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性愛に踏み出せない女の子のために 第9回前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第9回 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年3月15日発売号で第9回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第9回誌面版は、WEB上でも第9回WEB版の前編として公開され、WEBでは続けて中編と後編が公開されます。今回の誌面版(WEB版前編)は、社会に引きづられて性愛がどんなふうにつまらなくなったのかが語られます。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

前回の第8回はWEB掲載です https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a

 

第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


前編
つまらない性愛に外はあるのか=つまらない社会に外はあるのか

 

──前回の最後(WEB版第八回第二部後編)は、最近の若い人たちのお付き合いが、自分たちをキャラ化して、そこにテンプレ(テンプレート)を結び付ける中2的な営みになっているという話でした。

宮台 コクってイエスが貰えたら「付き合ってる」ことになって、互いがカレシ・カノジョというキャラになり、キャラらしいテンプレートの遂行が義務になります。それらしいデートスポットに出かけるのもテンプレ。他の男(女)とデートするな・性交するなという「相互所有」もテンプレ。さしたる深い愛もないのに、どちらかがテンプレから逸脱すると、くだらない痴話喧嘩が始まる。

そんな営みは「つまらない」から、インスタでいいねを掻き集める。これが「狭義テンプレ系」。「つまらない」から営みに乗り出すのを(営みを続けるのを)やめるのが「退却系」。「つまらない」から過激化ゲームに乗り出すのが「肉食系」。狭義テンプレ系・退却系・肉食系はワンセットだから、まとめて「広義テンプレ系」。共通項は「自分じゃなくてもいいんじゃね?」です。

肉食系のバリエーションが「地雷系=メンヘラ系」。ワザと浮気バレして刃傷沙汰を含む痴話喧嘩をします。希薄さを埋め合わせるためにトラブルを使う。つまり半ば意図的な共依存です。まさにメンヘラ系と呼ぶに相応しい。このマッチポンプ的な醜悪さが「深い関係は恐い」というイメージを拡散。①「退却系」の動機を加速し、②関係が希薄な「狭義テンプレ系」を加速します。

用語を整理します。「狭義テンプレ系」を「インスタ性愛系」と呼べます。その場合「退却系・インスタ性愛系・肉食系(地雷系込み)」の全体を「テンプレ系」と呼べます。「テンプレ系=退却系・インスタ性愛系・肉食系(地雷系込み)」。テンプレ系の本質は「自分じゃなくてもいいんじゃね?」。だから「つまらない」。主体なのに入替可能だから、誰もが薄々「つまらない」と感じます。

──興味深いです…。でも、入替可能な主体として扱われるから「つまらない」と感じるというのは、性愛に限らないと思います。学校が「つまらない」のも会社が「つまらない」のも、同じことのような気がします…。

宮台 入替可能性の「つまらなさ」は性愛に限りません。選択肢群からどれかを選ぶ装置が主体です。どの主体にも選択肢群(選択領域)が同様に与えられ、どの主体も同様な選択をするのが、主体の入替可能性です。それを主体は「つまらない」と感じます。そのことを概念化したのが社会学者ウェーバーです。彼は主体の入替可能性を「没人格lacking personality」と呼びました。

最初は行政官僚制の議論でした。行政官僚制の本質は計算可能性(による投資可能性)です。だから資本主義には行政官僚制が必須です。行政官僚制の計算可能性をもたらすのが手続主義で、手続を遂行するのが役人です。その役人が死んで別の役人が来ても手続が同様に進みます。つまり役人は入替可能な没人格です。でも話はそれで終らない。没人格は役人に留まらないのです。なぜか。

近代社会の交換様式は「市場」と「組織」に二分されます。組織は役所のみならず会社を含みます。役所も会社もビューロクラシー(行政官僚制)が貫徹します。貫徹しないと計算不能性(による投資不能性)ゆえに、市場で淘汰されます。だから時が流れると自営業が淘汰されて、大きな会社が残り、誰もが会社員になります。読者の多くも入替可能な正規・非正規の会社員でしょう。

CMコピー「24時間戦えますか」。働く人は起きている時間の大半が会社員です。そこでは「達成による評価」meritocracyが貫徹。役人だけでなく会社員を含めて全員が没人格化します。ならば役人や会社員ではない地域人や家庭人としての時間は、人格か。そう見えても、やがて無理になります。資本主義市場経済があるからです。資本主義とは元手が自己増殖するシステムです。

資本の自己増殖(をもたらす会社)にとって労働者も資本家も駒。システム外に離脱すれば労働者も資本家も地位を失います。加えて資本主義的市場経済が外部(フロンティア)を内部化し続けます。家事も育児もケアもどのみち市場化されます。やがて資本主義的市場経済にとって「人が働くこと」が最後のノイズ(計算不能性)になり、AIに置換されます。昨今のchatGPT問題です。

テクノロジーから見ます。60年代団地化=専業主婦化は「家電化」です。80年代コンビニ化=市場化・行政化は「メインフレーム(大型計算機)化」です。00年代ケータイ化(スマホ化)は「SNS化」です。資本主義的市場経済が外にあったものの全てを内部化する流れに沿います。僕は「汎・システム化」pan-systemizationと呼びます。これは「汎・没人格化」と完全に並行します。

『経営リーダーのための社会システム論』で書いた通り、2つのゲノム的傾向があります。近道を望むゲノム(低コストで狩猟採集最大化)と、孤独で傷付くゲノム(コラボで狩猟採集最大化)。近道化(安全・便利・快適化)は直接に利得を感じますが、孤独は(①周囲の敵意の捏造や②孤独の退屈への体験加工で)粉飾できます。だから安全・便利・快適化の末、気付くと孤独化しています。

──調べてみると、孤独死が初めて話題になったのは2005年ですね。それから20年弱で孤独死が3倍になったという話がありました。これも「孤独を粉飾する」ので気付かないからでしょうか。

宮台 はい。孤独の意識は、尊厳を損います。また孤独は、人間関係資本への投資継続が必要で対処困難です。だから孤独は退屈に体験加工されます。退屈はアッパー刺激で対処可能に思えます。だから大抵の人は孤独より先に「つまらない」と感じます。以上の精神医学の知見に従えば、テンプレ系性愛が「つまらない」のは入替可能性が孤独だから。孤独だから「つまらない」のです。

