対談・インタビュー

  1. TOP
  2. スペシャル記事
  3. 対談・インタビュー
  4. 性愛に踏み出せない女の子のために 第11回 後編 宮台真司

性愛に踏み出せない女の子のために 第11回 後編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第11回 後編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年9月15日発売号で第11回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第11回誌面版と同内容の前編と、WEB上で第11回の後編を公開。今回の後編は、性交の営みで大切なことと、テンプレや入れ替え可能とは違う性愛の核心に迫る内容を語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

第11回は前編が誌面掲載と同内容、後編はWEBオリジナルです。

 

前回の第10回第2部は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai10b

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/
第11回は「季刊エス83号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0CGJ11W58

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近刊は『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』『子どもに語る前に大人のための「性教育」』(岡崎勝との共著)、『神なき時代の日本蘇生プラン』(藤井聡との共著)。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


テンプレも言葉もない
なりきりの性交を望む

──第11回の前編(誌面版)では、自分の内から湧いてくるワクワク感を知り、言外に感受性が開かれていれば、相手を入れ替え可能にする言葉やテンプレに囚われないから、他人と関係するときも「他ならぬその人と」向き合う性愛をつむげることを話していただきました。そこで、宮台さんがずっと語っておられる、言外に感受性が開かれているときにだけ可能になる「なりきり」の性愛が気になっています。ここから性愛の実践をお聞きしたいのですが、「ゆだねと明け渡し」の性交、「同じ世界で一つのアメーバになる」性交は、「なりきり」の先にあるということですよね?

宮台 セックスの仕方をクオリア(体験質)がない人に話すのは難しいです。クオリアとは言葉を聴いて「あー、あの体験のことだ」と思い出せる五感のイメージです。「心身がとろけて自分が消えるセックス」と言った時、体験を思い出せる人には伝わります。体験を思い出せない人には伝わりません。言葉で体験を思い出せる時、「共通感覚がある」と言います。

「心身がとろけて自分が消えるセックス」という言葉が通じる人は例外なく良いセックスをしていると言えるでしょう。それは良いセックスの共通感覚があることを意味します。この共通感覚を欠いて言葉が通じない人には否定神学のように語るのが一つの手。相対である人は絶対である神を記述できないから、「これでもなくあれでもない」と語るやり方です。

でも迂遠なので肯定形で語ってみます。良いセックスをする人は例外なく相手の心身に生じていることをリアルタイムにモニターしています。その反対がAVを見てこれをやりたいと思う類の自己中心的な課題設定です。前回話したようにAVを見て〇〇プレイをしてみたいと思う類の自慰的妄想は男に限られません。女も普通にそうした自慰的妄想を抱きます。

でもそれが手掛かりになります。異性愛を事例にします。女が他の男達とどんなセックスをしてきたか? どこが不満だったか? どこがまぁまぁだったか? という情報を男が参照すれば女が「当座」欲している体験が分かります。当座という訳は前回話しました。女が欲する〇〇プレイを現実化できる男を相手にする場合、女は〇〇プレイ抜きに容易に飛ぶからです。

女の眼差し、肌の赤らみ、全身の体温変化、膣内の動き、呼吸変化などに「コール」されて、手・足・唇・全身による愛撫、ストロークの角度・速度・頻度、ピロートークなどで男が自動的に「レスポンス」すれば、瞬間瞬間に女が最も望むものが与えられるからです。難しく聞こえますが、相手の快不快が直ちに自らの快不快だと感じられる「なりきり」の態勢です。

戦間期にプラグマティズム社会学者ミードが提起したのが「なりきりrole taking」。定義は他者の反応を自分の反応として引き起こすこと。彼が挙げる「いちゃいちゃ」的なごっこ遊びの文脈からして、能動態ならぬ中動態。なので「役割取得」は誤訳。「なりきり」が適訳。プラグマティストなので、認識より関与を、知識より動機付け(=欲望)を、焦点化しています。

ママやパパが見るように見、ママやパパが欲望するように欲望する。泥棒や警官が見るように見、泥棒や警官が欲望するように欲望する。やがて不特定の相手が見るように見、不特定の相手が欲望するように欲望する能力を習得する。同時に社会というものを理解するようになる。社会の代理人として父(的存在)を重視するフロイトへの代替案でもありました。

代替案が素晴らしいのは、社会というものの理解に、言葉・法・損得ならぬ言外・法外・損得外を繰り込む点。法ならぬ掟を繰り込み、自己への罰ならぬ仲間の欲望を繰り込み、「なりきり合う」者達からなる社会の成立という奇蹟を記述します。なりきるのも喜び。なりきられるのも喜び。なりきられた喜びからなりきろうとする。それが奇蹟をもたらします。

僕の考えではこれは、言語以前的「いちゃいちゃ次元」が、言語的「関係性次元」の適切な営みを支えるメカニズムを記述する。ルソーのピティエpitiéに引き付ければ「僕は良くてもあの人・この人はどうなるんだ」と想像して懸念する能力の条件を記述する。これらの記述は性愛に限られないものの、昨今のテンプレ的セックスの病理を炙り出してくれます。

この四半世紀、若い女は自ら欲するからじゃなく、男が望むから〇〇プレイをしがちになったと言いました。加えて、自ら〇〇プレイをしてみたいと男に伝えても、男が渡りに舟とばかりにAVで学んだ自慰的妄想を現実化する機会として鼻息荒く利用するので、こんなはずじゃなかった感に苛まれがちなことに注意してほしい。伝えればいい訳じゃないのです。

男を選ばなきゃいけない。ダメな男は手順を考えます。どんな体位があるか。どんなタイミングで変えるか。ガンガンやるのか。スローがいいのか。どんなタイミングで変えるか。目隠しプレイや縛りプレイや大人の玩具プレイを織り込んでも同じ。AVを参照して手順を考えても、選択肢が多くて集中できないか、恣意的に没入して女を置いてけ堀にするかです。

