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性愛に踏み出せない女の子のために 第10回 第1部 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第10回 第1部 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年6月15日発売号で第10回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
今回は第10回誌面版を、WEB上で第10回の第1部として公開して、その後にWEB版の第2部を続けて公開していきます。今回のWEB版第1部は、ホームベースが失われた問題と、見られることで力が湧くことについて語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

前回の第9回は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai09a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


つまらなく、生き辛い社会へ

 

──この連載では性愛についてたくさんのお話を伺ってきました。今回はこれまでの話題の中で、もう少し聞きたいことに触れたいと思います。ひとつは、以前に宮台さんが「看取る」という言葉でお話されていましたが、いずれは死んでしまう生涯の中で、恋愛や性愛はどのような意味を持つのかということ。また、何回かお聞きしながら、なかなか言葉ではわからない性交そのもののこと。そこでどのような動きが起こっているのか。これらの話題をお聞かせください。  まず、前回の誌面版で「つまらない性愛、つまらない社会」についてお話いただきましたが、この「つまらない」ということが最近メディアで話題になっていたので、少し触れさせてください。IT起業家の小野裕史さんが、ビジネスでは成功したけれど、数字だけを見る資本主義のつまらなさに気づいて、財産をすべて捨てて出家したとか、経済学者の成田悠輔さんが生きていてつまらないと発言することで話題になりました。

宮台 連載でも何回かお話しました。アウェアネストレーニングが流行り出したのは日本では79年。僕が最初にセッションを受けたのは81年の大学3年。本格的に関わり始めたのが83年の大学院1年です。当時参加していたのはエリートの卵ないし若手エリート。そこで僕は「成功してもつまらない社会になったんだな」と気づいた。社会学者としての出発点です。

具体的には霞が関の若手キャリア、東大の理系文系の大学院生、プロとして活躍し始めたミュージシャンやアーティストなど、20代半ば前後の若者。エリート出世街道のトラックに乗ったのに「つまらない」。「こんなはずじゃなかった感」に打ちひしがれていました。似た現象 ─成功者のつまらなさ─ は、80年代半ばに潜り込んだ新興宗教にも見られました。

95年、地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教にエリートの卵や若手エリートが多数いたことが話題になり、事件の3ヶ月後に「輝かないエリート」をモチーフとした『終わりなき日常を生きろ』を緊急出版、毎月の『朝まで生テレビ』に出演しました。理由は、「成功者のつまらなさ」「輝かないエリート」の問題を語れる論者が、僕しかいなかったからです。  かつて宗教の参入動機は「貧病争」。貧困や病や家族不和に苦しんだ挙句、どうにもならずに宗教を訪れるもの。社会学でいう「手段(機会)のアノミー」です。他方、アウェアネストレーニングと同じ70年代末からの新興宗教ブーム ─新・新宗教ブーム、第4次宗教ブーム─ の参入動機は、非失敗者の「こんなはずじゃなかった感」で「目標のアノミー」です。  「手段のアノミー」「目標のアノミー」の概念は、19世紀末のデュルケム『自殺論』の印象的記述を、20世紀半ばにマートンが整理したものです。貧乏人と、金持ちになれた人を比べると、意外にも後者の自殺率が高い。なぜか。貧乏人は、不幸の理由を貧乏に帰属し、抜け出すべく毎日足掻くが、なかなか抜け出す手段が見つからない。それでも頑張って生活する。これが「手段のアノミー」。 

金持ちになれたのに不幸だとすると、その理由を貧乏に帰属できず、どこを出口にするべきか分からない。これが「目標のアノミー」。そう。まさに「こんなはずじゃなかった感」。手段が見つからずに宗教にすがるのと違い、所期の地位達成が得られたのに毎日がつまらないから、輝きが欲しくて宗教にすがります。ある程度豊かになった社会にありがちなことです。

前回、パク・チャヌク監督『別れる決心』(2023)が、「成功した犯罪者のつまらなさ」とそれによって引き寄せられた「成功した刑事のつまらなさ」ゆえ、つまらない社会から押し出される形で犯罪者と刑事が「同じ世界で一つになる=恋に落ちる」というモチーフを描くことを紹介しました。「成功してもつまらない社会」が僕の言う「終わりなき日常」です。 

それを書いてから28年。状況は悪化しました。成功してもつまらない事実を見ようとせず、それゆえ成功してもつまらない理由を考えなかったからです。成功してもつまらない理由は何か。『終わりなき日常を生きろ』に書きました。羨ましがられたり嫉まれたりするだけで、自分を愛してくれる者が祝福してくれないからです。母親が祝福してくれれば御の字。

問題は人間関係です。2年後の『まぼろしの郊外』(97)では背景を詳述しました。「60年代の団地化(専業主婦化)=地域空洞化」、「80年代のコンビニ化(個室化)=家族空洞化」です。後者では専業主婦が支えた最後の地域的紐帯が壊れました。結果「仲間以外は皆風景」になりました。94年に出演した『クローズアップ現代』で語った言葉で、一部に拡がりました。

電車内で地べた座りや化粧をする若者を分析する番組でした。国谷キャスターが尋ねます。それは新しい現象ですか。僕が答えます。イエス&ノー。「旅の恥はかき捨て」「去る者日々に疎し」の言葉に見る通り、仲間の外が「風景」なのは昔から同じ。ただ、違うのは仲間の範囲が急速に縮んだこと。ここで仲間とは、普段一緒にいることで視線を気にする範囲です。

僕が小学生だった60年代、クラスの女子はどこも2グループに分かれました。転校で6つの小学校に行きましたが、どこも同じです。ところが地域が完全に空洞化した80年代 ─地元商店はコンビニになり、新住民による危険(?)遊具やエロ自販機や組事務所の排斥運動が地域を変質させた時代─ を通じて3〜4人の小集団に細分化するようになりました。

地域の変質は少年犯罪に刻まれます。共産党員夫婦の息子が自宅2階に高校生を監禁、階下に親がいるのに不良集団で40日間レイプし続けて殺した、足立区綾瀬の女子高生コンクリ詰め殺人事件(89)が典型。名古屋アベック殺人事件(88)など、この時期かつてない凶悪な集団少年犯罪が起こるけど、不良集団を組がケツモチする地域社会が失われたからです。

『クロ現』の94年。ストリートの若者らは普段から3〜4人の小集団に所属し続け、小集団の外からの視線を重要なものだと意識した体験がない。「仲間以外は皆風景」という言葉はそれを含意します。そのことが「傍若無人化に見えるものの、一人一人は借りてきた猫のように大人しい子たち」という一見不思議な現象をもたらした── それが僕の分析でした。

この分析は90年代半ばのものですが、96年から更に状況が悪化します。「90年代半ば以降のケータイ化=個人空洞化」です。連載で話してきた「KYを恐れてキャラを演じる」「過剰さを恐れて心を打ち明けない」営みが蔓延し始めたのです。「仲間以外は皆風景」の仲間が小さくなり、遂にゼロになる。酒鬼薔薇聖斗事件(97)など凶悪な単独少年犯罪に象徴されます。