ウェーバー研究者リッツァによれば、退屈(つまらない)を補償するのが、祝祭的消費。「マクドナルド化(労働の入替可能化による没人格化)」を埋め合せる(補償する)のが「ディズニーランド化(祝祭的消費の入替可能化による没人格化)」です。祝祭的消費はテンプレだからインスタの「いいね掻き集め」に使われます。でも所詮は孤独を退屈に体験加工して刺激で埋めるだけです。

リッツァ曰く、マクドナルド化とディズニーランド化は互いに条件付け合うマッチポンプ。宮台が言う「週末のサウナ」。さっぱりして再びブラック企業に戻る。交互的条件付けの部品だから、マクドナルド化同様ディズニーランド化も市場化・競争化します。今日ならTikTok化もそれ。退職後にネトウヨ化した孤独死必定の初老がTikTokで回復します。良さげだが、哀れな醜態です。

実際アッパー系薬物同様に刺激耐性が付きます。反復で刺激と感じる閾値が上昇し、再び「つまらなく」なります。ならば更に刺激を強めるべきか。際限なく。ことほどさように「性愛の問題は性愛に限らない」し、「性愛の問題解決は性愛に限らぬ問題解決」です。だから僕の「風の谷・旅芸人プロジェクト」には全てに通じる問題として「性愛ワークショップ」が含まれるのです。

要は「つまらない性愛に外はあるのか=つまらない社会に外はあるのか」です。ウェーバー→リッツァ→宮台と、対処すべき問題は学的に記述し尽くされました。なのに、96年からの「関係性からキャラへ」と、07年からの「SNSによるチェリーピック(見たいものだけ見る)」で、同じ言葉がこだまする「脳内エコーチェンバー化」が生じ、ウヨブタとクソフェミが量産され続けています。

ウヨブタとクソフェミは自分が没人格化の「鉄の檻」に閉ざされている事実に気付けません。両方とも不安を「同じ言葉のこだま」で埋める「同じ穴の狢=言葉の自動機械」なのに、互いに敵視し合うお笑い状況です。そこには彼らが言う「社会の問題」よりも、脳内エコーチェンバー化という心の貧しさ=「実存の問題」があります。「孤独な蟻の群」を見るように眺める他ありません。

 

つまらない社会に外はあるのか、を描く映画群

──資本主義のシステムが「外を喰らい尽くすもの」であることは分かりました。宮台さんのお話をお聞きすると、汎・システム化に並行する汎・没人格化と、それによる「つまらなさ」には、出口がないように感じるのですが…。

宮台 5冊の性愛本で書いた通り「社会に適応すると、マトモな性愛を生きられない」し、「つまらない社会に適応すると、つまらない性愛になる」。連載で話した通り、祝祭と性愛は、定住が要求するつまらない法生活(=社会)の「外」を与えてきました。ただし祝祭も性愛も法生活に寄生するので、正確には内と外の「緩衝帯」です。そこで人は社会で失われる「力」を回復しました。

定住には「言葉で語られた法に損得勘定で従う」法生活が必要です。それが社会。だから「社会=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシンの時空」です。祝祭と性愛は「社会の外=言外・法外・損得外でフュージョンする時空」。選択する主体がないので没人格化もありません。でも「安全・便利・快適化」で祝祭がシステムに飲み込まれ、昨今では性愛がシステムに飲み込まれました。

社会への適応とは、資本主義経済と行政官僚制への適応です。汎・システム化する社会に適応すると、汎・没人格化します。これが、つまらない社会に適応して、つまらない性愛に閉ざされる流れです。だから何もかもつまらないのです。でも本当は違うんじゃないか。少し前までつまらない社会の外に出る営みとして、享楽の眩暈に満ちた性愛があった。今もあるんじゃないか…。

ここに来てそういう映画たちが陸続しています。まずパク・チャヌク『別れる決心』(2023)。刑事と犯罪者の恋です。ただの刑事ではなく、表象としては探偵です。探偵とは属さない者。歴史を話すと、探偵小説は19世紀末の英国から。日本は戦間期からです。探偵は都市生活者を表象します。労働者でも資本家でもない。連帯せず所属しない。謂わば「第三者的な視座」をとる者です。

──探偵小説って昔からあったんじゃなく、意外と最近のものなんですね。

宮台 そうです。戦間期のマンハイムが、知識人を「浮動するインテリゲンチア」と定義しました。連帯せず所属しないから、第三者的視座を取得して「全体性」に接近できる存在です。必ずしも大学人を意味しません。所属して連帯する「原子力ムラの御用学者」の如き大学人もいるからです。マンハイムは大学人を含めた出来るだけ多くの人に「探偵たれ」と呼び掛けたと言えます。

これまた最近公開のロウ・イエ『シャドウプレイ』(2023)にも刑事と犯罪者の母娘双方との性愛が登場します。それ故のスキャンダルでマスコミに追われ、やがて殺人容疑を掛けられ、所属からも連帯からも疎外されます。『別れる決心』『シャドウプレイ』は酷似します。共に成功した犯罪者が、それでも「つまらない社会」を逃れられず、刑事も「つまらない社会」に飲み込まれます。

紙幅の制約で『別れる決心』に絞ります。連載で触れた、90年代半ばまで日本映画に頻出した「駆け落ちもの」の変形です。カンヌなど映画賞を総嘗めですが未だ言語化されていません。実直な殺人課のエースが法外での犯罪者との恋ゆえに身を持ち崩したと紹介されますが、間違いです。「愛の力」に吸い寄せられたと見えて、実は「社会のつまらなさ」によって押し出されています。

そこが「駆け落ちもの」の典型と違います。まず犯罪者が「社会のつまらなさ」を生きる。次にそこに刑事がシンクロし、無意識で知っていた「社会のつまらなさ」に覚醒。最後に「社会のつまらなさ」によって押し出された二人が「同じ世界で一つになる」。テーマは「愛」より「社会のつまらなさ」。探偵(的刑事)と犯罪者の恋を描く作品の、戦間期からの伝統的なモチーフです。

