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性愛に踏み出せない女の子のために 第10回 第2部 後編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第10回 第2部 後編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年6月15日発売号で第10回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは? 今回は第10回誌面版を、WEB上で第10回の第1部として公開して、その後にWEB版の第2部を続けて公開していきます。今回はWEB版第2部の後編。性愛の3つの次元について語ります。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

前回の第10回第1部は以下のURLです https://www.s-ss-s.com/c/miyadai10a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep
第10回は「季刊エス82号」https://www.amazon.co.jp/dp/B0C5FMG2DJ/

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


喫煙を例に見る社会と共同体の変化

 

──第2部の前編は、認知科学の予測的符号化理論と社会学の予期理論を合わせると、なぜ最近の私たちが言外の情報に鈍感になるのかがよく分かるというお話しでした。

宮台 知覚的模索を節約する予測的符号化が言語と結びつくと、言語的に構築された社会環境が更に知覚的模索の必要を免除して、その社会環境の外では生きられなくなる、というランナウェイの話。これが、言葉・法・損得からなる「社会の時空」の外にある言外・法外・損得外の「性愛の時空」を生きられなくなる理由を教えます。

言語で作られた社会環境──社会の時空──をもっぱら記述するのが予期理論です。ただしその外に存在する性愛の時空を自覚的に識別し、決断主義的に言葉・法・損得の界隈の外に出れば、社会の時空では得られない絶対的享楽を獲得できるはずだ、と見込む営み。これも予期理論とそれを織り込んだ自我(生体防衛)理論の範疇です。

繰り返した通り、合理化の名の下で言葉・法・損得勘定に万事閉ざされる流れに抗うには、言外・法外・損得外の「非合理な」界隈を保守すべき「合理性」を、言挙げする必要があります。ウヨブタは論外として経済保守・政治保守・宗教保守に頽落する前の本来の保守──共通感覚を保持する社会保守──が今日、見直されるべき理由です。

《知覚的模索を節約する予測的符号化が言語と結びつくと、言語的に構築された社会環境が更に知覚的模索の必要を免除して、その社会環境の外では生きられなくなる》という機制。これを媒介するのが、自我(生体防衛)の機能による言語的自己防衛です。例えば、リスクマネジメントを名目とする孤独や性的退却の合理化です。

安全・便利・快適を求める「近道ゲノム」に比べ、孤独で心身が衰弱する「孤独ゲノム」が遅効的なのは、周囲が敵だらけだからという合理化=言語的自己防衛や、対処困難な孤独を刺激で埋められる退屈(つまらなさ)に体験加工する合理化=言語的自己防衛のせいです。それで孤独死する以上、自己防衛のランナウェイでしょう。

──なるほど。そこで、「自己防衛ゆえに〇〇する」「自己防衛ゆえに△△しない」という、連載で何度も出て来た、性愛の障害の話につながる訳ですね。そうした自己防衛が、言語的に作られた社会環境に適応しすぎた自我の働きによるところが問題なのですね。

宮台 はい。自己防衛のランナウェイを招くのが間違ったリスクマネジメントです。若い人達の多くがそれにハマっています。ワザと性愛から遠い例を挙げます。喫煙です。最近は学生の多くが「なぜ健康を害するのに煙草なんて吸うのか。有害なんだから口寂しければガムを噛めばいいのに」と言う。これが性的退却と関係します。

煙草は元々共同体の加入儀礼です。加入儀礼は移行儀礼の一種です。通過儀礼と呼ぶ場合「共同体Aから共同体Bへの移動」に伴う移行儀礼を指し、加入儀礼と呼ぶ場合「共同体Bへの加入」に伴う移行儀礼を指します。加入儀礼概念は共同体Bへの参入以前の共同体Aの存在を前提としない。芸能界隈にも長く加入儀礼がありました。

