来に向けて現在を配列します。人文知はこれを道具的志向instrumentalと呼びます。対極が自足的志向consummatory。チンパンジーは後者です。

でもヒトがこうした概念を持つことから分かるように、松沢氏は、一部のヒトは言語的意識を使って修行すればチンパンジーの如き自足的生活を送れるとします。でも飽くまでミクロな話で、マクロには自足的な幸せを手放して道具的に言葉・法・損得勘定に従う定住(法生活)を得ました。やがて書記言語を手にすることで文明(大規模定住)へと展開することなります。

森から出たヒトは4手のうち下半身が2足になり、遠隔に狩猟採集に出かけて戻ることが可能になります。4足歩行が2足歩行に進化してヒトになったとの俗説は誤り。4手が2手と2足に分化しました。それが前提となって幾つかの進化が方向付けられます。①チンパンジーにない感情表現。②遠隔から持ち帰る共同寄託に関わる感情能力。③皮下脂肪の蓄積能力。

①から。2手化で、乳幼児が母親に捕まれず仰向け寝させられます。母親が離れて動けるように安全な集落的住居を確保するようになります。乳幼児は必要に応じて「泣き」、母親以外にも周囲の大人が呼ばれます。すると幼児が「笑顔」を見せて、援助に訪れた大人が報償を受け取ります。ヒトならではの喜怒哀楽の表現が進化します(怒りはチンパンジーも同じ)。

②について。2足化で、母子を置いて集落的住居から遠くに出かけて狩猟採集し始めます。他の類人猿や猿類と違い、共同寄託(持ち寄ってシェア)するにしても、狩猟採集現場でではなく、10kmも20kmも離れた集落的住居に持ち帰ります。身体的近接性がなくてもその営みができる感情的能力が進化します。それが倫理(正しさ)と呼ばれるものの出発点になります。

次に③。遠隔の狩猟採集に出かけて帰るには皮下脂肪が必要なので、満腹中枢の作動が他の類人猿や猿類から十数分遅れ、余剰摂取分を皮下脂肪として蓄えるようになります。今日の我々が運動不足で成人病になるのはそのせいです。①~③の進化は、かかる集団生活の形式変化に適した個体を含む集団の生存確率が上がる、という進化生物学的な機制によります。

──チンバンジーがヒトよりずっと勝る短期記憶の能力を持つなんて初耳です。チンパンジーが持つ能力を犠牲にして、ヒトは固有の能力を手にした、ということなんですね。

宮台 はい。釈尊が菩提樹の下で知った真理が「ソレありてコレあり。ソレなくしてコレなし」という縁起。「縁(関係性)ゆえにコレが起こり、起こったコレが縁(関係性)をもたらす」という前提連関です。前提連関の全体性を細胞大のミクロから宇宙大のマクロまで見渡そうとするのが生態学的思考だと言いました。比較認知科学は生態学的思考に僕らを導くのです。

こうした比較認知科学に従えば、予測符号化理論を単なる省エネ仮説(自由エネルギー最小化)に結合するのは誤りだと分かります。限られた自由エネルギーを、ヒトに限っては下層(低次脳機能)の「見えるもの」の知覚処理に振り向けるのをやめて、上層(高次脳機能)の「見えないもの」の言語・概念的な表象処理に振り向けるようになったというのが実態です。

「限られた自由エネルギー」は生活形式の関数です。類人猿の脳はカロリーを特異に消費する器官です。森内であれ森外であれ物理的・身体的生活形式によって調達できるカロリーは有限です。それをセーブする必要は多かれ少なかれあります。ヒトの場合、「見えるものの処理」を犠牲にして、「見えないものの処理」を最大化したということなのですね。

ただ物事には限度があります。何事も「やりすぎ」は逆機能を伴います。予測符号化は、習得的=非生得的な外界モデルの構築です。それを、多くの知覚情報を切り捨てて外界への都度都度の驚きが要する負担を減らすことによって調達しました。でも、それが過ぎると外界のダイナミズムと懸け離れた自閉的な妄想世界に閉ざされます。これが逆機能になり得ます。

──なるほど。でも、ここから先が「やりすぎ」だという境界線は、どのように決まるのでしょうか。

宮台 そこでメタ・プライアー変数を導入します。予測符号化による非生得的な外界モデルは、脳神経的な内部表現です。他の動物にも認知の内部表現があるけど、ヒトは「見えないもの」の高次脳機能的な内部表現を、「見えるもの」の低次脳機能的な内部表現(が要する知覚データ処理)を負担免除して調達します。ざっくり内的秩序を外界情報より優先する訳です。