変死した犯罪被害者の妻ソレ(タン・ウェイ)。担当刑事ジュン(パク・ヘイル)。ソレは都合4つの殺人に関与します。ジュンは気付きつつソレに言わずに見逃して証拠を隠滅します。成功した犯罪者の「つまらなさ」が刑事にも伝わって「崩壊する」(劇中の台詞)のですが、タンの名演を通じて「つまらなさ」が観客にも痛く伝わり、観客も崩壊する=力を奪われる、という訳です。

『シャドウプレイ』との共通性は、(犯罪成功者を含めた)社会的成功者の「つまらなさ」を描く点です。失敗者が「社会はつまらない」のは当たり前です。失敗者が「成功したい」のも当然です。だが成功したのに「つまらない」とすれば──。これは社会学者エミール・デュルケムの『自殺論』(1897)の問題設定そのものです。これも探偵小説誕生期=都市生活者誕生期の書物です。

貧困者(失敗者)は「金持ちになれば(成功すれば)幸せになれる」と思います。でも手段がよく分からない(機会のアノミー)。でも懸命に手段を模索するので自殺しません。他方、富裕者(成功者)には「金持ちになる」という目標を達成したのに不幸なままの人もいます。なぜなら毎日の目標が分からなくなるから(目標のアノミー)。だから貧困者より数多く自殺するのだと説明します。

「機会の/目標のアノミー」はデュルケム研究を出発点としたマートンの用語ですが、概念はデュルケム由来。デュルケムは、理解に苦しむ統計データを合理的に説明すべく先の仮説を立てました。感銘を受けたマートンは、社会学的統計調査の目的は凡庸な経験の実証ではなく、理解に苦しむデータを見付け、それを合理的に説明する仮説を立てて概念語彙を揃えることだとしました。

順機能/逆機能。顕在機能/潜在機能。所属集団/準拠集団。社会化/予期的社会化。社会学で使われるこれら諸概念はマートン由来で、「理解に苦しむ統計データを合理的に説明する仮説を立てて概念語彙を揃える」営みで発案されました。僕の『サブカルチャー神話解体』は彼の推奨手順を忠実に倣っています。ただし、社会学の「民主化による劣化」で、今日そうした業績は稀です。

 

社会のつまらなさを共有して「同じ世界」に入る

──成功しても「つまらない」というのは、どういうことでしょうか。私は成功したという自信がほぼないので、よく分かりません…。

宮台 僕は「こんなはずじゃなかった感」と呼びます。「隣の柿は赤い」(隣の芝生は青い)の変奏でもあります。貧困者は「金持ちじゃないので」金持ちになれば全ての苦痛から解放されると期待します。富裕者は「金持ちになったのに」(貧困者の苦痛から解放されたのに)毎日がつまらないことに苦しみます。貧困だった時と違って毎日の営みの目標が消えるからだとデュルケムは言います。

注目すべきは、目標が消えると直ちにつまらなくなるのが都市生活者の現実だという理解です。『別れる決心』も『シャドウプレイ』も催眠術の如く「あなたは知っているはずだ、成功してもつまらない人生だと」と語りかけます。「そのつまらなさをあなたは知っているはずだ」と映像全てが訴えます。探偵(的刑事)と犯罪者の恋は「社会のつまらなさ」を描く効果的モチーフです。

探偵(的刑事)は所属と連帯で目が曇りません。だから「貧困者(犯罪失敗者)ならぬ富裕者(犯罪成功者)こそ実はつまらない」に寄り添えます。もっと言えば「そもそも社会がつまらないこと」を知っているので、「つまらなさを生きる犯罪成功者」に寄り添える。だから犯罪成功者が「つまらなさ」を知る探偵(的刑事)に恋するのです。古くは、江戸川乱歩『黒蜥蜴』(1934)がそう。

「何もかもがつまらない」のを知っていることで、犯罪者と探偵(的刑事)が「同じ世界で一つになる」。誤解してはいけません。探偵(的刑事)が恋ゆえに踏み外すのではない。『別れる決心』も誤解に見舞われています。全く逆。「何もかもがつまらない」ことを知る者同士が「同じ世界で一つになれる」ので、 「つまらない社会」から押し出されるように、恋を夢想(!)するのです。

──なるほど。連載では、定住社会の法生活が生き辛くても、逃げ場として、「社会の時空」の外に「性愛の時空」があるのだと伺って来ました。そのことのバリエーションだということですね。定住社会の生き辛さは、社会での成功や失敗とは関係がないということですね。

宮台 はい。『終わりなき日常を生きろ』(1995)に書きました。60年代半ば〜70年代末には「今は社会がつまらなくても、未来はそうじゃなくなる」と未来に思いを託せました。ところが70年代末から「貧病争の悩みがなく、キャリア官僚・学者の卵・若手芸術家として地位を達成したのに」日々が少しも輝かないという成功者の悩みが蔓延。自己啓発セミナーや新しい宗教が受け止め始めます。

でも、当時は映画やドラマでそれが表現されることはなかったし、95年のオウム真理教事件の時も『朝まで生テレビ』の出演者でまともに論じられる者が僕以外に一人もいなかったのを思えば、エリート界隈に閉ざされたマイナーな動きだったかも知れません。僕はたまたま80年代初頭から自己啓発セミナーや新しい宗教に潜り込んでいたので、そうした動きを知ることができました。

さて戦間期の『黒蜥蜴』に続き、69年の学園闘争の只中に実相寺昭雄監督『京都買います』(怪奇大作戦25)が、探偵的刑事と犯罪者の恋を描きます。開発で変貌する社会のつまらなさゆえに社会を放棄して犯罪に走る女。それを追ううちに社会のつまらなさにシンクロする刑事。エンドロールの、スモッグの空、ビルディング、汚れた鴨川、新幹線と市街が、テーマを象徴しています。