かねて専門職集団には加入儀礼がつきものでした。専門職集団には互いの共通感覚を示し合う掟があり、加入儀礼には法より掟を優先する決意の表明機能がありました。日本は今も多くの専門職集団に加入儀礼が残ります。多くの国ではほぼ廃れました。専門性に向けた訓練の合理化と、法が保護する人権の優先化が、理由です。

ジャニー喜多川の性加害を各メディアが放置してきた背景に、今も芸能界隈に枕営業の類が残るのを含め、専門職集団への加入儀礼を自明視する感覚があります。また、定住に伴う定期的祝祭に、定住拒否ゆえ差別される非定住民(掟の民)が召還されたことが、芸能の普遍的起源ですが、その名残が最近まで残っていたのもある。

──宮台さんが以前お話されていましたが、宮台さん御自身もよくネタにされた90年代の『噂の眞相』では、どこかのテレビ局がアイドルの卵などを集めた芸能人の乱交パーティを催していたと、芸能人のインタビュー入りで幾度か記事になっていたそうですね。

宮台 記事が伏せた参宮橋の会場も知っています(笑)。煙草に戻ると、70年代までの子供番組では、大人の界隈は紫煙だらけです。68-69年の『怪奇大作戦』ではデカ部屋(警察の刑事課室のこと)や張り込みに紫煙が立ち込めました。60年代後半に小学生だった僕の周囲もそう。煙草とエロ本自販機は「大人になってからな(笑)」と諭されるアイテムでした。

他方、大学の哲学サークルや映画・演劇サークルの部室には奥が見えないほど紫煙が立ち込めていた。今も物書き界隈は喫煙者が多いけど、物を考えるには一服が必要との通念もありました。僕は入学後すぐ映画サークルに入り、紫煙に咳き込んだけど、自分も喫煙者になって程なく「界隈」に同化しました。まさに共同体の加入儀礼。

地域にも、井戸端会議の「井戸端」や床屋政談の「床屋」があり、紫煙の共同体でした。そう。煙草は共同体と共にありました。様子が変わったのは80年代の新住民化以降。経済好調による人口学的流動性増大で新参者の親が増え、安全・便利・快適を旗印に焚火や花火横打ちが禁じられ、「危険」遊具が撤去され、屋上に鍵が掛かる。

子供がヨソんちで御飯や風呂をいただいたり、団地の子・農家の子・お店屋の子・地主の子・ヤクザの子が年齢性別を超えて混じって遊ぶ機会も消えた。これとシンクロしたのがエロ自販機撤去運動、組事務所撤去運動、そして嫌煙運動です。70年代後半から米国などの影響で鉄道に禁煙車が生まれたのが嫌煙運動にヒントを与えました。

要は、地域と家族の共同性がバラけた80年代に、喫煙への寛容さの背景をなす共同性がバラけ、健康被害や不快を訴える個人ベースの嫌煙化が加速しました。90年代半ばに航空機がやっと禁煙化されたように、その頃までは喫煙可がデフォルトで、禁煙は指定場所に限られました。有徴だった(マークされた)のは禁煙場所でした。

それが90年代後半から徐々に逆転。ゼロ年代になると、マークされるのは禁煙場所ではなく喫煙場所になります。表示がなければ禁煙で、表示された所でだけ喫煙可能。都立大に着任した93年にはどこでも喫煙でき、生協前広場や1号館前広場などのタムロ場所には多数の灰皿がありましたが、やはりゼロ年代に逆転しました。

それでゼロ年代には男性喫煙率が減りますが、女性喫煙率が上昇します。首をかしげる向きがありましたが、理由は簡単。第1は、それでも残っていた男の喫煙界隈に女が社会進出したこと。第2は、そうした界隈を中心に、喫煙の営みが「何もしないことの無防備さ」から女を守ったこと。スキを見せないために喫煙したのですね。