アドラーの目標混乱はダメ。最終目標は「同じ世界で一つのアメーバになる」。男は女の言葉「〇〇プレイがしたい」でテンプレを駆動させちゃダメ。女も「〇〇プレイがしたい」で何を望んでいるのか自覚できていない。男は自らの振る舞いを移動・振動させつつ、女の眼差し・肌の色・体温・膣内・呼吸などの変化にコールされて中動的にレスポンスする他ない。

全てがスペクトルだからです。スローピストンかファストピストンかという二項図式も荒すぎる。それも連続体。しかも時間軸でダイナミックに変わる。凄いスローがいい時もややファストがいい時もある。「この女は激しいのが好きって言ってたから」とズコズコやるのは単細胞。そもそも同一刺激の継続は感覚閾値を高めます(ウェーバー・フェヒナー則)。

またもや難しく聞こえますが、相手の快不快が直ちに自らの快不快だと感じられる「なりきり」の態勢が男にあれば大丈夫。ということは、男にそもそも「なりきり」role takingの能力がないと全ては望み薄です。「なりきり」で簡単にできることですら、「そういう時はこうせよ」という条件プログラム(if-then文)の集積でもたらすのは、事実上無理です。

繰り返すと、相手を「なりきり」でつぶさにモニターできれば、今必要なことが自動的にできます。「そういう時はこうせよ」という戦略じゃなく、「相手の望みが自分の望みになる」という中動的な態勢があるか否かという問題です。そこには「相手が今何を望んでいるか」 を「観察して見極めて最適解を探す」という戦略的なプロセスは、実際には全く不要です。

加えて大切なこと。ただでさえ互いが自らの欲望に飲まれがちな性交中、男が女に「なりきり」続けるにはエネルギーが要ります。エネルギーはどこから来るか。一重に「愛から」。愛のエネルギーは贈与のエネルギー。愛が極大なら、無尽蔵の贈与のエネルギーが、際限ない「なりきり」をもたらします。愛が足りない分、「なりきり」は途中で打ち切られます。

ただし、際限ない「なりきり」ができることで男が自らの愛の強さを感じて驚くという逆向きの過程が時々生じます。凄く愛していると思っても(言語的「関係性次元」)、「なりきり」のエネルギーの途絶(言語以前的「いちゃいちゃ次元」)に直面します。前に話した、愛していると思ってもスワッピングで嫉妬しない自分を見出して驚くのとシンクロします。

経験的には、こうした「驚き」以前に自らの愛の強さを感じる機会があります。眼差し・表情・声・動き・体温・体色などにコールされる話をしましたが、とりわけ「息=ブレス」です。性愛を離れると、論争の場面で相手がどれだけ動転しているのかは目より息で分かります。目は伏せたり逸らしたりできますが、息は嘘がつけません。だから息に反応できるといい。

技術の問題として受け止めて欲しくないけど、スローピストンで押して引く時、互いが「同じ世界で一つのアメーバになっている」と、押すタイミングでも女が激しく息を吸い吐きし、引くタイミングでも激しく息を吸い吐きします。むろん声にもなり得ます。それに一刻一刻自動的に永久に反応し続ける自分を感じられる時、男は自らの愛の強さを感じます。

単純化のためにスローかファストかという速度軸で語りましたが、現実には角度や深度を変えるたびに息の吸い吐きがどうなるかに自動的に反応できるのも大切。むろん挿入時以外にも息の吸い吐きに自動的に反応できるのが大切です。女が望むからといって〇〇プレイというフェチ的見掛けに惑わされないように、息に反応できる態勢を作る必要があります。

異性愛をモデルにしましたが、都度都度入れ替わり得るにせよ男役(タチ)と女役(ネコ)の非対称性が生じる同性愛にも適用できます。それを踏まえて確認しておきたいのは、性交には構造的に微妙な点があること。欲望が頂点に達すると、互いに関係性の意識=人格化が飛びがちな分、自分が相手の欲望発露の道具として物格化されたと感じがちなことです。

それが一部の人には性交恐怖として現れます。性交恐怖には今話した明白な根拠があります。世間で言う類の性的トラウマにだけ結びつけてはいけない。むしろ主観的な愛の有無に関係なく ——むしろ愛を信じるからこそ—— 性交による物格化に過敏になります。僕自身長く苦しみました。あり得ないほどの「なりきり」の果てでの性交は、その処方箋です。

関連して、相手に性的トラウマがある時、それに触らないようにし過ぎるのはあまり良くないと思っています。前に話した超自我的二重性ゆえ、何かをタブー視すると「そこ」が浮き立ちます。「性的トラウマよりも自分が小さい状態」から「性的トラウマより自分が大きい状態」に体験を通じてシフトするのが大切で、以上はそれを考えるヒントにもなります。

男から女への「なりきり」を語ったのにはゲノム的非対称性という根拠がありますが、代々木忠氏の実践に従えば、ダイヴ的のみならずフェチ的な男の視座への「なりきり」を含め、性交における多様な視座に「女がなりきれる」ようになれば、「トラウマより大きい自分」を達成可能です。ただ高度な経験を要するので氏の『プラトニックアニマル』に譲ります。

話を戻すと、良いセックスに必要なのはまず男から女への「なりきり」。構造的に互いを物格化しやすい性的欲望に抗って互いの人格化を維持するには、男の「なりきり」の貫徹(を可能にする「愛の力」)への女からの信頼が要る。「なりきり」の力はセックスで一発で分かります。他の仕方は盛れますが、女による男の比較が前提になるけどセックスは盛れません。

 

旅をするように探検を続けて、
驚きを享楽の源へと変換する

──相手が気持ち良いかどうか分からないというのは、結局、相手をちゃんと見ていないということですよね。私も見ていなかったんだな、と思いました。なりきれていない。

宮台 ただしバタイユ的には「女が飛び、男は女の翼で飛ぶ」。今回の肉付けでは、男の「なりきり」で女が「ゆだねと明け渡し」で飛び、飛んだ女への「なりきり」で男が飛ぶ。大島清氏が実証したα波出現度のゲノム的差異ゆえの順序です。まず女のあなたが自らが飛べる男を選ぶ。あなたが飛べば男は既に話した論理ゆえに飛ぶ。実践的にはシンプルですよね。

