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性愛に踏み出せない女の子のために 第5回WEB版 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第5回WEB版 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2022年3月15日発売号で第5回をむかえますが、今回からWEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第5回WEB版は、前編、中編、後編にわけて、ロールモデル、偶発性の話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

季刊エス77号に第5回が掲載 https://amzn.to/3CKcynd
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。

なぜ「性愛の微熱」に憧れが減ったのか?


──性愛についてのことですが、私は学生の頃から、エッチ自体が未知なので怖いものだと感じていました。

宮台 統計的には性的退却が始まって25年近く経ちました。あなたが生まれた頃からです。だから縁遠いのだと思います。高校生や大学生に様々なセッションをしていますが、その一つが過去のCMを見せること。80年代を象徴するCMと言えばJR東海の「シンデレラ・エクスプレス」(クリスマス・エクスプレスとも呼ぶ)です。御存知ですか。

 若い人たちに見せると、95年より前に生まれたミレニアル世代は「微熱感」に憧れますが、95年以降に生まれたZ世代には憧れる人がほぼいません。96年の後半から援交ブームが終わり、街の微熱が失われ、悩みを何でも話す友達がいなくなってキャラを演じるようになり、性愛を含めた過剰さがKYだと忌避され始めたことを、前に話しましたね。

 その時は両世代を区別しなかった。両方とも街や性愛の微熱を知らないからです。微熱を知らないのは80年代半ば以降に小学生時代を送る、80年頃に生まれた世代から。援交の担い手が明るい第一世代(77~81年生まれ)から暗い第二世代(82~86年生まれ)に変わったのもそれが背景です。ミレニアル世代もZ世代も両方ともその後に生まれました。

 前に話した通り大学生が飲み会で下ネタを避け始めたのは男が2005年頃、女が2010年頃からです。避ける理由は皆が乗れない話題だから。2010年からは性的にアクティブな女が同性間で「ビッチだ」と陰口を叩かれ始めます。Z世代の先頭が高校進学した頃。高校生にも同じ流れがあった筈です(高校生とは飲み会をしないのでデータ未取得)。

 それを見ると、ミレニアル世代もZ世代も街と性愛の微熱を知りませんが、ミレニアルが微熱に憧れ、Zが憧れないというデータに符合します。他にも両世代の違いがあります。80年代後半~90年代前半生まれのミレニアルはテン年代には20歳代のインスタ世代です。90年代後半以降生まれのZは20年代にはインスタを離れTikTokに向かいました。

 これは、同じSNSでもミレニアルが文字&写真中心でZが動画中心という違いに繋がります。2020年公開の『竜とそばかすの姫』を見たミレニアルは「やっぱリアルが大切なんだ」と共感を示す向きが多かったのに、Zの多くは「素顔を晒せば絆ができるってありえねえだろ」と反応しました。この違いはTikTokの人気動画を見ると意味が分かります。

 整形ならぬ化粧で早変わりする動画が人気ですが、ポイントはビフォア&アフターの違いを自ら晒すこと。違いが激しいほど人気が出ます。文字&写真のインスタは「盛る文化」onlyですがTikTokは「自ら晒す文化」を含みます。比喩を言えばインスタはVR(仮想現実)ですがTikTokはAR(拡張現実)です。後者では純粋なリアルは意味をなしません。

 ところが性愛とりわけ性交は剥き出しのリアルです。Z世代のあなたがミレニアル世代以上に「エッチが未知で恐い」のはそれが背景でしょう。前から話しているように「ナンパ第一世代」の僕ら世代から見ると、統計的にはナンパ(する・される)体験率が三分の一になったミレニアル世代も充分に性的退却を示しますが、Z世代ほどではありませんね。

 96年後半から街や性愛の微熱が消え、統計的な性的退却が始まる。当時の高校生と大学生です。彼らは80年代に小学生。70年代までの子供遊びを知りません。秘密基地ごっこやブランコジャンプや焚き火や花火水平撃ちの経験や、ヨソんちで御飯を食べて風呂に入った経験もない。土地に縁なき「新住民」である親が「安心安全厨」になったからです。