『京都買います』では、犯罪者と刑事が寺院巡りの逢い引きをします。『別れる決心』でも犯罪者と刑事が寺院巡りの逢い引きをします。「社会のつまらなさ」を離れたエアポケットの如き場所で二人がいっとき「同じ世界で一つになる」。脚本も書いたパク・チャヌク監督のオマージュだと思いますが、物語的(時系列的)というより神話的(世界観的)な美しいシンクロだと言えます。

つまり、感情的に劣化した昨今の若い世代がのたまう「リア充」どころか、性愛こそが社会の「つまらないリアルからの逃げ場」だと示されます。連載で話して来た通りです。けれど、『京都買います』でも『別れる決心』でも、社会の浸透圧が強いがゆえに「同じ世界」はかりそめで、性愛は想像的にしか成就しません。逆に言えば、現実には成就しませんが、想像的には成就するのです。

『京都買います』のラストでは、犯罪者が、涙を流す観音像に転生します。『別れる決心』のラストでは、見つからぬように自害した犯罪者(死に方は「即身仏」の隠喩です)を、夕暮れの海辺で刑事が永久に探し回ります。『シャドウプレイ』のラストでは、一転して英雄になったのに主人公が刑事をやめ、認知能力を失った父に寄り添います。現実的な非成就こそが想像的な成就だと示される、どれも実に美しい光景です。

 

場所から空間へ=人格から没人格へ

──宮台さんは、さきほどから時代に注目していらっしゃいます。刑事と犯罪者が「社会のつまらなさ」に押し出されて「同じ世界で一つになる」映画として、『別れる決心』と『シャドウプレイ』が同時期に作られた現在の状況を、どう考えていらっしゃいますか。

宮台 はい。探偵的刑事と犯罪者の性愛を描く『別れる決心』『シャドウプレイ』の時期的シンクロがどんな現在を表象するかを考えます。戦間期後期に『黒蜥蜴』が、高度成長晩期=学園闘争期に『京都買います』が描かれたのがヒントです。結論的には「失われたものを痛切にリグレットする感覚」が共通します。繰り返すと、探偵的刑事とは内面的には組織に所属しない刑事のこと。

乱歩は、戦間期前期(1920年代)の浅草から戦間期後期(30年代)の銀座への流れを ──エログロ・ナンセンスの渾沌からモボ・モガの統一感への流れを── 川端康成ともども嘆きました。消え行く色町と現れ出る凌雲閣(浅草十二階)が織り成す「闇と光の綾」が浅草。やがて全てがフラットに光に包まれてつまらなくなるという予感を描くのが『押繪と旅する男』(1929)で、直後に書かれたのが『黒蜥蜴』です。

『京都買います』の高度成長晩期は「二重の挫折」がありました。①豊かさが幸せだと思ったら「こんなはずじゃなかった」。今村昌平『人間蒸発』(1967)が描きました。そこで②学生たちは「ここではないどこか」としてキューバや中共に思いを託したが、「こんなはずじゃなかった」。文化大革命の現実や新左翼党派間の内ゲバが露わになったから。これが60年代末の「二重の挫折」です。

一口で言えば「出口だと思ったら出口じゃなかった」「外だと思ったら外じゃなかった」。際限なく拡がるフラットさへの慨嘆。それを繰り返し描いたのが足立正生脚本ないし監督作品の数々です。「外であるはずの屋上が、外のない密室だった」という逆説を『ゆけゆけ二度目の処女』が描きます。最近作『REVOLUTION+1 完成版』のラストも「外だと思ったら外じゃなかった」を描きます。

『京都買います』は足立と共に「大島渚組」に属する佐々木守の脚本です。足立は連続射殺魔・永山則夫の動機を階級的怨念ならぬ風景的怨念(どこに出かけても続くつまらなさ)に見ました(『略称・連続射殺魔』)。『京都買います』のエンドロールも同一の風景的怨念を描いています。戦間期後期に続き、高度成長時代晩期も、「フラットなつまらなさ」が前景化した時代だったのです。

今、韓国の『別れる決心』と中国の『シャドウプレイ』が、体制が違うのに同時に「フラットなつまらなさ」を前景化し、「フラットなつまらなさ」に押し出されて「同じ世界で一つになる」犯罪者と刑事の性愛を描きます。戦間期後期にも高度成長晩期にも意識された「出口のなさ」「外のなさ」が、汎・システム化=汎・没人格化が顕在化した今、体制を問わず人々を襲っているのです。

映画では、秩序維持の仕事に就く探偵的な刑事たちが、国を問わず、自分たちが守ろうとしている秩序が、人を幸せにしないどころか、人を「つまらなさ」に閉ざす事実を自覚します。彼らは「こんなクソ社会のために働いているのか」と思います。そこでは社会から漂い出た「仄暗い雲のようなもの」が彼らを包み、彼らから「力を奪う」のです。映画はまさに「炭鉱のカナリヤ」です。

戦間期後期と、高度成長晩期と、汎・システム化の現在とに、共通する「つまらなさ」の正体は、現在では性愛をも襲う「別に自分じゃなくてもいいんじゃね?」という入替可能性の意識です。そこでは孤独が退屈に体験加工されています。これを「場所から空間への頽落」という図式で記述したのが、80年代のイーフー・トゥアンとそれを踏まえた90年代のベアード・キャリコットです。

「空間space」は「機能の界隈」です。人が入替可能な機能的部品として市場や行政などの〈システム世界〉を支えます。だから〈システム世界〉と入替可能な没人格は表裏一体です。他方、「場所place」は人や動物や草花や土や森や山や海が織り成す、それ自体「生き物の如き全体性の界隈」です。そこでは人が入替不能な存在として ──仲間として── 認め合いつつ〈生活世界〉を営みます。

〈システム世界〉をコンビニが象徴します。コンビニ店員には名前がない。コンプライアンスで名札を付けていても誰も覚えません。マニュアル通りに役割を演じるだけの入替可能な存在です。だから店員が変わっても誰も気にしません。他方、地元のお店屋さんのオカミや主人には名前があり、客にも名前があります。だから関係の履歴が蓄積して、互いに入替不能な存在になります。