男からすると、女の息に合わせて「なりきり」を何時間も続けるのは、愛ゆえに辛うじて可能になるギフト=贈与です。それによって女が「ゆだねと明け渡し」ゆえに飛び続けると、男にはそれがカウンターギフト=反対贈与だと感じられる。バタイユが言う寄せ波(男からの波)と引き波(女からの波)が生み出す動的な達成。それは間違いなく奇蹟の体験。

──相手は、私が触ることを好まないんです。それよりも、私を気持ち良くする方が好きなようで…。

宮台 男女とも「セックスでは自分は△△が好き」という言語的フレームがありがちです。でも「いちゃいちゃ次元」に開かれていれば「自分がそうなるとは思っていなかった体験」をします。「自分は△△が好き」というのは従来のパラメータ変域内でそうだっただけ。従来の変域外でパラメータが動けば違った感じ方をします。まず、それを念頭に置きましょう。

次に、女は男に比べると一般にフレームが柔らかい。だから、思ってもみなかった体験は女に起こりやすい。思ってもみなかった体験をした女は、思ってもいなかった行動をします。そのことに驚きながら喜ぶ男は、思ってもいなかった女の行動を自然に受け容れます。それも寄せ波と引き波の奇蹟。だから女はそんな奇蹟が可能な男を選ぶ必要があるのです。

性愛ワークショップの経験では、最近になるほど、固い男のフレームがさらにフェチ的に固く閉じ、女にダイヴして「なりきる」力を欠いています。そんな男を相手に寄せ波と引き波の奇蹟は生じません。だからますます女が男を選ぶことが必要になります。相手を間違えば何をしてもムダ。相手を間違えないことで初めて寄せ波と引き波の奇蹟を体験できます。

そんな相手を探し、良いセックスを追求するのは、旅です。密林に入っていくような「エクスペディション=探検」で「エクスプロレーション=探索」。巷で言う「相性」もそれに関連して出てきます。探検・探索したいのが熱帯雨林・広葉樹林・針葉樹林のいずれなのかというモードの違いがその都度あり、噛み合わないこともありますが、フェチではありません。

どんなモードであれ探検・探索になります。輪郭がないところに意外な輪郭を見い出し、形がないところに不思議な形を見い出すプロセスです。テンプレの再確認と違ってとてもエキサイティングです。セックスは未知の森の探検・探索だとの思いは実体験で強化されました。愛する力が弱かった時期はダメでした。愛する力が強くなって全てが未知の森になりました。

 

非性的な力の受け渡しにより、
性的な力で飛べるようになる

──宮台さんも、出来なかった「なりきり」が出来るようになったという変化があったのですね?

宮台 ただ「なりきり」にも多様な水準がある。前に話したスワッピングでは、享楽する相手への「なりきり」による嫉妬が必要です。男にありがちな「裏切られた怒り」とか女にありがちな「取られた怒り」ではありません。恋人に享楽を与える(ことで享楽する)相手がなぜ自分ではないのかという喪失感を感じることで、自分の愛を確かめる営みです。

この種の「なりきり」による嫉妬を感じることで、失っていた愛の感情を回復したと感じました。でもその程度の愛であれば複数愛が可能です。子供が「いちゃいちゃ次元」で戯れる相手が複数たり得るように、スワッピングで嫉妬できる相手も複数たり得ます。そのことが愛される相手にかえって絶望をもたらし得ることを、悲劇を通じて僕は知りました。

相手が寝ても覚めても自分を思ってくれるのに、愛しているとはいえ自分はそうではないという非対称性を、相手も複数を愛せばいいのにといって済ませる訳にいかない。なぜならそれは相手にとって寂しいからで、それを放置すれば「なりきり」の不全そのものです。相手も自分も寝ても覚めても思い合うときに初めて互いに「ゆだねと明け渡し」が生じます。

──第7回誌面版や、第9回WEB版で話題になった、「あなたは世界の全て」という絶対性が大事だというなら、そこまで深く感じていない相手には、セックスでは「なりきり」ができないのでしょうか?

宮台 電圧=ボルテージと同じです。ボルテージが低いどうでもいい相手には「なりきり」はできません。ボルテージが「ある程度」上がると「なりきり」できますが、しかしスワッピングが可能になる程度です。双方のボルテージが同程度なら良いけれど、同程度を持続するのは難しい。互いに複数愛を認め合っていても、容易にボルテージの差が生じます。

ボルテージの差は願望水準(なりたい状態)と期待水準(できそうな状態)を乖離させます。乖離は高い願望水準を持つ側に自己防衛を作動させます。自己防衛は「ゆだねと明け渡し」を妨げるので、冒頭の「心身がとろけて自分が消えるセックス」を邪魔し、性交中どこかに自己の芯を残します。避けるには二人のボルテージが揃って最高になることが必要です。

そこに困難がある。第一は、自分のボルテージが上がった状態を知らないので、現状をボルテージが高いと認知的に整合化する。第二は、相手あってのボルテージ。ボルテージは相互触媒で最高になるけど、そんな相手に出会えるかという例の問題。答えはいつも同じ。「火中の栗を拾え」。既婚だろうが恋人がいようが人気者だろうが気にしないで突き進みます。

──なるほど。なりきりはまだ私にはわかりませんが、自分が気持ち良くなっている時に、相手も一緒に気持ち良さそうだと感じられたことはあります。

宮台 性愛の身体接触はマッサージに似た面があります。乳房や陰茎は性的な部位。普通は見せないし触らせない。でも異性愛でいうと男が乳房に触るとか女が陰茎を握る際、少しも性的とは感じられない不思議な安心を生むことがあります。「癒し」に近い感覚。男女対称で両方に同時に生じ得ます。表情を見る限りではあなたが言うのはそれかもしれません。