最近の特殊詐欺・広域強盗、安倍首相襲撃、宮台襲撃、岸田首相襲撃には、共通の匂いがあります。一口で「悩みを打ち明けられる仲間がいれば止めて貰えたのに」という感触。特殊詐欺・広域強盗は闇バイト募集に応募した普通の若者が大半。「犯罪の全体像を知らないから」というのは言い訳か、真実だとしても仲間がいれば「ネットを見ろ」と教えて貰えるものです。

60年代団地化=地域空洞化の時代、特に教室に団地の子しかいないニュータウンで育った子が、80年代コンビニ化=家族空洞化の時代、新住民として親になります。彼らは空洞化した地域で子を抱え込み、不信ベースで外遊びやヨソんちで御飯を食べ風呂に入る営みを禁じます。そして当時小学生の子が成人した90年代後半から、ケータイ化=個人空洞化を迎えます。

 

地縁社会はいずれ
ホームベースを失う

──空洞化がどんどん起こって来たのですね。

宮台 この道は避けられたか。ノー。日本が極端な地縁社会だからです。これを「去る者日々に疎し」「旅の恥はかき捨て」「郷に入りては郷に従え」という諺が示します。対照的なのが血縁社会。歴史上最も血縁主義の紐帯が強いのが、民族離散や大量殺戮の苦難を経たユダヤ人と中国人。動産不動産が没収されて当てにならず、もっぱら人間関係を頼るようになりました。

ただし日本人が想像するような「人間関係も大切にしなきゃ」という思いではない。共に宗教と結合した戒律が命じる行動。前者はトーラー(モーセ五書)と613のミツワー。ユダヤ人とはそれが命じる戒律(律法)に従う者のことで、「ユダヤ人だが従わない」という語法はない。後者は儒教規範が命じる行動。ゆえに共に個人の思いで左右される偶発性はありません。 

ユダヤ人は紀元前6世紀から、中国人は紀元前2世紀からの生活形式。二千数百年の歴史を持ちます。戒律を否定したキリスト教を唯一の例外として、長く続く宗教は生活形式を定めるので、人の生活を見れば宗教が分かりました。日本人は宗教というと信じるか信じないかの選択を想像します。でもユダヤ教と儒教にはそんな選択はありません。  ユダヤ人や中国人の宗教は生活形式を指定します。つまり宗教は命令的imperative。だから彼らは、見ず知らずの他人でも、血縁ネットワークに入っていると判れば、絆で結ばれた仲間であるがごときホスピタリティを示します。駐在員として派遣されようが、留学生として赴こうが、異国に一人で乗り込むことがない。どこにでも頼れるネットワークがあります。

彼らは、血縁ネットワークに埋め込まれ、リソースをシェアされて育まれるがゆえに、第1に、ネットワークにリターンを返すことに動機づけられ、第2に、疲弊したら帰還してリセットされて再びバトルフィールドにリエントリする。こうした営みを支えるものをホームベースと呼びます。それゆえ彼らは平気で移民します。その意味は沖縄を見ると分かります。

120年前からハワイ移民やブラジル移民の多くは沖縄の人。40万人を越えます。沖縄には13世紀の久米三十六世以来の中国に似た血縁主義の伝統があり、「去る者日々に疎し」がなく、他県出身者と違って始終移民先と沖縄を往来します。時々移民先から沖縄に戻って祭りをします(ウチナーンチュ大会など)。戦前から異国の人との結婚が多いのもそれが背景です。

血縁主義はホームベースを与え、バトルフィールドでの闘いを支援します。地縁主義にはそれはないのか。ありました。「故郷に錦を飾る」という言葉に示されます。僕が看取った小室直樹師匠は、会津の貧困母子家庭で育ったけど、神童だったので隣近所の金銭的支援を得て進学校会津高校から京都大学理学部に進み、ハーバードやMITなどに留学しました。

「故郷に錦を飾る」の意味が今時の若い人には分かりにくい。自らが埋め込まれ自らを育んだ地縁にリターンを返すという意味です。小室先生は自分が愛国者となったのは故郷に恩返しをするためと仰っておられた。故郷に錦を飾ったかつての帝国官僚も同じです。地縁はホームベースを与えるだけでなく、地域を支える国に貢献する公共的動機を与えたのですね。

対照的に、国を追われたり国に迫害された悲劇の繰り返しゆえに強い血縁主義を持つユダヤ人や中国人は、国に貢献するという意味での公共的動機を持ちにくかった。ユダヤ人はローマ戦争(AD70)でエルサレム神殿を破壊されて国を失いました。国の迫害から血縁の紐帯を保全する歴史を生きてきた中国人は、戦略的に従ったフリをする対象として国を捉えます。

維新以降の近代化=富国強兵や、敗戦以降の再近代化=戦後復興では、地縁主義ゆえの国家貢献という動機が有利に働きました。でも決定的弱点があった。長く一緒にいるという物理的条件が消えると地縁が失われるからです。つまり開発やテック化で失われるのです。その動きは60年代団地化から80年代コンビニ化で完成、日本社会からホームベースが失われます。

90年から中学生の「登校拒否」がマスコミで話題になり(現象としては86年頃から)、拒否というより行きたくても行けないのだとして「不登校」と名を変え、90年の中学生が20歳代半ばになった世紀の変わり目に「成人しても部屋から出られない」ので「引きこもり」と名を変えます。注目すべきは、日本社会のホームベース喪失と軌を一にしていることです。  という次第で、あらゆる社会現象を、60年代団地化=地域空洞化、80年代コンビニ化=家族空洞化、90年代後半からのケータイ化=個人空洞化という、世代的に昂進した不可逆の流れに引きつけて理解できます。抽象的には、地縁的なのに共同体存続規範が乏しい日本人が、人間関係の代わりにシステム(制度やテック)に依存するようになったがゆえの自然な結果です。

 

流れに抗う社会学的啓蒙と
体験デザイン

宮台 以上を「3段階の郊外化」と呼びますが、第1段階の60年代団地化の時代に既にホームベース喪失を危惧する子供番組がありました。『ウルトラセブン』最終2話が描くダンとアンヌ隊員の恋や、次クールの『怪奇大作戦』京都2部作が描く恋がそう。共通して「何のために社会で戦うの?」「大切な人を守る以外に戦う理由があるの?」というモチーフがあります。

血縁社会や空洞化以前の地縁社会なら、自分を育んでリソースをシェアしてくれた ──抽象的に言えば交換ならぬ贈与に満ちた── 仲間を守るため。外からはグリーディ(強欲)なガリガリ亡者に見えて、実は仲間のために戦っている。さもないと、つまらない。ここで「仲間」とは、損得を越えて絆で結合した ──交換ならぬ贈与に満ちた── 関係ということになります。