 公園の危険遊具撤去や屋上や校庭のロックアウトを主導した、土地の共通感覚を知らない「新住民」である親が小学生だったのが60年代の「団地化」の時代。当時の団地には、小学校に行くと団地や農家や商店やヤクザや医者の子が渾然とした小さな団地と、教室に団地の子しかいない高島平や千里みたいな大規模団地(ニュータウン)があったのです。

 僕はその世代だけど、71年に一貫校に進学した時、ノイズ耐性があって社交性の高い前者出身者(塾通い期間が1年未満)と、ノイズ耐性を欠いて社交性が低い後者出身者(期間が2~3年)が分かれていました。これが70年代後半に入るとナンパ系とオタク系の分岐に繋がります。それでも僕の学年まではそれほどキツイ分岐ではありませんでした。

 第5回の今回から誌面版とWeb版が別内容になり、Web版は今回初めて読む方が多いので誌面版の連載を少し復習しました。Web版で別内容を載せるのは、語るべき事柄が多くて誌面版では追い付かないから。第5回から誌面版とWeb版を同時公開しますが、誌面版を遡って読み、今後両方読んで下さい。この第5回Web版も第5回誌面版を前提にしているからです。

 さて以上のような明確な社会(学)的背景があって、性的能力の劣化とそれによる性的退却が進みました。その過程は世代差として明瞭に表れます。例えば、僕は世代的にかつてのナンパ師仲間が大勢いて、下世代の劣化や退却をいぶかります。でもこの流れは今話したような必然的過程であるのです。だからこの流れは先進国の全てに共通しているのです。

 「ゆだねる」「明け渡す」営みがZ世代のあなたに危険すぎると感じられるのは当然です。自殺行為に近い「無防備さ」に見える筈です。でも僕ら世代はそうじゃなかった。秘密基地ごっこやブランコジャンプや焚き火や花火水平撃ちの経験は、男女の別がなく、「黒光りした戦闘状態」で団子になって遊んだから、共同身体性や共通感覚を信頼し合えたのです。

 遊びには僕ら世代に定番の「お医者さんごっこ」もありました。裸になって局部を見せ合う遊びです。4歳下の弟が小学生だった頃まではありました。高学年になると互いを男女として意識し始めますが、昔は一つの団子になった記憶があるので、一旦は別々になった男女が再び一つになる感覚として「同じ世界」の「一つのアメーバ」を想像できたのです。

 今の話は前にしましたね。「同じ世界」で「一つのアメーバ」になることが想像を絶していれば、願望対象になりません。だからワークショップでは、男子と一つの団子になって遊んだ記憶を思い出して貰うのだと。街からも性愛からも微熱が失われて25年以上経った今は、思い出すのが簡単じゃありません。だからワークショップの手順が必要なのです。

 とはいえ、あなたにも性的な好奇心はあり、個室化とネット化の御蔭でマスターベーションの経験もあるでしょう。だから、「ゆだね」「明け渡し」を伴う性交より、マスターベーションのほうを近く感じます。年長世代ではむしろ真逆だったのです。その意味であなたの感じ方は完全に時代の産物なのです。しかしそれがあなたの性愛の幸いを妨げるのですね。

 詳しく見ると、時代の産物としての過剰自己防衛が、「ゆだね」「明け渡し」を伴う性交を不可能にし、それが不可能だから、自己防衛の壁を乗り越える深い恋愛が不可能になり、深い恋愛がないから、「ゆだね」「明け渡し」を伴う性交を望まなくなる。深い恋愛と深い性交は一つの輪です。「恋愛」と「性交」が切り離されていると、恋愛も性交も深くなりません。
 

恋愛・性愛のロールモデル

──性的好奇心は確かにありました。ただ、エッチは好きな人としたいと思うものでしょうけど、私は好きな人とすることが想像出来なかったんです。「したいな」とは思っても、現実の人とはリンクしませんでした。