さてゼロ年代には学内の各所にあった喫煙所がテン年代に激減。広い敷地でたった4つに整理されます。日本全体の流れと同じ。でも、それで「喫煙所の共同性」が浮上しました。教員の僕は、職員と私的会話をする機会がなかったのが、喫煙所で会話できるようになる。狭い場所なので会話しないと不自然なこともありました。

ゼミメンバーのダースレイダー氏と2年間、パルコ9階SuperDommuneで映画トークイベントをしていますが、休憩時に隣接の喫煙所で観客と一緒になります。コロナ禍で定員3名になるほど狭いので自然に会話します。トークへの疑問点を聞き出せたり、各人の出身地の様子を取材できたりして、時には連絡先も交換します。

各種の学会大会でも同じ。喫煙所でなければ話さないはずの異分野の方々と会話できて、勉強会や共同プロジェクトが立ち上がりました。喫煙者として疎外されてきた方々だから、新住民的な「法の奴隷」が少なく、今話してきたような新住民化=社会に閉ざされたクズ化の歴史を確認し合ったりして、私的にも親しくなれました。

──煙草が共同性と一体だったことを全く知りませんでした。私は単純に煙草が苦手なので、避けてきましたが、80年代の新住民化の時代には本当にいろんなことが変わったのですね。

 

自己防衛の先に待つのは孤独な死

宮台 昔も今も喫煙は共同性と一体ですが、健康被害とも一体。でも後者ばかり喧伝する営みは前者への無関心を示します。実際、慢性の孤独感は肥満の2倍致命的で煙草を1日1箱吸うのと同じです。免疫力低下で老化を早め、癌を悪化させるからです。健康に執着する視座に立っても、喫煙=健康被害という図式は思考停止です。

皮肉ですが、健康ばかり懸念して喫煙しない孤独な人は、健康懸念は程々に喫煙して共同性を生きる人より早死にする。そもそも健康ばかり懸念するのは、終活ばかり気に懸ける高齢者と同じく孤独な人。75歳から無条件に安楽死を選べる未来を描く映画『プラン75』が話題でしたが頓珍漢。問題は安楽「死」ならぬ孤独な「生」です。

健康を懸念して孤独を懸念しない。これも言語的自己防衛という自我の働きです。なぜ喫煙を巡る意味論が一挙に変わったか。新住民化もありますが、問題にしたいのは新住民親がなぜ異様に安全・便利・快適を気に懸けるかです。新住民親は僕と同世代ですが、僕と違って団地の子しかいない学校で育った親も多いのがヒントです。

答えは「死」。先に、高卒時点で6回、今まで30回ほど葬式に出た話をしました。看取ったことも遺体に触ったことも何度かある。葬場で「お焚き上げ」を待つ間、親友や僕より若かった従姉妹の生前の思い出をあれこれ話し、「人っていつ死ぬか分かんないもんだな」という言葉を何度も聞いた。だから僕はいつも死を意識してきました。

若い頃に途上国を巡りましたが、東南アジアや中南米には大人は無論、ローティーンで喫煙する国もあり、過剰な健康懸念はない。なぜか。昔の日本同様に生活世界で死が丸見えだからです。健康懸念と孤独無配慮は「未来はずっと続く」という想定なくしてあり得ない。そして高齢化すると孤独ゆえに突如、終活に執着し始めます。

連載でも言いました。「受験だから恋愛を控えよう」「仕事が忙しいから会う頻度を減らそう」とホザく輩は将来、仕事を理由に家族をないがしろにする。ところがそこに本質的問題がある。何かというと先延ばしにする道具的instrumentalな生は、「未来は続く」と想定しています。でも僕は想定しないので、自体的consummatoryな生を生きようとします。

何かを理由に今恋愛しようとしない人は永久にしない。恋愛できる場面になっても言語的自己防衛ゆえに、「今は〇〇が忙しい」と、恋愛の劣等感を認知的に合理化する。認知的合理化を支えるのが「これからも時間が沢山ある」との頓馬な想定。残念ですが、「命短し、恋せよ乙女(益荒男)」「後悔しても後の祭り」が真実です。