そうした仲間は、戦士として出撃する力を与えると同時に、戦い疲れた戦士を帰還させて癒し回復させるから、戦いが持続可能になります。燃え尽き(バーンアウト)は、戦いのキツさだけでなく、力を与えては癒すホームベースの有無にも左右されます。ホームベースが消えた社会で、戦闘力を失い、心を病んだ成員は、生産性を低下させます。まさに今の日本です。

共同体の定義は様々ですが、ウェーバーの定義は「対内道徳と対外道徳の二重性」。例えば共同体外部では交換優位だが共同体内部では贈与優位といった二世界の区別です。ちなみに全生活時空の共有ゆえに同じものを同じように体験する界隈(マッキバー)や、入替可能な「それit」ならぬ入替不能な「汝you」として眼差し合う界隈(ブーバー)という定義も大切です。

関連して、共同体内部で必要な能力を「エロス」的なもの(無条件的承認と贈与の能力)、外部で必要な能力を「確かさ」的なもの(条件付き承認と交換の能力)として区分する伝統もあります。「エロス」的な界隈(外)で自己と世界の関係への基礎的信頼を育んだことを前提として、初めて「確かさ」の界隈(法生活)を生きる能力が得られるとするのがエリクソンです。

いずれも関係し合う命題ですが、今の若い人は、共同体を定義する「交換ならぬ贈与優位の界隈」「それitならぬ汝you優位の界隈」「確かさならぬエロス優位の界隈」と言われてもクオリア(体験質)を想像しにくいでしょう。そんな界隈を生きた体験が乏しいからです。それでも辛うじて想像できるのは、願望の中の恋愛。だから世直しの入口を恋愛に定めるのです。

ホームベース喪失の流れは20世紀初頭に気づかれていました。でも自然な過程を止めるのは難しい。人間関係(ソーシャルキャピタル)の代わりにシステム(制度やテック)に依存する自然な過程は、共同体存続規範が強い欧州や信仰共同体規範が強い米国でも、日本ほどじゃなくても進んでいる。日本人は規範が薄い「ヒラメ・キョロメの空っぽ」なので「課題先進国」なだけです。

一夜で天皇主義者が民主主義者に豹変する日本人の「空っぽ」と、上を伺い(ヒラメ)周囲を伺って(キョロメ)ポジション取りをする「一番病」を嘆いたのが、70年の三島由紀夫。日本人には集団を尊重する集団主義はなく、ボジション取りに固執する利己主義が国際比較で突出する。これを統計で実証したのが90年代の山岸俊男(『集団主義文化という幻想』2002)。

価値観があると見えて、全てはポジション取りの道具。大学に入った78年、地方出身の孤独な東大生が、鍋パーティに誘ってくれた当初は覆面のカルトやセクトに加入したと思ったら、程なく口角泡を飛ばしてイデオロギーを噴き上げ始める姿を幾度も見ました。当選したけど仲間がいない議員が、座布団をくれた団体に染まり、数ヶ月後に右翼政治家に早変わりというのも、それ。

中学高校紛争で醜態を熟知していたので、90年代の援交を巡る論争で「社会学的啓蒙」を提唱しました。道徳を語ると見えて価値観が空っぽな、論壇座敷に座布団を得たがる空疎な「論壇人」とそのケツを舐める「民衆」を尻目に、相手が価値観を欠く損得マシンであっても、情報を与え、社会の全体性について妥当な状況認識に導くことで、妥当な行動をして貰うのです。

当時の『朝生』での発言。道徳を主張したけりゃ御自由に。欧州の過半で売買春が合法だという事実も知らず、それを支える「法と道徳の分離」という近代法の法理も知らず、道徳に従えとホザくだけの、所詮はアンタの道徳。複雑な社会では人々の生活形式が分岐し、それに裏打ちされた道徳も分岐する。だから僕は援交少女に道徳を説かない。所詮は無駄だから。

代わりに事実だけ話す。そのやり方は危険だから、このやり方がいい。僕との繫がりは一時的だから、今後も戦略知をアップデートするには仲間と繋がった方がいい。援交や枕営業は人間への期待水準を下げるから、援や枕をする事実を含めて何でも話せる恋人を作ろう。枕云々は、芸能の子を恋人にした経験から、取材で芸能の子に繋がると必ず語ってきたことです。

ところが、95年のインターネット元年を経て90年代後半から進んだケータイ化=個人空洞化で、持続的自己価値を欠く者が自分に不都合な情報を遮断する「見たいものしか見ない営み」(フィルターバブル)が昂進します。情報不完全性より、むしろ自己防衛(自己のホメオスタシス)ゆえに、誤情報から離脱しようとしなくなった。社会学的啓蒙は「マクロには」失効しました。

それでも、各問題の背後にある共通メカニズムを記録する営みは「課題先進国」に生きる者の責務です。実際、背後のメカニズムに目を向けると、性的退却も、引きこもりも、カルト化も、ネトウヨ化・クソフェミ化も、ポピュリズムも、政治的無関心も、全て同一線上にある。クサイ臭いは元から絶たなきゃダメ。一つだけ変えようとする消臭剤的な営みは徒労です。

また「マクロには」失効しても、大切な仲間に不完全情報に基づく馬鹿げた行動を損得ベースで回避させるという意味で「ミクロには」永久に有効です。むろん、自分はこの決定で良いがアノ人・コノ人はどうなるかを想像して懸念する感情的能力 ──ルソーのpitié── を実装できれば更に良い。だから僕は20年来「共同体自治主義 municipalism」を主張しています。

さて「課題先進国」だとして、どんな課題か。入替可能な「それit」として扱われる界隈(システム世界)が拡大し、入替不能な「汝you」として扱われる界隈(生活世界)が消えて、①持続的自己価値(尊厳)を失って人間関係から退却する者が増え、②感情的安全が失われて不安を埋め合せるべく他責・他罰化に淫する者が増えて、③民主政が誤作動するという問題です。

平たく言い換えると、かつては様々な便益を人間関係から得ていたのが、テックを含めたシステム依存ゆえに人間関係能力が育まれなくなり、ゆえに人間関係がノイズやコストだと感じられるようになった結果、ますます人間関係よりもテックを含めたシステムを頼るという悪循環。この悪循環を先に普遍的に自然な過程だと言いました。国や文化に関係ないのです。

この種の思考は20世紀半ばの社会学に既にありました。マードック核家族論に影響されたパーソンズが典型です。産業化・都市化・郊外化で、生産単位でもあった自営業的家族は消滅。諸機能をアウトソーシングした消費単位になる。最後に残るべき機能は何か。①感情的安全の供給機能と、②それが支える子供の第1次的社会化機能。この二つは譲れないとします。