なお、この例は郊外化の特定段階に即したものです。歴史を辿れば、「場所から空間へ」=「人格から没人格へ」の変化は、30年代の戦間期後期からは都市化として、60年代末の高度成長晩期からは郊外化として、90年代後半のIT時代からはケータイ化(今日ではSNS化)として進展して来ました。コンビニ化は郊外化の、第一段階=団地化に続く、第二段階=新住民化に、対応しています。

キャリコットに依ればこうした変化は、功利論(ベンサム)や義務論(カント)などの人間中心主義に沿った「安全・便利・快適化」に拠るものです。でも、それによって場所の「生き物としての全体性」が毀損されます。人と場所では生き物としてのライフスパンが違う(人の一生は短く、場所の一生は長い)からです。人のスパンで開発すると、場所が死んで、場所に抱かれるが故の尊厳を失うのです。

いずれにせよ、「都市化によるフラット化」が乱歩の『黒蜥蜴』に対応し、その上に積み重なった「郊外化によるフラット化」が実相寺の『京都買います』に対応し、その上に積み重なった「SNS化によるフラット化」がパク・チャヌクの『別れる決心』とロウ・イエの『シャドウプレイ』に対応します。人が身体性を欠いた表層の記号となる動きが、こうした累加の度に昂進して来ています。

 

関係性からの退却と自己関与化

──「場所」にいるとき、人は「場所という生き物」に抱かれて、取り替えられない人格としての自分を感じられるのに、人々が安全・便利・快適を求めることで「場所」が「空間」に変わると、人が入替可能な没人格としての自分を感じて、つまらなく、生き辛く感じるようになるということですね。子供時代の自分と今の自分を比べてみると実感できます。それと同じことが、性愛でも生じるようになったということですね。

宮台 はい。それをこれから話しますが、「場所から空間へ」の流れが直線的・一方向的で、その意味で「人格から没人格へ」の流れも比較的シンプルなのに対し、性愛に於ける「人格から没人格へ」の流れは屈折しています。「場所から空間へ」に伴う没人格化への抵抗として、人格化としての性愛が追求されたのに、現実によって裏切られたことから、性愛に於ける人格化が諦められていくのです。

80年代の直前から、「場所から空間へ」=「人格から没人格へ」の流れで承認不足に苦しんだ人々が、包括的承認=全人格的承認を性愛と宗教に託し始めます。『終わりなき日常を生きろ』(1995)にある通り、「貧病争の困窮」を動機とする旧来の宗教に対し、70年代末からの新々宗教は「包括的承認」が動機。それがエリートの卵が続々参入した理由で、「母親しか褒めてくれない東大生」と書きました。

「東大に入ったのにこんなはずじゃなかった」は、70年代末から原理研究会(統一教会のフロント団体)やセクトの格好の餌になりました。百人規模で東大に合格する麻布や開成の出身者は学内に仲間が大勢いて、楽器や遊びの玄人はだしだらけ。勉強にしか自信がない地方出身者が孤独と劣等感に苛まれているところに、毎週末の鍋パーティに誘われ、やがて「合宿があるんだけど」と取り込まれます。

僕の世代(60年生まれ前後の「新人類世代」)は端境期。盆暮れに帰郷すると駅前で鼓笛隊が御待ち兼ねという同級生もいました。以前の世代では当たり前。それで「故郷に錦を飾る」動機も与えられました。でも僕の世代では少数で、既に笑い話のネタ。60年代からの団地化(第1段階の郊外化)=[地域空洞化×専業主婦化]を背景に、むしろ「母親しか褒めてくれない東大生」の方が多数派でした。

80年代半ばから「東大に入ったのにこんなはずじゃ…」に似た「性愛に乗り出したのにこんなはずじゃ…」が蔓延します。女子大生ニュー風俗が爆発した80年代前半からテレクラが爆発した80年代半ばにかけて若い女子の性体験率が急増。79年創刊の「マイバースデー」が象徴する「性愛に乗り出せない悩み」が、同年創刊の「ムー」が象徴する「性愛に乗り出したがゆえの悩み」にシフトしました。

86~87年には、岡田有希子の自殺が引き金で「ムー」のお便り欄で道連れを募った高校生女子の自殺が頻発します。ナンパやテレクラで出会った若い女子の多くが、父親より年長の男に彼女を向かわせた性愛の不毛(ゆえの自殺)に共感していました。周囲にイジメ報告のない女子が岡田有希子自殺以降「ムー」を利用して続々自殺した背景に、僕は「性愛に乗り出したがゆえの悩み」を見出します。

「性愛に乗り出したがゆえの悩み」=「性愛に乗り出したのにこんなはずじゃ…」は、86年からの新々宗教の加入を加速しました。86年には前身組織が「オウム真理教」と改称して信者が増えます。『サブカルチャー神話解体』で述べた通り、ダメな自分なのに「そんな君が好き」と言われる性愛の包括的承認から、ダメな自分なのに「そんなあなたを神が救う」と言われる宗教の包括的承認にシフトしました。

振り返ると、60年代末から「ここではないどこか」の希求先が「現実(中共やキューバ)から虚構(アングラ表現)」にシフトした後、73年から「ここではないどこか」より「ここの読み替え」がシャレとして希求され始め(植草甚一編集『宝島』などカタログ雑誌ブーム)、風俗街だった渋谷市役所通りがお洒落な公園通りに読み替えられた後(シャレからオシャレへ)、77年からデート文化が始まります。

サーファーブーム・テニスブーム・ディスコブーム・ペンションブーム…。同時に、荒木経惟の連載写真が引き金でパンチラ写真・ハメ撮り写真がブームになり、僕の周辺では高校時代に政治運動していた者がナンパ写真家になりました。『サブカル神話解体』で言う「政から性へ」(政治ロマン主義から性愛ロマン主義へ)の流れです。ロマン主義とは「部分の全体化」「内在の超越化」です。

この「政から性へ」に先ほど話した80年代後半の「性から聖へ」が続きました。性愛での包括的承認を諦めて宗教に委ねる動きです。この「性から聖へ」で性愛からロマン主義が脱落します。それを象徴したのが86年からの『an・an』読者ヌードブーム・女子大生AVブーム・お立ち台ディスコブームです。これらの動きを『サブカルチャー神話解体』では「性の自己関与化」という風に表現しています。