性愛だけをよく生きようとしてもダメです。言語的自己防衛を駆動する自我の機能を知り、自分の決断でそれを多少なりとも解除する言語的営みが必要。それには、言語的自己防衛が、言語的に構造化された社会・に洗脳された言語的予測符号化・による言外のそぎ落としである事実をわきまえるべき。自分の心の働きを素朴に信じない。

社会に騙された自我ego・に騙されて自己selfを言語的に防衛する営みが、いかに恐ろしいか。この恐ろしい「鉄の檻」にハマった若い人達が、いかに多いか。社会に洗脳された自我の「鉄の檻」から外に出ないと、どんどん孤独になり、性愛から見放され、『プラン75』に感動して終活を考えるしょぼい人になります。

──つまり「見たいところしか見ない」という自我の自己防衛的な機能は、つまらない営みを続けても生きられるように言語的に構造化された社会に、依存しきった特殊なものということですか。その意味で社会に洗脳されたままでいると、さまざまな大切なものに気づかないまま、気が付くと孤独死してしまう…。

 

性愛の3つの次元

──実践編を支える理論的な前提のお話をしていただきましたが、ここから実践編、つまり、人と人との性愛的な関わりにおける「豊かな関係」「ゆだね」の話題に移りたいと思います。連載では「ゆだねるフュージョンとしてのセックス」についてお話しいただきましたが、より具体的に伺いたいです。そうした「2人が一つのアメーバになる」セックスでは、オーガズムで号泣や気絶が生じることをお聞きしました。こういう体験は、人の意識において何を意味し、社会において何を意味するのかが気になります。

宮台 オーガズムを体験すると「自分が思っている自分ではなかった」と意識できます(エク・スタシー=外に立つ)。自我が意識させる自己はもっと大きな何かの一部だと。復習すると意識とは反応に対する反応に対する…という再帰的反応です。そこで「反応する自己」がイメージ化されます。「自己が反応する」のではない。「反応が自己をもたらす」のです。

人は「自己が意思して前に進む」と意識します。実際は「何かを意思した」との能動意識の0.1秒以上前に脳神経が発火する。子供を見れば分かります。意識で選択する能動的主体ではない。流れに乗ってコールされて中動的(自動的)にレスポンスするだけ。そんな子供のあり方が遊動段階の大人のあり方を表します。以前に話した「拡張版ヘッケル原理」です。

今の大人は違います。「言葉で語られた法に罰を恐れる損得勘定で従う」定住段階になったからです。遊動段階では他の類人猿と同じく「生存戦略×仲間意識」で前に進んだので「社会」はない。定住で「言葉・法・損得の時空=社会」が誕生します。相即して、言外・法外・損得外の時空であらざるを得ない性愛が「社会の外」に(社会に寄生しつつ)置かれました。

実は、言語的に観察される「自己」の誕生と、言葉・法・損得の時空である「社会」の誕生は相即します。「社会」の誕生で、「自我=生体防衛メカニズム」が予測符号化を言語に結びつけ、予期に昇格させたのです。「社会で」生体防衛するために必要だからです。でもこれがランナウェイすると「性愛で」適切に行動できないので、結果的に生体防衛が妨げられます。

──言葉ではなく、子供たちが歓声を上げて、お互いに引き込み合いながら、同じ世界で一つになるようなあり方ということですね。性愛の営みで、それはどのように生じていくのでしょう。

宮台 3次元を区別します。①いちゃいちゃ次元。②関係性次元。③社会性次元。①は言語以前。母語が違えど戯れる修学前の子供の営みです。言葉はあくまで掛声や歓声で、「記述ならぬ遂行」「情報伝達ならぬ力の受け渡し」「能動的主体の選択ならぬ中動的身体のコール&レスポンス」「コントロールならぬフュージョン」「同じ世界で一つになる」営みです。