有限のエネルギーを内的秩序(高次脳機能)と外界情報(低次脳機能)にどう割り振るか決める変数がメタ・プライアーです。ニューラルネットワークのシミュレーションでは、メタ・プライアーが中程度で内的秩序に偏りすぎない場合に予測パフォーマンスが最大化します。ならば内的秩序を過剰に優先する個体は淘汰されそうです。でもそうならない。なぜか。

理由は社会学的です。ヒトとチンパンジーの同祖が生活していた森と違い、ヒトが予測符号化の言語的な内的秩序に従って構築した文明生活(都市生活など)が、言語外の外界情報をオミットしても個体を生存させるからです。個体は、言語外の外界情報に適応するかわりに、言語的な内的秩序に適応してデザインされた環境に、適応しさえすれば、生きられます。

ハイデガーによれば技術technicは負担免除です。修練を経た身体技法=技芸techniqueと、ブラックボックスを抱えた高度技術=テクノロジーtechnologyがあります。技術がテクノロジー段階になるほど、ヒトは原生自然から分業的に間接化されます。ボタンを押しさえすればOK──これが「言語的な内的秩序に適応してデザインされた環境」に当たります。

すると前回話した性選択ならぬ文化選択のランナウェイが生じます。ヒトには安全・便利・快適を選好する近道ゲノムと、孤独で心身が壊れる孤独ゲノムがあります。速攻的な近道ゲノムに比べ、孤独ゲノムは認知的整合化を介するので遅効的。人間関係から得た便益をテックに置き換え、気が付くと人間関係(性愛関係を含む)に必要な感情的能力が劣化して孤独化します。

 

予期理論と予測的符号

──つまり、テクノロジーの発達で怠けられるようになったことで、性愛に必要な感情的能力が失われた。ということは、性愛などを考えないことにすれば「それでよい」けど、性愛などを考えると「やりすぎ」ということでしょうか。

宮台 はい。僕が20歳代で彫琢した予期理論(成果が『権力の予期理論』)の一部を説明します。一々サウンド(手探り)して得た外界情報の代わりに事前に構造化された予期を前提に前に進む点で、予期は負担免除です。予期はそれに反する事態だけをセンシングするので外界センシングの多くを負担免除します。これら負担免除に守られることで予期は高度化します。

ざっくり3方向あります。第一は適応的予期(認知的予期)と貫徹的予期(規範的予期)の分化。第二は自己の予期・への他者の予期・への予期という他者を介した再帰化。第三は一般的他者(皆)の予期・への予期を経た虚構の構築。第三については例えば国民国家。19世紀半ばまで「米国はある」「日本はある」という観念はなかったが、今はあることになっています。

例えば本務校・東京都立大学が「ある」とはどんなことか。建物群のことじゃない。閉学すれば建物群は「廃墟」。登記簿上の記録でもない。記録の本物性を証するべく記録者の本物性を辿る→記録者の本物性を証するべく書類上の記録を辿る→記録の本物性を証するべく…無限退行の底無し。畢竟この「ある」とは「皆があると予期すること・への予期」の産物です。

予期理論でいう予期expectationは予測符号化理論でいう予測的符号predictive codeです。予期=予測的符号は省エネ化=外界ノイズ遮断に守られて高度化し、幾つかのレイヤーに分化します。「〇〇国や△△大学はある」は普遍的レイヤーです。いわば大きな言語ゲーム。その上に数多の特殊的レイヤーが積み重なります。小さな言語ゲームです。

大きな言語ゲーム・を前提にした小さな言語ゲーム・を前提にしたもっと小さな言語ゲーム…という入れ子になっています。より小さな言語ゲーム ──より上層の特殊的レイヤー── になるほど、「ありそうもないこと」を自明だと思い込んでいることになります。それは高度な達成であると同時に、僕らを生態学的全体性から隔離します。それが僕らの現実(リアリティ)です。

どんなリアリティか。社会学者バーガーが1960年代に、社会が複雑になると一つの社会でもリアリティが分岐して行くとする多元的リアリティ論を展開します。彼の論はただの記述ですが、もともと習得的な予測符号化が、下層レイヤーから上層のレイヤーに昇るほど分岐するからだと説明できます。ここでリアリティとは、「ありそうもないことの自明性」のことです。

──難しいですが、そんなふうに、ニューラル・ネットワークの認知科学と、社会学の思考が接合できるのは驚きです。連載でも仰っておられましたが、いろんな学問を同時並行的に目配りすることが本当に大事ですね。宮台さんしかできないかもしれませんけど…。