とても大切です。「なりきり」の前提は互いの「ゆだねと明け渡し」。それがあれば性的部位への接触が性的に感じられないことが普通にある。そこでは乳房に触られた女・触った男、陰茎に触られた男・触った女に、微電流みたいな穏やかな力が流れて元気になる。心の乱れも収束します。以上の接触は非対称の営みだけど、対称的な営みであるキスでも同じ。

あなたは「なりきり」は分からないと言ったけど、「なりきり」の前提になる「ゆだねと明け渡し」があると、性的部位への接触で非性的な力の受け渡しが生じるので、もしそれだとすると良い兆候です。ただし、相手を気持ち良くさせられたというコントロール感で満足の笑みを浮かべることが男女共あります。それだとすると「なりきり」の前兆にはなりません。

──いま「性的」と言っているのは、普通の意味で良いんですか?

宮台 はい。エッチな感じということです。

──つまり、性的部位への接触は、エッチな意味で性的ではあり得るけど、同時に、根本的な生のエネルギーみたいなものの受け渡しでもあり得る……。

宮台 はい。非性的な力の受け渡しは単独でも生じるし、性的感覚と同時にも生じます。性的でありながら、性を越えたもっと大きなものの受け渡しだと感じられること。それが生じる相手か生じない相手かで、相手との関係が実りあるものかどうか、本当に大切な相手なのかどうか見極められます。でも、似て非なるものと混同しやすいので注意して下さい。

自己肯定感が低い人は褒められると舞い上がって元気になります。SNSのいいね! と同じく一時的で、永続的な尊厳(=自己価値感)とは別物です。自己肯定感は所詮は言語的なので、神経症的。性を越えた大きな力の受け渡しは言語以前的で、身体的。心と体を分けた便宜的記述ですが「嬉しい気持ち」じゃなく「体に力が染み渡る感覚」。絶えず意識して下さい。

無意識に救いを求める神経症的不安は「なりきり」を邪魔する。良い性交にダメージなのは「自分じゃなくても良いんじゃ?」という感覚。性的欲望の道具にされた女は「自分じゃなくても良いんじゃ?」と感じるべき。不安を埋める道具にされた男も「自分じゃなくても良いんじゃ?」と感じるべき。でも鈍感な男女はそれをスルー。こんな筈じゃ…となります。

触られることが性的なだけなら互いに入れ替え可能 ——汝ならぬソレ—— です。言葉で承認されて舞い上がるのも互いに入れ替え可能 ——汝ならぬソレ—— です。身体的な接触で視覚が失われる程の欲望の眩暈に巻き込まれる営みは良い性交に不可欠ですが、それに必要な「ゆだねと明け渡し」は、〈性愛の性愛以前的な前提〉を正しく確保しないと得られません。

──性に対して苦手意識や抵抗感のある私のような人が、「男の人が性欲を満たすために私の何かを奪おうとしている」「私を利用している」という被害意識を持つのは、性的なものにそういうイメージしかないからですよね。

宮台 ただ自分を責めてもダメ。あなたには幼少期の「いちゃいちゃ次元」の記憶があります。そこを手掛かりに〈性愛の性愛以前的な前提〉を正しく確保してくれる男がいれば、自己防衛を脱して言語以前的「いちゃいちゃ次元」に入れます。それだけでは言語的「関係性次元」を伴う唯一性の超越的享楽に達しないけど、まずは「ゆだねと明け渡し」です。

男の劣化はデフォルトとして、あなたがすべきなのは、高い願望水準(動機付け)と一体の正しい目標設定と、性愛の享楽を知らずに一生を終えることへの否定的意識と、それらを強く意識して得られる「失うものは大したものじゃない」という果敢な挑戦です。躊躇する内にあなたは年齢を(妥当か否かに拘らず)意識して諦める。チャンスは多くはないのです。

──肉食系の人たちが、たくさん関係はしているけれど、相手と深い関係を築けていない、というのは、エッチなことをしている感覚しかないからでしょうか。もっと大きな絶対性を感じにくいというか…。

宮台 「贈与」の話をしました。Giftはドイツ語で「毒」。贈与には対抗贈与がつきものです。贈与されたことが重荷なので、対抗贈与で荷を降ろします。交換にはないラグが関係=絆を作ります。交換は、物物交換でも購買でも重荷は即時解消。関係を作りません。人類学者モースは、マオリ族が絆を作る力を、超越的な力=マナとして観念するのを見出しました。

交換は実体経済でも貨幣経済でも欲求の相補性を前提とした損得勘定です。欲求の相補性とは互いに相手が自分の欲しい物を持つ状態です。合意した交換レートでは双方に利得があります。触り・触られる営みが交換ならば互いが「自分じゃなくても良いんじゃ?」と感じるので「2人オナニー」と呼べます。30年前の『サブカルチャー神話解体』以来の語法です。

他方、触り・触られる営みが非性的な大きな力の贈与&対抗贈与としてあると、性的欲求充足だと感じられる部分が一転、贈与の上乗せだと感じられます。そんなに贈与されても引き受けられないとの感覚が女の落涙・過呼吸・痙攣に含まれ、背負った重荷ゆえに今度は女がフェラや騎乗位で対抗贈与に乗り出します。男は贈与した手前それを自然に受け容れます。

分かりやすく喩えると、アイスキャンディだと思って食べたら(よくある性的欲求充足)、LSD体験でぶっ飛んだ(引き受け困難な過剰贈与)みたいな感覚です。相手にとって自分は入れ替え可能だと感じる性的欲求充足単体では、人はトランスしない。相手にとって自分は入れ替え不能だと感じる非性的な大きな力の贈与の上乗せがあって、初めて人は飛びます。

 