シュタイナー第1臨界(7歳)=内から湧く力(内発性)の獲得に関係します。7歳までの「団地の子・お百姓の子・お店屋の子・地主の子・ヤクザの子が年齢性別を超えて秘密基地で遊ぶ」「ヨソんちで夕食や風呂をいただく」「花火の横打ちや焚火をする」営みが、「わくわくする力」をつちかう。これを欠くと、いちゃいちゃ次元にダメージを受け、性愛が不自由になります。

最近の男女大学生は実際ダメージを受けています。是枝裕和監督『怪物』を論じた時の話。映画は、幼少期のいちゃいちゃ次元の豊かさが、言葉で定義された関係性次元や社会性次元(後述)によって疎外される悲劇を描く。LGBTが描かれるのは社会問題の提起よりもこの悲劇を焦点化するため──とゼミの年長者が議論すると、若い参加者がついて来られません。

まず、いちゃいちゃが分からない。「ふざけることですか」「最初はふざけてツッツキ合う感じなのが次第にマジになる感じで、性愛なら『乳繰り合う』と呼ぶね」。「合意はありますか」「むしろ何かに合意するための前提の構築で、これを欠くと劣等感を抱く部分を褒められて合意性交した挙句『こんな筈じゃなかった』となる」。これら疑問に年長者は驚きます。

これでは『怪物』を正しく理解できない。正しく理解しないと感動が訪れない。とりわけラスト。死んでクソ社会の外に出た後、天国でいちゃいちゃ次元を回復する。久々に涙が止まりませんでした。いちゃいちゃが分からないと、作品を支える「不可能なものの達成」というロマン主義が分からない。と言うと「映画に正しい理解なんてあるんですか」と問い返す。

国語の試験じゃないが、あります。特に、表現者の世界観や、(表現者が設定した)各登場人物の世界観を支える無意識的二項図式の複合が大切。これらを理解した上どう感動するかは多様です。でも表現者や各登場人物の世界観を「なりきりrole-taking」的に体験できないと、間違った理解になる。そして正しい理解は観客のクオリア(体験質)を必要とします。

「育ちが悪い」と体験質が育ちません。言語的な予測符号化は、言語以前的な触知を負担免除します。「概念は体験を免除する」。でも行き過ぎると体験質なき概念世界に閉ざされる。講義の光景です。「分かった?」「はい」「ならば体験に即してパラフレーズして」「体験がないのでできません」「ならば分かっていない」。そこでコンテンツで疑似体験を与える訳です。

──ということは、最近の若い人たちは、いちゃいちゃ次元を知らないから、コクることから始めるのですね。

宮台 はい。いちゃいちゃとは中動的なコール&レスポンスの連鎖。それで「同じ世界で一つになった」と感じる。互いに誰に対しても生じる訳じゃない。相手が違うとシンクロ率が違う。シンクロを感じると、体が近づき、手を握り、目を見つめ、磁石みたいに顔が近づきキスし、体を触り合い、性交に到る。また会いたくなり、会うたびにそれが生じる…。

すると互いに恋人だという感じになる。そこに言葉は必要ない。恋人だねと確認する言葉はあり得ても「コクってイエスでカレシカノジョ」という過程はない。だから恋人関係と昨今の日本に特異なカレシカノジョ関係は違う。国際標準かつ昔の日本の恋人関係では、いちゃいちゃ次元に関係性次元が後続する。カレシカノジョ関係は最初に関係性が言葉で定義される。

定義に際する動機付けは何か。「この子ならカノジョにいいな」「この人なら友達も『いいね』って言ってくれるかも」の類。昔は違った。寝ても覚めても想う。時には食事も喉を通らなくなる。むろん互いの時間差はあり得る。でも相手の気持ちが嬉しくて触発されてデートする。いちゃいちゃ次元でのシンクロで「同じ世界」に入れたら性愛行為が昂進して…。