宮台 小著『ウンコのおじさん』から、僕自身が体験した逸話を紹介します。7歳(シュタイナーの第一臨界期で内発的な力の醸成に関わる)までの子供達と深い森で遊ぶ。森には輪郭がない。夕暮れになると更に輪郭が消える。それまで聞こえなかった鳥や獣の声がする。子供達は森を畏怖します。そして翌朝には一皮剥けたように子供達が大きくなっている。なぜか。

言語的な内的秩序から言語外の外界情報(バタイユ「呪われた部分」)に開かれ、より大きな全体性(バタイユ)を知ったからでしょう。それで子供達が「力を得た」。連載を復習します。人類学や民俗学の知見では、ヒトは「言葉・法・損得勘定の時空」である社会(法生活)に閉ざされると力を失うから、定期の祝祭で「言外・法外・損得外の時空」を回復してきました。

そこで仮説が成り立ちます。文化選択のランナウェイによるメタ・プライヤーの偏奇で言語的内部表現に閉ざされ、言語外の外界情報をピックアップできなくなればなる程、ヒトの生体が力を失うという仮説。言語外の外界情報に開かれていた「自己のホメオスタシス」が、言語的に閉ざされた「自己像(自己物語)のホメオスタシス」になればなる程、力を失うこと。

長く一緒togetherでいることで互いになりきりrole-takingできることで互いを入替不能な汝irreplaceable youとして眼差し合って得られた自己は、言語的自己「像」というより言外的自己「感覚」に満ちます。プラグマティズムの鼻祖エマソンの自己信頼self reliance(内から湧く力への信頼)がそれ。シュタイナー第一臨界期も自己信頼の育て上げの締切です。

シュタイナーは続いて14歳までの第二臨界期を示します。言外的自己感覚に満ちた自己信頼を前提にした、感性(色や音など五感的センスデータへの敏感さ)の醸成の締切。80年代から安全・便利・快適至上主義の頓馬な新住民に危険な外遊びやヨソんちとの行き来を禁じられた子供の多くは、双方の臨界期を逸した可能性があります。

かくて人々は多様性を失います。昨今喧伝される多様性は茶番です。92年にローティが多様性には2つあると言います。第一はサラダボール。第二はメルティングポット。前者はゾ ーニングされた多様性で、権利付与はあれ、各人にはゾーン内しか見えません。後者は幼少期からのフュージョンで、人種や宗派が違えど言外で仲間になれます。

サラダボール=ゾーニング的多様性は、権利侵害を法的に罰するのがもっぱらで、アリストテレスの「賞罰でコントロールされた秩序」。メルティングポット=フュージョン的多様性は、宗教や文化の言語的理解が不十分でも、同じ仲間として眼差し合い、宗派や人種を理由に仲間が差別されれば激昂するという、アリストテレスの「感情の内発性が支える秩序」です。

アリストテレスに従えば本来の正しい秩序は後者。カテゴリーが違うだけで敵認定するウヨブタが真の多様性から遠いのはいいとして、女を男から区別し、LGBTをストレートから区別し、トランスジェンダーをシスジェンダーから区別し、挙句に権利主張のみに淫するクソフェミも真の多様性から遠い。共通して、本人が他者を巻き添えに不幸に突き進む匂いがします。

これが30年前の主張なのが驚きです。戦間期のシュタイナーの反ナチ的主張と同様、社会主義国崩壊期のローティの反クソリベ(彼の用語では反「文化左翼」)的主張も、予測符号化理論が言う「センスデータの遮断による予測的符号(予期)の安定化」を歪める、自我によるメタ・プライアーの偏奇──言語に偏る神経症的自己防衛──に警鐘を鳴らします。

──本当にいろんな学問がつながっていますね。そして、そのほうが分かりやすいと感じます。最近の社会について周りから聞く、排他主義への違和感やポリコレへの違和感というものを、言葉にしていただいたと思います。また、なぜそうした動きが起こるのかが、よく分かります。

宮台 ありがとうございます。以上の話で、言外を触知する感情的能力がいかに多様であれ、普遍的に感情的能力の劣化を問題化できる事実が分かったはず。であれば、感情的能力が豊かである皆さんが性愛に踏み出す場合、まず感情的能力が豊かな相手を識別する必要があります。この識別能力も感情的能力の一つです。

繰り返すと、この連載は、イラストやアートに強い興味を抱く感情的能力が豊か(だけど性愛に乗り出せない)方々を、読者として想定します。臨界期前の適切な営みを逸した感情的能力が低い方々はどうすべきかは別の問題ですが、本稿を読めば感情的能力に問題を抱える理由が分かるので、家庭を持つ人は、子育てなどに活かしていただければ幸いです。

第2部後編につづく