なぜか。戦間期のブーバーを踏まえればこうなります。労働市場を含めた市場や、会社を含めた組織(行政)では、人は入替可能な「それit」以上になれない。そこは言葉と法と損得の界隈。だから、互いを入替不能な「汝you」として眼差すがゆえに感情的安全が保たれ、それゆえ子供を適切に社会化できる家族を、最低限死守する必要がある。先見的な思考です。

では、家族は血縁的である必要があるか。彼の社会システム論をアップデートしたルーマンによればノー。普通は許せないことを「お兄ちゃんたら」「ママったら」という具合に持続的関係の履歴ゆえに感情的に許せる機能があれば「家族」と言っていい。僕の言い方では、そこは言外・法外・損得外の「同じ世界」を共有するがゆえに感情的安全が保たれた界隈です。

社会システム論は機能に注目する枠組です。機能が等価であれば見掛けは意外でもイコールで結べるとします。だから第1に、各々の社会の典型家族以外に多様な変形家族を「家族」に数えられます。第2に、「家族」の外に連続体的に「家族的」な地域を構想できます。実際、かつて地縁的な社会には互いを汝youとして眼差す人間関係が多少なりともありました。

『まぼろしの郊外』(97)から繰り返してきたけど、汝youとして眼差し合う感情的に安全な界隈が家族に限られるのは危険。第1次社会化を担う重要な他者 significant others(ミード)が偏った手本 role model を与え、アドラーが言う「課題の分離」の失敗を招くからです。子をダシにした地位達成のために親が立てた目標を、子が自分の目標だと勘違いすることです。

僕の小学生時代のように、団地の子・お百姓の子・お店屋の子・医者の子・ヤクザの子が性別と年齢を超えて混ざった外遊びや、ヨソんちで御飯を食べたり風呂に入ったりする営みが、なぜ重要か。親が語る・語らなくても伝わる、「良き人生」なるものが、狭い界隈でだけ意味を持つ「所詮はアンタの道徳」に過ぎないのを知り、親が許さない手本が得られるからです。

昨年他界した父は、ビール会社で今や飲料部門よりも収益を上げる医薬部門を渡米して立ち上げて執行役員になった、成功した会社員でしたが、何かにつけ「いい学校・いい会社・いい人生」の昭和スゴロクに僕を誘導しました。でも親とのタテorthogonalの関係とは別の、ヨソんちの大人との斜めdiagonalの関係が、僕に異なる手本alternative modelを与えました。

以上の通り、僕の理論的思考は体験によって駆動され、僕の世直し実践は体験を「思い出さす営み」「想像する営み」を手掛かりとしています。そこから見ると、先行世代は後続世代にどんな体験を用意できるかについて、責任を負う。知識や道徳を伝える「教育」ならぬ、適切な体験を用意する「体験デザイン」の営みが、何より大切だと言い続けてきた所以です。

 

「あなた」として見てくれる 人だけが与える力

──ホームベースの失われた日本では、体験デザインが大事だということですね。さらに、宮台さんは以前に、人生を送った先にある死の問題もこの連載で語りたいと仰っていましたね。

宮台 昔の日本人はよく葬式に行きました。参列者は今の10〜20倍。そのぶん誰でも葬式に頻繁に呼ばれたんです。僕が子供の頃、葬式の多くは自宅でやり、地域の人が仕切りました。70年代からは、葬儀場を借りて会社が仕切るようになり、参列者も増えました。ところが平成不況以降、会社の仕切りが激減し、地域抜きで家族が仕切る小さな家族葬・密葬だらけになります。

今まで30回ほど葬式に出ました。大学卒業まで8回。僕の世代には珍しくありません。死体を見たり触ったりした経験も多かったです。看取る経験も多く、僕も3回体験しました。こうした体験で「人が簡単に死ぬのだ」と思い知らされます。僕も襲撃されて改めて「人はいつ死んでもおかしくない」と感じた。今の若い人はそんな体験が乏しいぶん死を実感できません。

死を実感できないと、無意味な営みに淫します。例えば、癌告知で死のさし迫りを意識した時、孤独に苛まれます。死を実感しない者は、入替可能な「それit」ならぬ入替不能な「汝you」として眼差されたいと願う強い動機を持たないからです。死に繁く触れてきた者は、悼み弔う営みから見放された成功者の、寂しく惨めな死に様を記憶に刻み、こうなりたくないと思います。

コロナが拡がった2020年、哲学者アガンベンが、遺体を袋に入れて墓地に直送して埋葬する政策を、看取り悼み弔う機会を奪う愚策だと抗議しました。欧州各都市のロックダウン政策を、若者の集まりの機会を奪う愚策だと抗議したことと併せると、死者の尊厳に加え、看取り悼み弔う機会を奪われる若者の、人間観・社会観・世界観への影響を危惧したものでしょう。

僕のゼミに参加し、映画トークを長く御一緒してきたダースレイダー氏は十数年前、脳梗塞から奇蹟的に生還されました。僕は昨年、殺人を企図した襲撃から奇蹟的に生還した。それで同じ「死に損ない」として彼と「同じ世界」で「一つになる」ことができました。実際、トークの質が上がったと多くの人に言われます。「死を意識した優先順位」のなせるワザです。 

「死を意識しない生」は、優先順位を履き違えた目標混乱(アドラー)を伴います。実際若い人はいろんなことを先延ばしにする。受験だから恋愛はやめるとか、仕事が一段落してから家族形成とか。今後も生が続くという前提に立つからです。この前提に立つ限り、今やらないものは永久にやらない。だから永久に恋愛や家族がないがしろにされ、寂しく惨めな死を迎えます。

僕が20代で彫琢した予期理論(社会システム論の一部)があります。皆は明日地震が起こるとは予期していない。これは明日地震は起こらないと予期するのとは違う。前者は地平的予期で、後者は主題的予期。フロイト的には前者は前意識で、後者は意識。前意識が意識へとシュレディンガー的に収縮した時にだけ、前意識クラウドが変わり、生き方(優先順位)が変わる。

ざっくり、残り時間が無限と思えるか、残り少ないと思うか。残り時間を意識せよと言われないと意識しないのは ──誰でも言われれば意識できる──残り時間が無限という前提に立つのと機能的に等価です。残り少ないとの前提に立てば、いろんなものに力を振り向けることが無駄だと感じられます。実はこの時、その人の人生がハカリにかけられることになります。

「残り少ない、ならばアレとソレとコレにだけ力を使うぞ」みたいに「力が湧く」時、人は親友や恋人や家族を意識しています。「残り少ない、だから全てが無駄に感じられる」みたいに「力を失う」時、人は「受験だから恋愛は後回し」「仕事が一段落してから家族形成」みたいな「先延ばし」に淫して来たがゆえの老人性鬱に陥ったことになります。自業自得。 

これは「人は危機に於いて真価を問われる」のバリエーションです。意志が強ければバトルフィールドで戦い抜ける。嘘です。重い怪我・病気・鬱化で人は容易にヘタレます。本当はそれを知っているのに地平的予期に追いやり、怪我・病気・鬱化が永久にないとの前提で行動しがち。死を地平的予期に追いやるのと同じで、見たくないものを見ない認知的整合化のワザです。