最初にコクる理由は簡単。いちゃいちゃ次元に耐えられない。二つある。①「育ちが悪く」ていちゃいちゃ次元を知らない。②言葉以前的いちゃいちゃ次元の未規定性に耐えられない。要は、言語的予測符号化で、言語以前的触知が免除された状態で育ったので(=育ちが悪い)、①言語以前的触知を遂行できず、②言語的予測符号化を経ない営みに耐えられない。

よくあるコロラリー(関連系)。コクらないけど、クリスマスや誕生日にデートに誘う。応じれば、日が日だけに、コクってイエスと等価になる。なのにコクるよりハードルが低い。加えてテンプレ・デートが可能。御洒落な店を選び、クリスマスor誕生日のおもてなしを予約、(音楽付きで)運ばれたケーキの蝋燭を吹き消し…最後は夜景が見えるスポットでキス。

僕は「お洒落テンプレで盛られたデート」と呼ぶ。経験値が低ければ変性意識状態に入れるでしょう。それでコクられてイエス。「お洒落テンプレ」にわくわくしたのか(お洒落テンプレがあれば「その人」でなくてもいいんじゃ?)、「その人」自身にわくわくしたのか、見極めるリテラシーが若い大学生は低い。テンプレ・デートはどのみち飽きちゃって続かないのに。

ゼミの大学生女子に尋ねた。「最近のデートは楽しかった?」「はい」「何が?」「シーシャとか競馬場とか知らない場所に連れてってくれた」「それってガイド役ができる人ならその人じゃなくても楽しいよ?」「うーん確かにそうかも」「ソレじゃダメって言ってるじゃん」「どうしたらいいか分かんない」「普通の公園デートや散歩デートに誘う人を選ぶんだよ」。

妻と結婚した経緯を再説。『噂の眞相』を積み上げた上司や同僚に「フィアンセがいるのに悪魔とデートするのか」と職場で監禁されてデートに来られなかった妻。後日こっそりデート。わざと選んだのは中学生みたいなお台場散歩。奇蹟的ないちゃいちゃ。「同じ世界」に入れた。別れ際に結婚したいと告げた。「一か月考えて」。翌日「フィアンセと別れました」。

 

性愛の各次元の幸せに
与えるプライオリティ

──確かにお洒落スポットに行くだけでは、男の人はただのガイドでいちゃいちゃできないかも…。でも疑問もあります。いちゃいちゃできただけで恋人になれるのでしょうか。宮台さんはフィアンセがいる女性といちゃいちゃできたけど、彼女がフィアンセと別れなければ恋人になれないですよね…。

宮台 そこが次のポイント。①いちゃいちゃ次元に後続して、②関係性次元があると言いました。いちゃいちゃ次元は、子供に戻った言語以前的なもの。でもいちゃいちゃ次元の戯れ(の反復)の後、2人の関係は何なのかと考える段になる。両方フリーなら「恋人だ」でいい。でも片方ないし両方が結婚していたりステディがいる場合、そう簡単には行きません。

片方か両方が結婚している場合、「不倫だね」と都合がいい言葉があります。でも両方未婚で、片側か両方にステディがいる場合、さして本気でなければ「浮気だね」でいいものの、両方が本気になった場合、「浮気」は軽すぎて適切な言葉がない。妻みたく速攻ステディと別れる道もある。その道を進まない場合、片側か両方が「二股」の道を進むことになります。

そこで道が岐れる。2人で体験できるいちゃいちゃ次元の享楽を、関係性を言葉にするのを意識的にやめて、体験し続ける道。事実上「複数愛」になります。一時はいいとして持続可能性が問題です。前に話したけど「寝ても覚めてもじゃないから絞りたい」と思うこともある。「1対1じゃないと真の恋人じゃない」という社会規範に服して不快に思うこともある。

前者に見えて、規範に服して「寝ても覚めてもじゃないと本物じゃない」と思うこともある。でも過去に散々複数愛を続けた挙句に「寝ても覚めても想う」相手を見つけ、その享楽に全て捧げたいと思うこともある。問題化しているのは、②「2人の関係は何だろう」という関係性次元と、③その関係性は社会的に正しいかという社会的承認次元の、関係です。