男の眼差しを前提とした「コミュニケーションによる関係性成就」が諦められ、「一皮剥ける」「殼を破る」「自分が輝く」の類の語彙で、男の眼差しを無関連化した「自己のホメオスタシス」が追求されるようになりました。だから92年に、交際していた女子高生から打ち明けられたのを機に援助交際を知った時にも驚きはなく、「そういう話になっちゃった訳か…」という納得がありました。

86年の岡田有希子自殺が転機で、77年からのデート文化に煽られた「性愛に乗り出せない悩み」が、「性愛に乗り出したがゆえの悩み」=「性愛に乗り出したのにこんなはずじゃ…」にシフトし、それによる包括的承認の宛先変更で新々宗教への加入が加速したと言いましたが、この「性から聖へ」の流れと、先ほど話した86年からの「性の自己関与化」の流れが、ぴったりシンクロしていました。

「性の自己関与化」から出て来たのが援助交際。援交ブームと呼べるのは93〜96年。教室の他の女子が憧れる「かっこいい子の援交」でした(援交第一世代)。96年からフォロワー層の拡大で自傷系の「いたい子の援交」になり(第二世代)、02年からはケータイ代支払いのための「金欠の子の臨時援交」になり、目に見えるブームはとっくに去ったのに援交経験者自体は激増します(第三世代)。

その延長で10年代から貧困女子の「金欠の子の常習援交」が増えます。だから援交=貧困女子の図柄は歴史の産物。むしろ90年代が性愛の時代と見えて、86年から「性愛ロマン主義の脱落」による「性の自己関与化」という性的退却が始まったのが大切です。関係性の放棄がまずあり、それで「カッコイイ子の全能感→イタイ子の自傷→金欠の子の凌ぎ」として援交が展開したのです。

そこから若い読者が汲み取るべきなのは、「性的退却ゆえの性的アクティブ」があり得ることです。復習すると、「関係性からキャラへ」が進み、「キャラ&テンプレがつまらない」から、若い人の性愛が①乗り出すのをやめる「退却系」、②いいねで補う「インスタ性愛系」、③過激化する「肉食系」に、頽落しています。この「肉食系」こそ「性的退却ゆえの性的アクティブ」の典型です。

共通項は「自分じゃなくてもいいんじゃね?」の入替可能性。それゆえの「孤独」が「退屈」に体験加工されて「つまらなさ」を感じます。肉食系のバリエーションが「地雷系」。ワザと浮気バレして刃傷沙汰を含む痴話喧嘩。希薄さを埋め合せるべくトラブルを利用する。この半ば意図的な共依存の醜悪さが、①退却系と、②インスタ性愛系(踏み込みはイヤ)の、動機を加速しています。

明確に意識されたり、埋め合せつつもおぼろげに意識される「つまらなさ」を、僕は昔から「仄暗い雲のようなもの」と呼びます。それは性的退却が始まった86年からの数年を「思い出させます」。「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」。85年から年長女性と事実婚する96年までナンパ師でした。86年から次第に「仄暗い雲のようなもの」が立ち込めて、やがて僕も力を奪われ始めます。

そんな僕は、92年に見つけた援交第一世代の「全能感」に接して救われます。それゆえ『制服少女たちの選択』(1994)では「関係性を放棄してフェチ的記号と戯れる営み」を「援交少女は傷付かない」として肯定的に評価しました。ところが、96年秋から登場した第二世代の「自傷感」にダメージを受け、周囲で連続した自殺を機に、97年から重度の鬱転を経験することになりました。

菅野久美子『ルポ女性用風俗』(2022)の巻末対談で話した通り、「彼女代行」から「パパ活援交」まで ──「ホスト&風俗嬢界隈」から「トー横界隈」まで──、取材を通じて「仄暗い雲のようなもの」が立ち込めているのを感じることができますが、そこからの避難所evacuationとして「女風」(女による買春の一種、女性用風俗)が機能している、という実に「皮肉な現実」が既に拡がっているのです。

女風が皮肉なのは、「通常の性愛が人格的で、売買春は没人格的」という通念が失効し、むしろ「通常の性愛が没人格的で、売買春こそが人格的」という具合に逆転していること。これは、つまらないからいいねを集める「インスタ性愛系」・つまらないから乗り出すのをやめる「退却系」・つまらないから過激化する「肉食系」という、「通常の性愛のつまらなさ」にぴったり対応します。

 

「16号線沿線的風景」に漂う「仄暗い雲」

──女の子が思いきって性愛に乗り出すことができない理由として、若い世代の性愛がつまらないものになっていることや、「肉食系」のようなアクティブな女の子を見ても違和感を感じるということがありますよね。若い世代の性愛が良くない方向に変わってきた背景も、よく分かりました。でも、そうであればあるほど「じゃあ自分はどうしたらいいんだろう」という気持ちがつのります。私たちが具体的にどうしたらいいのか、ヒントはあるんでしょうか。

宮台 二年間の連載で、性的アクティブになろうとする読者が増えたのは嬉しいし、読者の自助グループが出来たのも良いです。とはいえ、「退却系」をやめたとして、つまらないからいいねを集める「インスタ性愛系」や、つまらないから過激化する「肉食系」になるのでは、「つまらなさ」を神経症的反復で埋め合せて「新たなつまらなさ」に甘んじる、という醜態に突入してしまいがちです。

この連載を読んだ人の中には、「どこか違う」と感じている性的アクティブ層がいると思います。彼女たちの中には『制服少女たちの選択』(1994)や『まぼろしの郊外』(1997)や『ダ・ヴィンチ』00年9月号で僕が取材・監修した「スワッピング特集」を読んで「凄く刺さる」という女子たちがいて、諸般の事情で僕が記述を封印してきた「かつての眩暈に満ちた性愛の具体的な営み」を教えてくれと要望が来ています。

彼女たちは、周りに肉食系がいて、影響されて自分もその界隈に近づいたものの「どこか違う」と違和感を覚え、どうしていいか分からなくなった女子たちです(以下、高校生から大学生までの年代の女性を「女子」と呼びます)。そこで、「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」と、そこから離脱するための、幾つかの「眩暈に満ちた性愛の具体的営み」について、詳しく話すことにします。