幼馴染同士のセックスの
どこが良くてどこが悪い

──実際にそれを感じられたら、幸せだと思いますね。性体験自体が遠いものと思っていた私にとっては、性行為自体が今でもなじめないのですけれど…。

宮台 問題を相対化するためにお話しします。最近まで13歳が刑法の性交同意年齢でした。かつては15歳以前の性体験が当たり前だったからです。母方祖母も16歳で結婚して24歳までに5人子供を産みました。ごく普通です。それがどんな感覚なのか読者には分からないはずです。それを「かつての村落の幼馴染み」をキーフレーズにしてお話ししてみましょう。

90年代半ばまで全国をフィールドワークしましたが、「かつての村落」の名残が一部に残っていました。昔ながらの地縁的共同性と生活世界が残った所では、修学前からの幼馴染み達と同じ公立小中高に行くのが普通です。高校に行っても幼保時代の幼馴染みがいます。高卒後には大学に進学したり就職したりといろんな人生に進みますが、関係が切れません。

幼馴染み達が高校生になると、一緒に遊んだり御飯を食べたりする流れの中に「セックスする」が入ります。互いに「恋人ではないこと」は分かっていますが、行きずりの援助交際みたいなものとは違うし、マッチングアプリで属性を認めあって「これなら許容範囲」と思って性交するのとも違います。「幼馴染みだからセックスする」という構えになります。

未刊の『テレクラという日常』の予告篇として95年に『創』に載せた「青森のテレクラ少女」に記した通り、これが元々の(村落的な)性愛です。「これなら許容範囲」的な互いに入れ替え可能な属性主義ではない。大半のパパ活みたいな感情の通わない事実性でもない。援交でさえ親しげ。そんな場所では主婦から女子高生まで援交価格は1万5千円でした。

幼馴染みのセックスでも互いに性欲を発露する営みだから性的です。でも恋愛と違う意味である種の贈与&対抗贈与になっています。相互にギフトし合う感じ。珍しくなりましたが今も漁師文化が残る所にはあります。都会しか知らない若い人には想像できませんよね。幼なじみのセックスは相手が1人ではない。でも浮気でもないし行きずりでもないのです。

──私は初耳ですが、一緒に育ってきて、お互いに性欲が生じる時期があって、性行為をしたくなるから「しましょう」というのは、いちゃいちゃ次元に近い感じもします。

宮台 そう。先ほどの「青森の〜」では、神奈川から転校してきて先輩にレイプされた中三の子が、同級生の女子達に相談したら性交未経験に驚かれ、「慣れてないからかも…援交すれば慣れるよ」とアドバイスされて援交を続ける話や、類似の実話を紹介しました。同級生の女子達はだいたい中二の夏のねぶた祭の機会に幼なじみ達と性交して慣れているのでした。

つまり、中学生までは性愛が絡まない「いちゃいちゃ次元」だったのが、中学生になって性愛が絡む「いちゃいちゃ次元」にシフトする訳です。高知や新潟みたいな漁師文化が色濃い所に残るのは、農村文化みたいなヒラメ・キョロメが少なく、学校が人工的に作り出す世間に同調しないからでしょう。「子供の領分」が自治的共同性として保存される感じです。

幼馴染みの性愛関係は、恋愛ではないけど、互いにリプレイサブルでもない。だからマッチングアプリに乗り出しても、「つまんないな、マッチングでセックスするなら幼馴染みとセックスする方がずっといい」と感じます。嫌な思いをしないで済むセックス相手に、全く不自由しないものの、悩みは「寝ても覚めても思う恋人ができにくい」ことになります。

相談を受けてアドバイスしてきました。近過ぎるから惚れにくい。程よく遠いから惚れる。幼馴染みであれ高卒後は離ればなれになる。違った場所で違った生活形式を数年送れば近過ぎる状態じゃなくなる。二人は幼馴染みだけど長い間お互い伺い知れない経験をした。であれば「幼馴染みだからいちゃいちゃできるけど、近過ぎない関係」に入れるよ、と。

直近にホテル街がある恵比寿駅周辺のお洒落な飲食店では、「マッチングで会って二回目だからホテルを想定している」的なカップルを目撃します。相手の属性主義的な許容範囲に入ろうと不自然に大きく頷き合い合うのを見るにつけ「さして親しくもないのにテンプレでセックスか」と脱力します。それに比べて幼馴染みの関係は「工夫次第で」実りがあります。

──男子の幼馴染みですか…。小学校の時、女子のグループはいくつかあったんですが、私はそこに属していませんでした。基本は3、4人の男の子と毎日放課後ゲームをしたりして、いつも一緒にいました。いちゃいちゃ次元の幼馴染みと言えるかもしれません。でも、中学に上がった時から疎遠になってしまいました。男子がしゃべらなくなって、離れていくんです。

宮台 そこにヒントがあったのですね。前にも話したように、小6前後で思春期になると性別を意識して話しづらくなります。でも中高でそれが不自然だと感じる一部の若者がサークルなど ——昔は若衆宿—— を通じて意識的に男女の交流を回復しようとしました。そうした観点でサークルを選んだり、サークルで意識的に交流すれば良かったということです。

あなたが今意識すべきなのは「セックスのハードルが高い」のではなく「ハードルが高く感じるように育った」ということ。そこで先の例を拡げます。漁師文化だけでなく炭鉱文化がある所でも「幼馴染みの性愛関係」が残ります。福岡の筑紫野市周辺や福島の郡山市周辺です。どちらも90年代半ばの援交ブームの時にフィーバー状態だったので取材しました。

養護教員らは文化的伝統で性愛のハードルが低いことを理解しておられました。当時の西日本新聞によれば筑紫野市の公立中学に広く跨がる援交ネットワークが見つかったけど、警察が中学生を百人以上調べた所でキリがないと調査を打ち切りました。僕が現地の中高生から聞き取りして驚いたのは、複数プレイの経験者が他の地域よりずっと多いことでした。