関係性次元(②)で「不倫だな」「複数愛だな」などと関係性を定義した時、いつも社会的承認次元(③)がちらつきます。ただし関係性次元の定義を、放棄する場合、あるいは放棄している間は、社会的承認次元は問題になりません。以上のように、①いちゃいちゃ次元、②関係性次元、③社会的承認次元、の各々に於いて2人の間の齟齬や距離が問題になり得ます。

──お話を伺って、私はあまり意識してこなかったことだと思いました。「コクってイエス」じゃどうにもならないと以前に伺いましたが、周りもそうしていますし、正直、別にそれでもいいと思っていました。ただ、それだと恋愛の入口に立っていないということですよね。でも、真の恋愛に乗り出そうとすると、いろんな困難が不可避だとも言えます。私にはそれを越えられるのかどうか…。

宮台 いちゃいちゃ次元(①)は子供の戯れのように相手は1人に絞られない。むろん入替可能なそれitでなく「なりきり」によって入替不能な汝youですが、youは1人じゃない。1人じゃないけど、いちゃいちゃ次元のシンクロ率に高低がある。特に性交はそう。すると、何人かといちゃいちゃし性交して「この人より上はいない」と確信できるまで、不安定です。

いちゃいちゃ次元(①)で「この人より上はいない」と確信するのも若い人にはハードルが高いけど、ハードルを越えても、関係性次元(②)で、言葉による定義(言語的予測符号化)に合意できるか否かという次のハードルがあります。関係性の認識に合意できたとしても、その関係性について、社会的承認(③)を気にするか否かという分岐が次のハードルになります。

そこではメタ・プライヤー変数が問題化します。社会的承認次元(③)の予測符号化・の外にある関係性(②)が与える幸せに、どれだけプライオリティを与えるか。関係性次元(②)の予測符号化・の外にあるいちゃいちゃの営み(①)が与える幸せに、どれだけプライオリティを与えるか。各次元で幸せ(上位順序)だとして、その幸せの次元をどれだけ上位に順序付けるか。

メタ・プライヤーとはプライオリティにプライオリティを付ける再帰的営みです。一方で文明生活を送る限りでヒトは言葉を使う「社会」的動物です。他方で「性愛」は「社会」の時空の外に(寄生しつつも)あります。だから僕らの「性愛」には①②③の多段的な次元がある。ゆえに、各々の次元内の優劣があり、それとは別に、各々の次元間の優劣があります。

僕には、数多の〇〇プレイの経験から、死に隣接した究極の恋愛まで、平均よりも多くの経験があります。どれにも困難がつきもので、連載で話したように幾度もつまずきました。なぜつまずいたのかを必死で考え抜き、社会学や隣接科学の知見を調べ抜いて、今紹介したような予測符号化の複数のレイヤーと、その相互関係という「つまずきの石」を、言語化するに到りました。

その上で答えます。今話した構造の複雑性ゆえ、どんなに頑張っても困難を越えられることはないかもしれない。頑張ったあなたのせいじゃない。そもそもあなたみたいに頑張ってくれる相手が必要ですしね。それでもいい。「人は、予測不能な素晴らしい未来より、問題はあれ予測可能な現在にしがみつきがち」ですが、しがみつく生き方は「つまらない」のです。

そのことが腹落ちし、先々の失敗を想定内だと言語的に決断する──言語的な未規定性を言語的に受け容れる──人にしか、落涙・過呼吸・記憶脱落・時間的統覚変容を伴うような「ゆだね」と「明け渡し」の性交──「同じ世界」で「一つのアメーバになる」性交──を、持続的に体験できる可能性は論理的にありません。そうした性交の具体は、次の話になります。

 

性愛に踏み出せない女の子のために
第10回 第2部 後編 おわり