「仄暗い雲のようなもの」は86年からテレクラで一部に観察できました。テレクラ仲間の間では「相模原市的なもの(横浜線の町田より西から橋本にかけて)」と呼びました。当時テレクラで男の車に誘い出された女子が密かに後続してきた仲間たちに輪姦される事件が頻発しました。でも、そうした目に遭ったのに、その後もテレクラで不特定の男に会い続ける女子が少なくありませんでした。

尋ねても「どうせテレクラじゃん、そんなものじゃないの?」と答えます。その度に落ち込みました。何にも期待していないダルイ風情。女子たちから「仄暗い雲のようなもの」が漂い、それが彼女たちから「力」を奪っていると感じました。彼女たちから漂う「仄暗い雲のようなもの」が周囲の風景をモノクロームに脱色しました。全ての色が奪われた風景の中で僕も「力」を奪われました。

彼女たちは、酷薄な現実の学習で、性愛への期待水準を著しく下げていました。孤独と(その変形としての)退屈を紛らわせるだけで、性愛自体には何も期待していません。なのに、先に話した通り、自殺した岡田有希子の中年男への恋が示唆する「性愛の不毛」には「気持ちが分かる」と共感します。そこから、願望水準自体はさして下がらずに残っているのかもしれないと思いました。

願望水準と期待水準の乖離は苦しい。周囲だけでなく自分が否定的に感じられます。それが先に話した「性愛に乗り出せない悩み」から「性愛に乗り出したがゆえの悩み」へのシフトです。願望を持ちながら現実に何も期待できないのは、「生きていること」と「死ぬこと」との境い目がぼやけている感じに近い。それを僕は「仄暗い雲の中を浮遊するような感じ」と形容していました。

形容していたというのは、90年代前半に準備していた『テレクラという日常』の草稿のこと。話した通り、その暗さは92年から始まる援交第一世代のトンガリキッズ的な明るさとは対照的でした。他方、96年からの第二世代のように暗いものの、自傷痕がある女子はおらず、単に浮遊している感じ。ちなみに90年代に入るまでのテレクラに援交は皆無でした。ただ男と出会って性交していただけです。

起伏を欠いたフラットな感情に覆われた感じです。うまく言葉で表せないので「力を奪われた女子から『仄暗い雲のようなもの』が漂い出し、それが僕からも力を奪う」と言いました。女子3人から立て続けにレイプの話を聞いた日から3か月間、僕は重いEDになりました。エロ本にもAVにも性欲を感じず、自慰も全く不可能でした。鬱に近い状態で、全てに興味を失いました。

昨年11月29日の宮台襲撃犯(自殺)が相模原市在住と聞いた時、テレクラの待ち合せに使った当時の成瀬駅・淵野辺駅・原町田駅のモノクロームの風景と女たちの佇いを思い出し、気持ちが落ちました。でもそのことも、当初は「相模原市的なもの」と呼んでいた「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」について、思い出すだけで力を奪われがちながらも、今回の連載で書こうと思った理由です。

その後のフィールドワークから、『まぼろしの郊外』では「16号線沿線的な風景」と名付け直し、初期(86〜95年)AV女優の量産地だった事実を記しました。16号線は横浜市西区を起点に、横浜市・東京都町田市・神奈川県相模原市・東京都八王子市・埼玉県川越市・大宮市(当時)・浦和市(当時)・千葉県柏市・千葉市・木更津市を環状で結ぶ道路。その沿線で多数のAV女優がスカウトされました。

『まぼろしの郊外』では、田舎の「地縁的な顕名の絆」からも都会の「クラブ的な匿名の戯れ」からも、二重に疎外された郊外が「16号線沿線的な風景」だと記しました。小見出しは「少女は郊外で浮遊する」。「16号線沿線的な風景」自体に「仄暗い雲のようなもの」が漂うがゆえに、女子が浮遊して、スカウトマンの勧誘に「諾」と答えてしまう…という「感覚地理」を記しました。

そこで記した「16号線沿線的な風景」のような対象を社会学は「感覚地理」と呼びます。量販店や消費者金融やパチンコ屋が並ぶただの物理的風景ではありません。生活形式や関係性 ──〈システム世界〉での入替可能性と〈生活世界〉での入替不能性のどちらに近いかなど── と結びついた風景です。それは、SF作家バラードが言う「風景が内面に浸透し、内面が風景に浸透した、内宇宙(内的に体験加工された風景)」です。

──昨今の女子たちの多くにも「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」が漂うとおっしゃっていましたね。「自分じゃなくてもいい」という入替可能性から来る「つまらなさ」を感じていると。90年代のお話を聞くと、古くから根本的な背景があったものが、現在にも貫かれているのでしょうか。

宮台 そうです。トー横界隈女子にも同じ「仄暗い雲のようなもの」が漂います。多くは神奈川西部や埼玉や千葉から家を出てトー横界隈に集います。援交第一世代でもこれらの地域から、「ホストクラブで遊ぶ金ほしさ」ならぬ「クラブで遊ぶ金ほしさ」で多くの女子がやってきました。共通するのは「地元に居場所がない感」。「16号線沿線的な風景」は「地元に居場所がない感」を意味してもいます。

「地元に居場所がないから」浮遊します。正確には「地元にも家にも学校にも居場所がない」ですが、柳田国男に従えば、社会(誰もが乗るプラットフォームに貢献せよという規範の作法)のかわりに、世間(周囲の空気を読んで上に従うキョロメとヒラメの作法)だけがある日本では、地元が空洞化すると直ちに家族も学校も空洞化するので、「地元に居場所がないから」と一括できるのです。

地域が空洞化すると家も学校も空洞化します。すると家も地域も学校的価値のデミセになります。「お前は家業を継げばいいよ」が消滅し、地域でも家でも成績の良し悪しが話題になります。『まぼろしの郊外』に言う「日本的学校化」です。学校的価値への一元化は子供たちから尊厳を奪うので、地域にも家にも居場所が消えます。それで地域・家・学校ではない第四空間に漂い出ることになります。