いつ死ぬか分からない。怪我・病気・鬱化で沈没するか分からない。これを意識せざるを得ない悲劇の歴史を共有する集団が、バトルフィールドの外にホームベースを樹立・保全する宗教を立て、距離や面識の如何にこだわらず助け合う血縁主義の営みを続けてきた話をしました。僕らは血縁主義がないけど、今話した機能的メカニズムを意識し、対策を講じるべきです。 

僕は殺されかけました。恐怖にヘタレても人は納得するでしょう。でも、ここでヘタレるわけにはいかないと僕に思わせたのは何か。家族や親友の眼差しです。彼らにだけは「所詮その程度の奴だった」とは思われたくない。「マル撃 トーク・オン・デマンド」はパイロット版を含めて4半世紀続けていますが、盟友の神保哲生氏にだけは恥を晒せないと思ってきました。 

僕は加齢しても怪我をしても「力」を失っていません。強いからではない。ホームベースの人達に見られていると感じるからです。話してきた人類史を復習します。誰にも見られていない存在は崩れやすい。だから古くは、人が見ていなくても動物や樹木や山や川が見ているというアニミズム的感受性を持つ集団だけが集団生存確率を上げ、ゲノムを残してきました。

これを自然信仰とも言います。自然信仰は生活形式に依存します。移動を強いられたり自然が破壊されて終わります。それゆえ一部は自然信仰 ──横の視線── をむしろ否定し、唯一絶対神 ──縦の視線── を意識することで、違う自然環境に置かれた人々を包摂する文明(大規模定住)を形成します。要は、諸事物に見られなくても、神に見られているという構えです。

 

やがて一部の文明は、神に見られなくても、自分に見られているという構えにシフトします(フーコー)。これが近代的主体の形成。でも昨今の神経症的な ──不安を素頓狂な営みで埋め合わせる── 感情的劣化と、それによる民主政の異常出力を見る限り、持続可能性に乏しい脆弱なものでした。経済成長とソーシャルキャピタルがなくなると持続できないのです。

ソーシャルキャピタル(人間関係資本)とは、互いをそれitならぬ汝youとして眼差し合う関係で、システム世界(市場と組織)ならぬ生活世界(共同体)の人間関係です。汝youが織り成す生活世界を等閑に付して大丈夫と思えたのは、それitが織り成すシステム世界が今後も安全・便利・快適を保証してくれると思えたからです。でもそんな思い込みは思考停止に過ぎません。

不安を埋め合わせる素頓狂な営みの典型が、日本スゲエ系のウヨブタ。実際は全ての経済指標と社会指標が日本のダメさを示しています。むしろダメ意識による不安が「スゲエ国への所属」による埋め合せをもたらしている(フランクフルト学派)。その点「日本スゲエ」と叫ぶクズがウヨウヨ湧く現象自体が、日本がスゲエどころか徹底的にダメである事実を示します。

抽象的に見れば、加齢や重い病気や怪我で「昨日あったように今日もあり明日もある」という自明性が破られて途端に力を失う現象と、定年退職などで自明性が破られて途端にウヨブタ化する現象と、日本のダメさが明らかになることで自明性が破られてウヨブタが湧きまくる現象は、同一線上です。それら程度で不安になるのは、ホームベースがないからなのです。

レベッカ・ソルニット『災害ユートピア』(2009)は、災害によるシステム世界の壊滅で日常の自明性が失われたことで、逆に失われていた生活世界の助け合いが立ち上がって人の力が湧く現象を報告します。でも僕のリサーチでは、阪神淡路大震災(1995)ではそれがありましたが、16年後の東日本大震災(2011)では多くの避難所で救援物資の奪い合いがありました。

システム世界の安全・便利・快適な自明性が失われた際、力が湧く場合と、力を失う場合がある。この違いは何か。不安を押し留めるホームベースとしての生活世界が曲がりなりにも残っているか、消えているかの違いです。繰り返すと、システム世界は互いを入替可能なそれitとして眼差し合う界隈で、生活世界は互いを入替不能な汝youとして眼差し合う界隈です。

僕の思考では、システム世界は死を見えなくする界隈ですが、生活世界は死が丸見えの界隈です。先に話したように、看取りや葬式で遺体を見たり触ったりする体験が失われたこと自体、生活世界のシステム世界への全面的な置き換え=汎システム化pan-systemizationを表します。それは悼み弔う体験を奪うことで、死を意識しながら生活する機会を徹底的に奪います。

ゆえに論理的に、死者が汝youとして見て貰える界隈でだけ、生者も汝youとして見て貰えます。そこではイイトコドリが出来ません。そこからカトリックの祈りの二つの柱(ベネディクト16世)を理解できます。第1は「神よ、私が皆を裏切らないよう見ていて下さい」。第2は「しかし私はあなたのものです(誤っていたら地獄に落とせ)」。注目点が二つあります。

 

カトリックと哲学的人間学と 人類学からブーバーへ

宮台 第1はキリスト教が「神に見られることで強められる」宗教であること。仏教が「真理を知ることで苦しまなくなる」宗教なのと対照的です。釈尊は12月8日に「それありてこれあり。それなくしてこれなし」という真理(縁起)に覚醒します。彼に倣って真理に覚醒する営みが仏教です。彼は「さとり」の言葉を使わない。この言葉は、真理を知る者の構えを外から見たイメージです。

第2はキリスト教が共同体宗教であること。教会による聖書解釈の代理を否定する万人司祭主義は正しい。でも俗流プロテスタントの如く、罪を犯さず生きてきた「私を」お救い下さいと祈るのは、神を取引相手と見做す瀆神(神強制)。神強制を否定しても、予定された「私の」救いを確証したがるのは、人々に衝撃を与えたイエスの言行の価値を否定する瀆神です。

刑死後3日目(日没で日が変わるので今で言えば2日目)にイエスが(まず女達に)現れたとする復活譚は、神に見られることで奇蹟的な力を発揮したイエスの奇蹟性に初めて震撼し、そのイエスに見られていることで自分達にも奇蹟的な力が湧く奇蹟性を確信したという体験の隠喩で、復活譚自体は昔から古イスラエル周辺にある土俗的な信仰の借り物です(八木誠一)。

ベネディクト16世は、キリスト教は、見られることで強められる「見る神」の信仰という、世界中に古くからある普遍的形態の一つだとします。日本人にも分かりやすい。人が見ていなくても御先祖様が見ている、御天道様(太陽)が見ているという既に話したアニミズム的構えです。「万物が見る=万物が人だ」という構えの普遍性を唱導したのがデ・カストロです。