宮台 それは仕方ないです。なぜか。90年代までは街を歩けば、カップルが手を繋ぎ、腕を組み、腰に手を回し、キスするのが当たり前。電車でも映画館でもライブハウスでもそう。だから子供の頃から「自分も恋愛するようになればこうするんだな」と思えたのです。社会学でいう「ロールモデルの習得」です。僕の中学時代の思い出を一つ紹介します。

 中学に入った僕はテレビの映画劇場でクロード・ルルーシュの恋愛映画が大好きになり、『男と女』が公開された時に映画館に行きました。すると周囲がカップルだらけで、上映中もブチュブチュしたり体を触り合ったり。一人ぼっちの僕はすごく寂しかったけど、大人になったら絶対にそうするぞと心に誓いました。そして実際そうするようになりました。

 今はそれどころじゃなく「イチャイチャするのは周りへのハラスメント」とされます。特にZ世代がそう言う。多くは「アセクシャル」(性的感情が湧かない)を自称します。昔なら「草食系」。お笑いです。アセクシュアルなら気にするなよ。気になるのは無意識ではアセクシュアルじゃなく劣等感を抱くから。こんなショボイ不快感に公共性はありません。

 80年代前半までアベックと言いました。ベタベタ・イチャイチャする存在を指します。80年前後に高校生・大学生の恋人同士が蓼科や軽井沢の「白いお城と花咲く野原」に泊まるペンションブームがあり、引き摺られて、回転ベッド・全周ミラー・天井ミラーボール・スケベ椅子のラブホが、ペンション風に変わり、カップルという呼称に変わりました。

 僕は高卒した77年からラブホに入り浸りますが、その頃にも変化を目撃しました。ラブホや商店街の同伴喫茶(後のカップル喫茶)には落書き帳がありました。その内容が「主婦です。3ヶ月に一度パイロットの彼と来ます。会えない日が切なく…」みたいな身の上相談調が、絵文字満載の「きゃは。隣の喘ぎ声に釣られて3回戦目♥」に変わったのです。

 実はこの「軽さ」こそ80年代が「性愛の時代」になる伏線でした。「軽さ」の背景は少女漫画です。僕のテレビデビューは新制東大で3人目の博士号を貰った『権力の予期理論』の公刊と同じ八九年。NHKの朝ワイドで「少女漫画批評家」の肩書でした。70~80年代の少女漫画を全て読んでいます。だから事柄の因果関係がめちゃめちゃ分かるのです。

 ちなみに僕は80年代半ばからテレクラナンパとデパ地下ナンパに乗り出しました。主婦と付き合いたかったからで、それは同世代の「軽さ」に違和感があったからで、違和感があったのは「軽くない性愛だけが本物」と感じていたから。主婦の不倫は当時、「安心安全厨」に満ちた「新住民」界隈にあって非日常の冒険だったからです。今とは違ったのです。

 小中学生の頃からアベックを見てきた僕のロールモデルは、「軽い」カップルならぬ「非日常の」アベックです。だから「恋人とはアベックのこと」と思いました。僕の世代のナンパ師にも多い。日常の延長としての性愛でなく、日常から逃避して没入する性愛です。「愛すること」を「性愛的に親密であること」「濃密な性交をすること」と切り離せないのです。

 逆説があります。今は性愛がゾーニングされているのに、性愛が「軽い」。手軽な相互コントロールと達成による自意識への閉ざされがあるだけ。僕が社会化された70年代は、性愛が「重い」のに、ゾーニングされておらず各所で目撃できた。「重い」性愛はリスキーですが、ゾーニング未然でロールモデルを目撃できればリスクを超えようと思えるのです。

 30年使ってきた「コントロール系・対・フュージョン系」「フェチ系・対・ダイヴ系」「自意識・対・脱自意識」「快楽・対・享楽」「能動受動・対・中動」「社会の内・対・社会の外」などの対立概念はそんな経験に由来します。というと時代相対的に見えますが、人類学に従えば「フュージョン系・ダイヴ系・脱自意識・享楽・中動・社会の外」が性愛の本質です。