都会には旧地元的な「顕名の繫がり」はなくても「匿名の戯れ」があります。だから「顕名の繫がり」からも「匿名の戯れ」からも疎外された郊外から、「匿名の戯れ」がある都会に集います。首都圏で言えば、かつてはセンター街、今はトー横界隈に、「匿名の戯れ」を求める子が集います。80年代後半の「地元のヤンキーから、都会のチーマーとコギャルへ」という流れの反復です。

第四空間の始まりは、80年代前半の校内暴力(学校に期待するがゆえの依存的暴力)が終った80年代半ばです。第四空間は、テレクラ(匿名回線)→ゲーム(仮想現実)→ストリート(匿名現実)の順に現実化しました。これら全てが、フラットな日本的学校化空間からの避難所でした。学校化空間=学校・家・地域で奪われた感情的安全emotional securityを、束の間、取り戻せる居場所でした。

家・学校・地域ではない「第四空間」という物言いは、生活空間(家と地域)でも職場空間(会社)でもない「第三空間(盛り場や色町)」という磯村英一の図式をもじったものです。第四空間のうちリアルな現実はストリートだけですが、96年に「街の微熱」が失われて消滅しました。これを僕は「SPA!」誌上で「オウチ族化・ジモティー化」と記しましたが、両方とも今はありません。

「オウチ族」とは24時間出入り自由な若衆宿的「自宅」に集う若い子たちのこと。「ジモティー」とは町田・立川・柏など再開発された駅周辺に集う若い子たちのこと。ストリートの「匿名的な戯れ」「匿名的な親密さ」が消えた後の残り火で、かつての地元の裏共同体だったヤンキーとは異質です。必ずしも本名を知らず、「卒業の儀式」もなく、「KYを恐れてキャラを演じる界隈」です。

──なるほど。私たちは、何か大変なものによって貫かれているようですね…。今回のお話でそれに気付けました。でも、個人の力では豊かな性愛に乗り出すことは絶望的に難しいとも感じました。

宮台 難しさの由来を確認するために、別の視座から整理します。96年に「街の微熱」が失われ、第四空間の消滅と同時に、援交第一世代(万能感系)から第二世代(自傷系)にシフトします。次に02年には、ケータイの世帯所有率が5割を越えたケータイ化を背景に、第二世代から第三世代(臨時財布系)にシフトします。そして2010年には、貧困化を背景に、第三世代から第四世代(常習財布系)にシフト、初期パパ活が生まれます。

更に遡ると、60年代の団地化(=第1次郊外化)で、地域空洞化(=専業主婦化)が進みました。次に、80年代の新住民化(=第2次郊外化)で、家族空洞化(=コンビニ化)が進みました。それが日本的学校化(=学校的価値への一元化)に帰結し、避難所としての第四空間化が進みました。更に、00年代のケータイ化(=第3次郊外化)で、全関係の空洞化(=キャラ&テンプレ化)が加速します。

2010年頃からの初期パパ活は業者介在型ですが、16年頃から業者を抜いた相対(あいたい)が進みます。同じ16年頃からマッチングアプリでの出会いを公言できるようになります。共に「匿名的な親密さ」の消滅が背景です。一方でパパ活は恋人的演技を欠いた単純売春に近付き、他方でマッチングアプリは「親密さ」を欠く「コクってイエス」のステディ(キャラ&テンプレ)になります。

他方、05年から大学生男子が飲み会で下ネタを回避し始め、10年からは大学生女子も下ネタを回避し始めます。同じ頃から「肉食系」「女子会」の言葉が人口に膾炙します。「女子会」は、若者が来なくなったラブホの広告代理店的な戦略です(「Bali An」など)。「肉食系」は、性的退却を前提にした「後ろ指さされ組」の、フラグを立てた連帯です。どれも性的退却から派生しました。

かくて性愛アクティブ層とされる、相対(あいたい)パパ活系も、カレシカノジョ系(インスタ性愛系)も、肉食系も、どれも「私じゃなくてもよくね?」的な入替可能性に由来する「つまらなさ」(ゆえの期待水準低下)が蔓延しています。かくてあらゆる界隈で「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」が蔓延し始めたのです。この「仄暗い雲のようなもの」を、払拭できるでしょうか。

以上の年次的な記述を重ね合わせると「それありて、これあり」「それなくして、これなし」という仏陀が十二月八日に真理として覚醒した「縁起」そのものだと分かります。つまり、①今の若者のあり方は自明でも何でもなく、②今の特殊なあり方は「歴史の流れ」の帰結です。それを精緻に遡れば、何ゆえに何が可能になり、何ゆえに何が不可能になったのか理解できます。だから歴史を詳しく辿っているわけです。

社会システム理論では「歴史の流れ」をこう見ます。ある時点の出来事は、次時点にあり得る出来事群に可能性領域を与えます。その可能性領域から一つの出来事が起こると、その出来事が、次々時点にあり得る出来事群に可能性領域を与えます。以下同様。「それありて、これあり」「それなくして、これなし」という仏陀の「縁起」を、社会システム理論でそうパラフレーズできます。

「前提となる出来事」と「前提を与えられる出来事」の継起が歴史です。そこには因果的決定はありません。「それありて、これあり」「それなくして、これなし」という前提・被前提関係があるだけです。第一に、各時点の出来事は未来を決定せず、方向づけるだけ。第二に、各時点の出来事は、たとえ過去から方向づけられていたにせよ、偶発的、つまり他でもあり得たのにそうなりました。

こうした「縁起=前提・被前提関係」を辿って分析することで、僕らは決定論に陥ることなしに、「未来の出来事の方向付け」に向けて、「前提の操縦」に乗り出せます。繰り返すと、過剰なほど歴史をつぶさに辿って来た理由がそこにあります。「仄暗い雲のようなもの」も間違いなく僕らが制御できます。それを踏まえた上で、「前提の操縦」に乗り出すためのヒントを、以降で探ります。

──ありがとうございます。この続きはWEB版の中編にて掲載されますので、引き続きよろしくお願いします。

 
中編につづく