この万物physisは空間性を越えて時間性を含みます。死んだ動物や樹木や御先祖様からも僕らは「見られます」。僕は「ナンパ地獄」に苦しんでいた30歳頃、母の結婚直前に他界した祖父を墓参した際、会ったことさえない祖父の声を生々しく聞きました。以降祖父が見ているという前提で生きるようになります。人類学や民俗学を学べば普通の体験だと分かります。

この「見られる」体験が僕をキリスト教に導きました。「見ることで強める神」の信仰です。最近の僕がブーバーの話をするのも関連します。人類学や民俗学を学ぶ内に、似た話を読んだなと「思い出した」。中2で読んだブーバーです。当時の倫社の氷上信廣先生(麻布中高)から戦後のフランクフルト学派とそれに関連する書籍を紹介していただいて手に取りました。

ブーバーいわく、あなたは人をそれitならぬ汝youとして見ることができ、人はあなたをそれitならぬ汝youとして見てくれます。それだけじゃない。あなたは馬をそれitならぬ汝youとして見ることができ、馬もあなたをそれitならぬ汝youとして見てくれます。馬みたいな動物だけでなく、草花や樹木や無機物も、あなたと互いに汝youとして眼差し合えるのです。

それらの延長線上に「見ることで強める神」が在るのだとします。周りにあなたをそれitならぬ汝youとして見てくれる人や動植物がいなくても、暗い洞窟で無機物さえ見えなくても、あなたは神によって汝youとして見られることで、輪郭と重みと力を与えられる。先に話した場所依存的な自然信仰(アニミズム)から場所非依存的な一神教へという展開とも符合します。

ユクスキュル→シェーラー→ポルトマン→ゲーレン→ルーマンというドイツ哲学的人間学の19世紀半ば来の流れと19世紀末のフロイトに照らせば、本能(生得プログラム)の未然(不在ではない)が、文化(習得プログラム)を促しただけでなく、動植物や無機物を含む広い意味での仲間に「見られる」ことでシャンとする生得プログラム(ゲノム的傾き)を追加したのです。

進化生物学やそこから派生した進化心理学に従えば、不完全な本能を、「見られる」ことで力を得る追加的本能で補完し、その追加的本能に適合した文化を習得した個体の集まりが、淘汰圧に抗して集団生存確率を上げた(ことで個体生存確率を上げ、ゲノム生存確率を上げた)のです。この淘汰プロセスは今も進行中ですが、ランナウェイ現象が問題になっています。

 

性選択によるランナウェイと
文化選択によるランナウェイ

──「見られる」ことの重要さはこの連載で感じました。ランナウェイ現象とは何ですか?

宮台 ランナウェイ現象はクジャクの飾り羽根やマンモスの牙に象徴されます。当初は自然選択上有利なので進化した飾り羽根(個体の健康を示す)や牙(戦闘力を示す)が、性選択の対象になって暴走する現象です。結果、マンモスは自然選択で滅び、クジャクは人が保護しないと自然選択で滅びます。ランナウェイは性選択に限らず、文化選択(文化進化)に於いても生じます。

ヒトには近道をする(安全・便利・快適を求める)ゲノムと、孤独を恐れる(汝youとして眼差されないと心身が壊れる)ゲノムがあります。前者の発現は直接的ですが、後者の発現は間接的。ヒトは孤独を、敵だらけの周囲への必要な自己防衛として合理化したり、埋めるのにコストがかかる孤独を、刺激で解消できる退屈に変換する神経症的営みに淫したりするからです。

要は「近道ゲノム」と違い「孤独ゲノム」は粉飾決算できます。すると、システム世界の安全・便利・快適(AmazonでポチればOK的なもの)の延長上で、生活世界(互いを汝youとして眼差す相互扶助)がキャンセルされますが、それで生じる誰からも汝youとして眼差されない没人格化(ウェーバー)の孤独は、退屈を刺激で解消する市場(リッツァ)で粉飾的に補償されます。

こうした方向の文化選択(文化進化)は、代償として、互いを汝youとして眼差し合う感情的能力を劣化させて、民主政の出力を出鱈目化し、人類生存の損得勘定で自然を制御するだけで、自然の諸事物を汝youとして眼差すがゆえに抑制的になる感情的能力(ハウザーが言う殺せない・壊せないという「感情の越えられない壁」)を劣化させ、気候危機を克服不能にします。

これが性選択ならぬ文化選択のランナウェイ。これは統治問題ではあれ、互いをそれitとして眼差すシステム世界をどうするかという通常の制度問題ではありません。ランナウェイで毀損されているのは感情的能力で、互いを汝youとして眼差す生活世界をどう作り直すかが問題です。その視座からのみ、生活世界に配慮したシステム世界の制御が問題になります。

むろんかつてのリソースは失われ、テック化ゆえに生活形式も一部不可逆に変わりました。ノスタルジー的復古は問題外。生成AIやDAO(分散型自律組織)・NFT(非代替性トークン)・ブロックチェーンなどを組み込んだWEB3(特定組織を越えた統治者なき生態学的全体性)を味方に付ける必要があります。しかしWEB3があれば何とかなるという楽観は、素頓狂です。

生成AIの出力は、①人々の現在までの活動をデータ化したものを、②人がデータセットを指定することで、③機械学習を通じてアグリゲート(順列的に集計)したものです。「データセットの外」や「人々の過去の活動の外」では活動できません。だからウェルメイドな秀才的表現を出力できても、突拍子のなさを含む天才的表現を出力できません。それだけじゃない。

それらウェルメイドな秀才的表現は、データセットを工夫したにせよ、人々の現在までの活動が感情的劣化を被っていれば、引き摺られて劣化します。DAOやNFTやブロックチェーンも「それだけでは」参加者の感情的能力を豊かにしない。これは論理的問題です。だから感情的能力の増進に向けた操縦を誰か(複数形)がおこなう必要があります。やり方は様々あります。

ざっくりWEB3は統治者による命令と賞罰を頼らない「信頼コミュニティ」の形成を支援します。でも「信頼コミュニティ」で人々が何をするかはそれでは決まりません(過少決定)。そこが自生性spontaneousnessに任されていれば、評判エコノミーと同じで、人々の評価能力を決める感情的能力の枠内でしか動きません。感情的劣化の悪循環さえ生じかねません。

この論理構造を踏まえ、「WEB3があれば何とかなる」という短絡を排した上で、当初はミクロであれ、文化選択のランナウェイ現象に抗うダイナミズムを目指す必要があります。ポイントになるのが、感情的能力が過去の体験として何を「思い出せる」かで決まること。だから、やはり幼少期から何を体験できるかをコントロールする「体験デザイン」が重要です。

やり方は様々だと言いましたが、慎重さが要ります。マッチングアプリ経営者の一部に、AIでプレイヤーの行動履歴から感情的能力を推計して「悪貨」を弾き、従来の「悪貨が良貨を駆逐する」弊害を除去するアーキテクチャを提案したことがあります。良き動機付け(のフリ)をナッジする(背中を押す)一方で、フリを蔓延させたり、怨念を蓄積したりする可能性があります。