でもプレイとしての非日常性は意識されていません。典型はこんな感じ。①幼馴染みが男女数人で雑魚寝した。②やがて或る男女がセックスを始めた。③気が付いた周囲の男女がちょっかいを始めた。④気が付いたら混ざっちゃった。元々カップルはいないからスワッピングではない。さして親しくない不特定者のオージーでもない。先ほどの話に似てますね。

90年代半ば時点では既に、漁師・炭鉱文化が残る所での若者の性愛文化は、特殊に見えました。でも時系列を辿れば元々はそうした性愛文化が主流だったのが分かります。むしろこの四半世紀の性的退却が特殊な例外。その意味で、あなたは自分が特殊な性愛文化の中で育った事実を自覚し、帰国子女みたいにオリジンの文化に適応することを考えれば良い。

それには、性的アクティヴだった中高大時代の同性友達らと再度繋がって、少なくとも一人と親しくなり、自分がその通りするかは別に、彼女のリアリティを内側から ——彼女の視座から—— 理解するのがお勧めです。現時点のあなたが驚くような彼女の性愛遍歴や今の性愛行動を聞くうちに、「標準」についての主観的に構築された枠組が柔らかくなります。

実際、僕の話を聞いてきたあなたは柔軟化の鳥羽口に立ちました。そこで必要なのが自己距離化。前に話しました。抵抗感を感じる私を「乗りづらい車」だと見做し、それを工夫して運転しようとするコビトを私だと見做す「コビト化戦略」が自己距離化に役立ちます。そこから先に必要なのは「命短し恋せよ乙女」「人生一度きり」的な動機付けの強さです。

──なるほど…。男女が壁を感じずに自然に接する機会がとにかくなくて、最初から属性で判断して会うマッチングアプリの時代が今ですよね。そういう会い方はなんか嫌だと感じる私は、出会い自体にハードルを感じています。この話に関連して、実際の幼馴染みでなくても、「幼馴染み的な関係」が生じることがあると、以前におっしゃっていましたよね。ここにも興味があります。どういう風にしたらそうなれるんでしょう?

宮台 「子供に戻ろう」です。小学校時代にもっぱら男子と遊んだ頃の「いちゃいちゃ次元」のあなたに戻る。そして相手に持ちかける。「小学校時代のあなたに会いたい」。その意味が分からない鈍感男はキャンセルします。そして小学生に戻ったあなたと相手が、まずは「非性的に」いちゃいちゃし、やがて「いちゃいちゃ次元」に性的なものを繰り込んでいきます。

精神療法の一種ですが、本来辿り得たライフコースを圧縮して仮想的に辿り直すのです。言い換えればあなたが現実のライフコースで直面した蹉跌を回避して仮想のライフコースを相手と一緒に生きるのです。保証しますが、とても素敵な体験です。ただし「いちゃいちゃ次元」に性的なものを繰り込む主導権は、速度が出過ぎないように、あなたが握ることです。

子供に戻って戯れて互いに幸せだと感じられたら、それだけでも高いハードルを越えていると僕の体験から言えます。子供に戻って戯れる時、お洒落な場所に出かけるかな? お洒落な 振る舞いをするかな? 喰い気 味にうなずくかな? むしろそうした営みをゴッコで茶化すんじゃない? 子供に戻って戯れる時こそ、何の変哲もない場所で散歩をしたりするんじゃない?

ゼミには八丈島から来た大学生男子がいます。彼いわく「テンプレ・デートに相応しいお洒落スポットなんてない。中学時代にデートした時も普段通学で歩く海岸や森などを散歩するしかない。だからこそ、いつもの場所なのにこの人といると何でこんなにワクワクするだろう? と感じる。場所に盛られてワクワクするんじゃなく、その人にワクワクできる」と。

彼が語る中学生デートは素敵です。聞くだけで風景が浮かんでワクワクします。そんな中学時代を思い出すのも子供に戻ることに含まれます。最近の大学生に訊くと、中学時代には「寝ても覚めても」的な恋をしても高校生になると同性友達らを気にして「引く」ようになる人が多い。言語以前的「いちゃいちゃ次元」を言語的「関係性次元」が上書きするからです。

言語以前的「いちゃいちゃ次元」は何の変哲もない場所で生じます。お洒落スポットでのマッチング・カップルの会話は、男の「さかしらな蘊蓄」に女の「大袈裟な頷き」のテンプレ。聞いていて赤面する。男女共「自己防衛的な自己呈示」しかないからです。男は女の反応をろくに見ずに次の言葉を考えている。女はそんな男を不快にしないように気遣っている。

僕がマッチングで女に会ったら、初回デートでさえ、この無様なモードを全力で避けます。背景に東大助手時代の一度限りのお見合い体験があります。親同士の義理で有名企業の社長令嬢と見合い後にデートしました。恋人がいたので親の顔を潰さずに嫌われようと考え、普段考えている寸頓狂なことだけ話そうと決めて「UFO見たことある?」から始めました。

「幽霊は?」「幻聴は?」から始めて「このホラーは見た?」「見てないならこんな話だけどどう思う?」と場所も変えずに続けました。愛想よく相槌を打ってくれたけど、わざとテンプレを外して真面目な話を避けたので、断って貰えるはずでした。結果は「何度もお見合いしたけど、こんな楽しいデートはなかったので、結婚を希望します」。面倒な顛末になった(笑)。

何が起こったのか考えた。僕は「世界の七不思議系」。それを話す間「子供に戻る」。呆れたのか驚いたのか分からないけど相手が目を丸くすれば、コールされて「驚くのは早い、この話はどう?」と追い打ちレスポンス。子供時代の癖で自己制御できない。それが「蘊蓄」と「頷き」の言語的テンプレを壊し、言語外的「いちゃいちゃ次元」を開示したんじゃないか。