トークン(何を呼び出せるかが決まる割り符)を用いて「悪貨」を弾くやり方も構造的に同じ問題を抱えます。いずれにせよ、そこは「やってみなきゃ分からない」という実験室的性格を帯びざるをえません。だからファシリテーター(座回し)の機能を果たす人が重要になります。でもそれに必要な資質を持つ人材が枯渇している可能性があります(サンスティーン)。

──AIは絵を描く人たちも気にしている問題なので興味深いです。話は戻りますが、「ホームベースの人たちが見ているから元気が出る」というのは、「社会で機能している自分」と、「重要な人に見てもらっている自分」との違いなんですよね? 絵を描いている人も、依頼を受けると、「自分の絵を見てくれているんだな」と思って嬉しいけれど、いざ作品を提出すると、相手は受け取るだけで感想がないことも多いそうです。それではやる気が起きない。絵を描くという「機能」しか求められておらず、重要な「あなた」としてはみなされない。社会から少し外れて見える表現の世界でも、そういう話を聞きます。

宮台  「誰に見てもらうのか?」が大事です。例えば僕は炎上に強い。前に話した「あんた良い人、どうでも良い人」問題で、そういう人のことは眼中にない。さらに「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」の類を「クズ」と呼びますが、それも眼中にない。基本、僕が尊敬出来るような、価値ある生き方を追求している人に届きさえすれば良いと思います。

僕は本を十数万人に読まれたいなど数の多さに興味がありません。僕の本を読んだ人や、教えた学生の中から、どんな凄い人が出てくるのかだけ気にかけます。最近だと、TBSに入って3年目だけど特殊詐欺の潜入取材をやったアダム塩田君。世界の思想家たちをインタビューした朝日新聞エルサレム支局長の高久潤君。彼らはいつ辞めてもいいと覚悟しています。

対照的に、盟友の神保哲生氏が切り盛りする外国人特派員協会ではこんな話があります。安倍第2期政権の時、「マスコミに対する弾圧がある!」と名だたるジャーナリストが雁首を揃えたんです。外国人記者が「拘束されて拷問されたりしたのですか?」と尋ねた。「いや、それはないんですが…」と答えたから記者たちは失笑。「なんだ。書けば良いじゃん」と。

「組織にいられなくしてやるぞ!」なんて脅しに入るの? ネット時代、収入が減っても別の受け皿を作れば良いだけ。何にせよ、自分が危うくなった時、「今まで通りやりなよ」と言ってくれる家族や恋人がいるかどうか。恋人を選ぶというのはそういうこと。恋人から「あなたが次に書くものが見たい」と言われたら、「いい加減なことは出来ない」と力が入ります。

 

ライフスタイルではなく
ソーシャルスタイルを大切にする

──「見てもらっている」ということですね。恋愛関係でも、関係性の中にそれが出てくるわけですものね。

宮台  一人で生きていたら「もういいや」と諦めることでも、生き方が好きと言われたら諦める訳にはいかない。そんな男女に限って、社会で疎まれがちです。それは必然的なこと。社会に迎合せず、自分を貫徹するから、凄い生き方になり、素敵な相手に愛されているのだから。迎合して生きている側から見れば、嫉妬の対象になるし、うざいノイズになります。

性愛や友愛の「絆」に値する相手とは、社会から疎まれても価値を貫徹する人です。駆け落ちものや心中ものの話をしました。そもそも社会の時空(法)と性愛の時空(法外)は必ずしも両立しない。「安全・便利・快適な社会に留まるために性愛を諦めます」みたいな生き方をする人に魅力を感じますか。どうせ程なく死ぬのに、自分はそんな生き方を続けるのですか。

──私がつき合っている人は自立していて、「自分の好きなことをやって生きる」と言っていたので、それは良いな、と思いました。ただ、あまりに自分本位が強過ぎるところもあって、たまに疲れてしまいます。

宮台 それは違う話です。「頑固な自分流」はそこら中にいます。自分の好みで生き方を決めるのを「ライフスタイル主義」といいます。これはショボイ。ライフスタイルのごときは、ケガをしたり病気になったりすれば終わるからです。それを想定していないから言えるだけのものです。必要なのは「ライフスタイル」ではなくて、「ソーシャルスタイル」です。

歴史を遡ると、86年に北イタリアのブラでスローフード運動が始まる。オーガニックでトレーサブルなものを食べる運動ではない。仲間に売るから良いものを作って売りたい。その努力をわきまえるからスーパーや量販店より高くても買いたい。それで元々の人間関係を保ったまま雇用や所得を支える自立的経済圏を保てるので、街並みや習俗を保つことができます。

理解しなかったのは日本人とアメリカ人だけでした。スローフードは、ファストフードの「うまい・はやい・やすい」を支えるシステム世界(市場と行政)での損得勘定、例えばブランディングやコンプライアンスを、大概にして、「仲間のために良いことをする」、つまり生活世界での内発性を大事にする運動です。生活世界を大切にするソーシャルな運動なのです。

アリストテレスは『ニコマコス倫理学』で「重罰が怖いから人を殺さない社会と、感情的に殺せないから人を殺さない社会、どちらが良いか?」と問います。イエスは「守れば自らが救われると律法に書いてあるから他人を救う人と、律法になくても救いたいから救う人、どちらが尊いか?」と問います。何をするか(行為)より、動機(内面)が利己か利他かが大切です。

スローフード運動の10年後、95年からアメリカの大手スーバー「ウォルマート」が「ロハスLifestyle Of Health And Sustainability」を宣伝します。健康で持続可能なライフスタイルの提案。スローフードは良い社会を目指すソーシャルスタイル。ロハスは良い個人を目指すライフスタイル。消費の一形態で、良しも悪しくも「意識高い系」の自己満足に過ぎない。

あなたがいう自立は、巷で喧伝される「こだわり」に過ぎず、良い人間関係や社会を目指す姿勢から、ほど遠い。ソーシャルスタイルとライフスタイルの違いに敏感であることは、まちづくりだけじゃなく、恋愛や友愛を考える上でも大事。何のためにそれをするのかが重要で、好みやこだわりは自己中心的な頑固さです。だから「たまに疲れて」当然なのですよ。

──なるほど…。自分のことだけを考える「ライフスタイル」は、自分に閉じているということなんですね。開かれたものではない。

宮台  ソーシャルスタイルは自分を犠牲にムリをすることにつながります。なぜなら良いソーシャルスタイルは損得計算での「交換」じゃなく、自分が損しても相手が喜ぶ「贈与」だからです。高いけど買う。忙しいけど時間を作る。でも周りが行き過ぎだと思えば「無理しすぎ」「そこまでしなくて大丈夫」と言ってくれる。それが仲間です。恋愛もまったく同じです。

──ライフスタイルを持つことは魅力的な生き方だと聞いてきましたが、人との関わりという意味では考え直す点がありますね…。「仲間と生きる」ということにおいても、ソーシャルスタイルが大事なのだと感じます。