相手の資質もあるけど、僕は自分の魅力的な部分を見せてしまったのです。思えば93年の『宝島』でテレクラ3賢人に選ばれたのはなぜだろう? 人がしそうな話をしないと決めていたからです。電話上で複数のゴッコ遊びを提案して選ばせ、バーチャルな関係を構築してテレホンセックスに持ち込むと大体成功、3人に1人は相手から「会いたい」と言ってくれた。

ナンパ師としていつも考えていたのは「つまらない・対・ワクワクする」の二項図式。その修行もあって相手がワクワクするように自動的に喋ってしまう。見合いで素頓狂な話だけすると決めた時に、最低限のタガが外れて普段より一層ワクワクするように話してしまった。教訓:自分を良く見せたがる自己呈示は、必ずテンプレに陥って相手を「つまらなく」させる。

そんな経験が性愛ワークショップの第1メッセージを支えます。「自分をどう見せるかみたいな『つまらない』自己呈示じゃなく相手がどれだけ『ワクワク』しているか考えろ」。幼馴染みとはそんな感覚を共有できます。幼馴染み相手に自分を属性的に盛りますか? ワクワクしたくて戯れますね? 相手が幼馴染みでないなら、ソレをシミュレートして「子供に戻る」。

──お見合いの話、とても面白いです。テンプレをこなすことは、SNSで「いいね!」を集めて、どうでもいい人達を相手に承認欲求を満たす営みだから、そんなことは起こらないでしょうし、個人対個人の関係は深まらないでしょうね…。前に宮台さんが話された、「コミュニケーションしてみないと分からない」という未規定性に耐えられないから、「ああすればこうなるはず」というテンプレに依存してしまうんですけれど。

宮台 それを予測符号化理論で記述しました。①前から話してきた「育ちの悪さ」ゆえ、②未規定性に耐えられず何事も言語的な予測的符号の内側で処理したがるので、③驚きによる生体活性化の欠落で「つまらなく=生きづらく」なるけど、④「つまらなく生きる人はその人自身が誰から見てもつまらない」ので、誰も恋人どころか友人にさえなってくれません。

要素②を「言葉・法・損得の界隈に閉ざされる人=クズ」と表現してきました。クズは言葉のラベル(カテゴリー)を貼り付け、テンプレ(ステレオタイプ)の自動機械として振る舞う。ウヨ豚も糞フェミも似非科学オタクも同一。価値観は無関係で「右か左かより、マトモかクズか」。そんな輩を見ると「友達になりたくないな」と思うでしょ? まして恋人なんて(笑)。

リサーチすると大学生女子の大半が「フェミニズムに関心があるけどフェミニストだと思われたくない」と言い、訳を尋ねると「友達がいなくなるから」と全員が答えます。誰だって「つまらない」相手ではなく「ワクワクする」相手と付き合いたいでしょ? 同じメカニズムで、周囲が性愛をキャラ&テンプレ的に営むボットだらけなら、性愛がイヤになります。

でもちょっと待った。ボットではない性愛を明確に願望する男女は少数でも確実にいる。あなたが強い願望を持たないから探さない。探さないから見つからない。見つからないから願望が萎える。悪循環です。ボットではない性愛を強く願望する男女は共通して小中高で読書しています。それはなぜか。マスターベーションに絡めて次回詳しく話しましょう。

 

若いうちにテンプレをクリアし、
男の全体分布に当たりをつける

──こうしてお話を聞いていると、恋愛や性愛の欲望というのは、例えば、良い大学に入りたいとか、お金持ちになりたいという欲望とはどこか違いますね。恋愛してみたいという欲望とどう付き合えばいいのかも気になるところです。

宮台 その違いを社会システム理論家ルーマンは「共生的メカニズム」の有無に見ます。個体が強いからではなく、弱いがゆえにツガイであれ共同体であれ協働してきた長い歴史で得た進化生物学的なゲノム的達成のこと。できれば食事を一人で採りたくないのもソレ。できれば性欲を恋愛で満たしたいのもソレ。学歴や経済の階層的地位達成はソレらと全く違います。

いわく「恋愛」とは、「他我の喜びに向けて自我が振る舞う=他我の体験を志向して行為する」という偶発的にしか生じないコミュニケーションを、強く触媒する(=期待形成と動機形成を行う)言語ラベル(=コミュニケーション触媒)です。ただの言語ラベルと違って心身のゲノム的達成とカップリングしています。「できれば恋愛で性欲を満たしたい」というのがソレ。

コミュニケーション触媒としての「恋愛」というシンボルは、「12世紀ルネサンス=イスラム文化による世俗化」以降の歴史的達成で、「自分にとってあなたは世界全体だ」とする「人を神みたく扱う=内在に超越を見る」ロマン主義化ですが、「法悦」という言葉に見る通り、超越への帰依に享楽を感じるのは、長い共同の生活形式に由来するゲノム的達成です。

その意味で「恋愛」は歴史的達成がゲノム的達成を引き寄せたものです。だから「恋愛」は一部地域の歴史的達成なのに世界中に拡がって普遍化したのです。「近代」が一部地域の歴史的達成なのに世界中に拡がって普遍化したのと同型です。ちなみに「近代」の場合は歴史的達成が安全・便利・快適化を志向する近道ゲノムを引き寄せたことで普遍化しました。

「近代」を元々はローカルな歴史的達成だったとうそぶいて相対化できません。「恋愛」も元々はローカルな歴史的達成だったとうそぶいて相対化できません。メリトクラシー研究が示すように、経済的地位達成を「才能」プラス「運」と思う人が大半で、自分がイーロン・マスクみたいな億万長者になれなくても傷つきませんが、「恋愛」と結合した性欲発露は違います。

サンデルいわく「才能(実力)」も「運」の内。なので圧縮して「金持ちになれるかは運」。だから「金持ちになれなくても傷付かない」。宝クジに当たらなくても傷付かないでしょ? で も「恋愛できるかは運」だから「恋愛できなくても傷付かない」…とはならない。真逆で、恋愛できない人が、濃密な恋愛を生きる人を見ると、理不尽だと思って嫉妬し傷付きます。