相手の身体や心に何が起こって
いるのかをなりきりで
感じるセックス

──では今回の誌面版の最後に、人の関わりという点で、「豊かな関係」「ゆだね」の話題に触れたいと思います。この連載で、ゆだねるフュージョンとしてのセックスについてお話いただきましたが、より具体的に伺いたいところです。ゆだねのあるセックスでは、オーガズムを迎え、号泣や気絶が生じることをお聞きしました。こういう体験は、人の意識を変えていくのでしょうか。

宮台  まず自分が思っているような自分ではなかったと気づきます。当たり前。学問的には、意識は単なる再帰的反応(反応に対する反応)だからです。ジェインズの「二分心」に従えば、文字の普及による「反芻」の習慣化で、「降りて来る(神の)声」で思わず自動的(中動的)に振る舞う代わりに、「自分の意志への意識」で能動的に選択するようになったのが三千年前から。

子供を見れば分かります。子供は意識を持って選択する能動的主体じゃなく、流れに乗って掛け声を交わして動くコール&レスポンスの中動的身体です。レスポンスがコールになって流れができる。コールもレスポンスも声を含んだ身体性の全体です。それが、何十万年も続いた遊動段階の大人のあり方を教えてくれている。連載で何度かお話ししてきたことです。

──言葉ではなく、子供たちが歓声を上げて、お互いに引き込み合いながら、同じ世界で一つになるようなあり方ということですね。実際の性交で、それはどのように生じていくのでしょう。

宮台  心理学者ジェインズが言う通り、意識は言葉のラベル付け。バタイユが言う通り、全ての体験は言葉を越えた余剰を含む。真の全体性は、ヘーゲルが言う歴史の全体ならぬ、言葉にならない力の流れ(呪われた部分)が成す全体だと。連載でも話しましたけれど、バタイユはそれを性愛に見出す。男のコールで、女が飛び、それがコールとなって、男が女の翼で飛ぶ。

今日の学問では、能動的な選択連鎖ならぬ中動的な自動連鎖。子供の遊びと同じ。だから良い性交とは子供に還ることだと言いました。良い性交か否かは置いて、違う人との性交体験があれば「人によってやり方が違うな。それで自分のモードも変わるな」と分かります。幸運ならば、ある時、同じ次元で違うんじゃなく、異次元の体験を得て驚くことがあります。

幸運と言ったけど何十人かと性交すれば誰でも得られます。ただしこれからの話を踏まえることが条件です。この記事を読む男はそれはどんな技術かと尋ねたくなります。その時点でダメ。問題は技術ならぬ資質です。技術は比較的短期で習得できますが、資質は(育ちで得られてなければ)比較的長期の修行がないと得られず、修行は性愛外の生活全般に関わります。

技術は「3点責め」みたく言葉で語りやすいけど、資質は言葉にしにくい。でも複数プレイで多くの男を見てきた僕が語らずに誰が語るのかという話になります。良い性交をする男女の資質は言葉にしにくいので否定神学的に語るのが良い。神は絶対で、相対である人による記述に余るから、「これではない、あれではない」と否定文の連言で語るのが否定神学です。

そうした語りは紙幅を要します。だから肯定文で一言で語ります。「相手の心と体に起こっている体験を、なりきることでそのまま自分の体験として得た結果、気が付くと自動的に自分の心と体が動いている」という資質です。戦間期の社会学者ミードは相手の反応を自分の反応として引き起こす営みをrole takingと呼びます。役割取得は誤訳。なりきりが適訳です。

なりきりの能力をつちかうのは何か。彼は子供のごっこ遊びだとします。ままごとでママやパパになる。やがて王様や家来になり警官や泥棒になる。それで誰にでもなりきれる能力がつく。結果「人というもの」の体験の仕方が分かるようになる。一般的他者へのなりきりと言います。対偶をとると「なりきる能力」がない大人は幼少期の「なりきり遊び」が足りないのです。

シュタイナーや認知的発達論者(ピアジェやコールバーグやブルデュー)の「臨界期」概念が暗に用いられています。「ある時期」までに習得しないと手遅れになる場合の「ある時期」が臨界期。だから僕は技術ならぬ資質だと言います。臨界期がいつかは定説が揺らいできました。生活環境次第だからです。連載を読み続ける読者には潜在的資質があると思います。

ただし臨界期は重層的です。まずゲノム的資質が誰にでもある。それを前提に臨界期Aまでに適切な営みをすると資質Aが得られる。資質Aを前提に臨界期Bまでに適切な営みをすると資質Bが得られる。以下同様。各臨界期を逃すと先に進めません。サンデルなどが「ゲノム的資質は文化で上書きされる」と言うのは厳密にはこの重層。単純化してはいけません。

この時間的重層を空間化します。性交で互いに飛ぶ能力には前提になる資質があります。その資質は他の様々な能力を支えます。だから性交能力だけを上げられない。性交能力を上げる資質が他のどんな営みを可能にするかわきまえることが必要です。他の営みができなければそれらができるようにすると性交能力を上げる資質も得られます。それがなりきる資質です。

前提づけるものが資質で前提づけられるものが複数の能力です。頻繁に見る現象を話します。なりきる資質があるのに性交能力では資質が活かされない現象です。経験でつちかわれた自己物語ゆえの自己防衛が理由です。自己物語は言葉のラベル。ラベル替えはできます。連載で話しました。愛するがゆえに信じる相手がラベル替えに必要な体験を与えてくれる営みです。

僕の推定です。この長期連載について来た読者には性交能力に必要ななりきる資質がないのではない。資質があっても性交で活かされない方が大半なはず。自己防衛機制が問題です。それを外すにも愛する相手が必要です。「鍵が掛かった箱の中の鍵」問題。問題の構造を理解した上で自己防衛を括弧に入れて試行錯誤で相手を変えつつ異次元の性交体験を待ちます。

愛し合う相手を見つけてもいつも性交体験が…とこぼす読者がいます。二つのケースがあります。第1は勘違い。愛が貧しいケースです。愛の本質は長く話したように「あなたは世界の全て」という唯一性規範と「あなたが喜ぶなら法も侵そう」という贈与規範。それが互いにあるか。なりきる資質がある人だけが得られる本質です。資質を養わないと無理です。

第2は目標混乱(アドラー)です。愛の本質を掴んだ同士なのに性交を勘違いしているケース。ここから先はこのケースに当てはまる人に向けた話です。いろんな話をしますが自分に向けられた話なのかに注意して下さい。むろん今は当てはまらなくても将来当てはまるかもしれないという読み方で構いません。コミュニケーションには前提があることを忘れないように。

──さらに詳しい話になってきますね。このあと引き続き、後編のほうで性交を通じた関係性を掘り下げていきたいと思います。よろしくお願いします。

 

性愛に踏み出せない女の子のために

第2部につづく