実験心理学によれば自分が傷付くことについては認知的整合化が働きます。願望をなかったことにして忘れる草食化がそれ。リサーチでは恋愛できないと傷付くことも草食化が92年から出現したことも ——引きこもり化の直後—— 実証できました。ちなみに、統計上の性的退却は90年代後半からだけど、自己関与化という意味での性的退却は80年代後半から。

読者ヌードブーム、素人女子大生AVブーム、お立ち台ディスコブームの順で、90年代にかけて「一皮剥けるための」「ワンランクアップするための」性愛的営みが展開した後、92年からのブルセラ&援交ブームに繋がります。全てに共通するのは「相手の視線の無関連化=自己関与化」。だから93年に援交を発見して「とうとうそうなっちゃったか」と思いました。

その流れの渦中で草食化が始まりました。これは自己関与化と同一線上の社会現象です。共通して「願望をなかったことにして忘れる」営みです。誰でも望むように生きる権利があります。そのことと草食化と自己関与化が共に性的退却という社会現象であることは両立します。「逃げて生きてもいいけど、逃げない方がいいんじゃね?」という話に過ぎません。

すると、「恋愛」を通じた性欲発露=実りある性愛から、逃げずに生きるにはどうしたらいいかが課題です。復習すると、団地化=共同体空洞化、コンビニ化=家族空洞化、ケータイ化=個人空洞化(テンプレ化)の順で、人間関係資本(生活世界)の代わりに市場&行政(システム世界)を頼る動きが進み、それで言語的予測符号化へと閉ざされる感情的劣化が進みます。

それがキャラ&テンプレ化という性的劣化をもたらしました ——と言うと「個人の力じゃどうしようもないな」と失意します。でもちょっと待った。同じ育ち上がりの環境にあっても劣化する人としない人がいる。劣化した高校・大学生と劣化しない高校・大学生の違いはどこにあるか? 劣化しない高校・大学生らとの議論から重大な傾向が見えてきました。

それは次回に譲りますが、年齢・性別・階層を越えた外遊びで「黒光りした戦闘状態」になって「同じ世界で一つになれ=フュージョンしろ」という話ではありません。それだと「団地化→コンビニ化→ケータイ化」に抗うにせよ、ミクロな抗いには限界があるよという話に帰結します。提案したいのは小学校高学年以降なら誰もがすぐ実践できる生活形式です。

ここまでの話の目的は、性的退却が進んだ・キャラ&テンプレ化が進んだ・過剰ゲーム化が進んだ、性愛がつまらない=願望水準が低い ——願望をなかったとにして忘れた—— 若い人達に、適切な自己記述のツールを与え、認知的整合化を解除して現状の不全を直視して貰うことでした。この出発点の確保がないと、生活形式を変える動機付けが得られないからです。

次回の前にここまでの話の延長上で言えることがあります。社会大のマクロな背景ゆえ、皆さんがいきなり実りある性愛を探そうとしても無理です。むしろ中高生の段階では実りある性愛を探すよりも、残尿感がないくらいにまで巷に溢れたテンプレ・デートをしてみて、「したことがないのでテンプレ・デートに嫉妬的に憧れる」ような態勢から離脱してほしいです。

「コクってイエスでカップル誕生」とか「マッチングで出会って二回目のテンプレ・デートでセックス」も、別れようとしたらストーカーに変身しそうなヤバイ男を避けるのが条件ですが、してみてほしいです。ヤバイことがあったら相談できて一肌脱いでくれる男女の友達をできれば作って下さい。深さを欠く昨今の性愛は「深さを欠くがゆえに」リスク満載です。

ひと目で恋に落ちるような「特別」な相手を探さないでいい。そんな相手を探していたらいつまで経っても何もできません。むしろいろんなテンプレをゲーム・クリアして、凡庸を非凡だと勘違いする状態や、凡庸なテンプレに嫉妬的に憧れる状態を脱して下さい。「今まで何人とつきあった?」「3人だけど、いろんなことが分かった」と言える感じを目指すのです。

繰り返すと、中高生段階で必要なのはテンプレートの束をクリアすることです。億劫になりかかったら連載で繰り返した「命短し恋せよ乙女」「人生一度きり」「老いらくの恋はヤバイ」を思い出して下さい。別に究極を探している訳じゃないから落胆から自己防衛する必要もない。ブランコをこぐのと同じだと思えば良い。実際、慣れればどうってことはない。

男達の分布全体に当たりをつけるのが目的。魚釣り同様、最初からレアモノを探したら落胆の嵐。「男は皆同じ」的な所と「この習性・あの習性・その習性の男はこんな比率でこう分布」的な所を探るのです。さもないと「市場価値は続かない」と思うあなたは加齢すると焦ってテンプレに騙され、騙されていても時間を無駄にしたと思いたくなくて固執します。

──中高生というと、自分が出来上がっていく段階だと思いますが、その時に、他人と関係しながら、成長していくのが良いんですね。

宮台 そう。「3人つきあって、いろんなことが分かった」にはセックスを入れること。僕の話を聞いた以上、自己中心的なセックスをして、あなたに「なりきり」しないクズ男への、認知能力が上がっている。認知能力が上がれば、漠たる不全感で疲弊することなく見切れます。「希望に向かうには、絶望を正視し、かつ絶望に潰れないことが必要」ということを忘れずに。

──分かりました。性愛が大事だというのは実感しています。デートで良いお店に行ったら場所がフォローしてくれるし、服を着れば見た目を盛れるけど、セックスはそれが全部なくなることですものね。そこでのコミュニケーションは本質的だと感じます。今回はこれまでお聞きしきれなかったセックスの営みについて伺えて良かったです。次回は中高生からできる「恋愛能力を上げるための生活形式の変更」の話を伺い、以降は読者からの質問を素材とした質疑応答をしていただきたいと思います。ありがとうございました。

 

性愛に踏み出せない女の子のために
第11回 終わり