 社会学者の多くは頓馬で、構築主義みたいな文化相対主義を唱え、「本質」という言葉を嫌います。僕はイリッチの影響もあって鼻で笑ってきました。文化には存続可能なものと不能なものがあり、存続の可否はマルクスがいう物質代謝や最近分かってきたゲノム配列まで含め、存在論(世界はそもそもどうなっているか)に拘束されるに決まっているのです。

 人の感情が「コントロール系・フェチ系・自意識・快楽・能動受動・社会内only」つまり人類学的に「不十分な性愛」しかできない程にまで劣化したら結婚や育児はどうなるか。現在の人工授精や近未来の人工子宮で人口維持ができたにせよ、次世代以降の感情的劣化が更に進みます。劣化した感情が/を支える文化が、社会を存続させられるでしょうか。

 要は、ウヨ豚や糞フェミが蔓延した社会が、存続できるか。僕がそんな認識を持つのはゾーニング未然の時空を生きられたから。祝祭の時空と性愛の時空が社会に沁み出している環境を生きられたから。人類史上それが大半でした。だから性愛の表現規制に抗ってゾーニング規制を裁判や議会で訴えつつも、一貫して過剰ゾーニングに反対してきたのです。

 過剰なゾーニングは80年代「新住民化」以降です。例えばタバコ。今は「喫煙ゾーン」だけど、80年代は「禁煙ゾーン」。「吸ってはいけない場所」がマークされました。記号学でいう「有徴」。でも90年代後半になると逆転して「喫煙ゾーン」をマークするようになります。同時期からの「街と性愛の微熱消失」とシンクロする事実に注目しましょう。
 

重い性愛の関係を結ぶこと

──ちょっと違う話かもしれないのですが、小学生の時に高校生くらいのカップルがイチャついているのを見て、友だちとはやし立てたことを覚えています。その時は「言ってやった~、恥ずかしかっただろうな」みたいな満足感がありましたが、自分が大人になると、「あのカップルはラブラブだったんだから、子供に何を言われようが平気だったに違いない」と気づいてハッとしたことがあります(笑)。

宮台 大学一年の思い出です。夕暮れのベンチでキスしたり胸を触ったりアソコを触ったりしていたら、小学校高学年のおマセな女の子が突然現れて「ねえ、おにいちゃんとおねえちゃんは恋人なの?」と聞かれました。たぶんずっと見ていたのです。その子にとって「自分も将来こんなことをするんだ」というロールモデルの確認になっていたのでしょう。

 だから「あと5年もすれば君も同じことをしているよ」と答えました。思えば中学時代、空手部の夜練が終わると高校生の先輩が有栖川公園に僕らを連れていってくれて、いろんなことをしているアベックを覗き、先輩の命令で一斉に「ペニスー!」と叫びました。服装を直したりでアタフタするアベックを見ながら、皆とても羨ましがっていたのですね。

 僕の世代的体験を話しました。理由は分かるでしょう。あなただけでなくZ世代の多くが「好きになることと性交することが繋がらない」と言うのはなぜか。ロールモデルを目撃できなかったからです。目撃できなかったのはなぜか。一つは過剰なゾーニングに妨げられ、もう一つはそれと相俟ってそういう営みをするアベックがいなくなったからですね。

 長く話したのは、映画を見ているみたく想像できるようにです。ただしインターネットでアダルト動画を見るのとは違います。「高校生や大学生になれば、好きな人とそうするのが当たり前で、皆そうしていた時代」の光景を活き活きと思い浮かべてほしい。ツイートしてきたように幾つかの80年代映画にはそんな街と性愛の微熱が生々しく描かれています。

 僕のゼミやワークショップみたいに映画で学ぶのは大切です。50年代の溝口健二の傑作群には赤線時代の色街の微熱が描かれます。僕が生まれた昭和30年代半ばの漁村で女たちが貨幣のように男を遣り取りしていた実話を描く黒木和雄監督『祭りの準備』(1975)もお勧め。80年代的「軽さ」以前の「奔放な性愛の『重さ』」という逆説も理解できます。

 以前にマッチングアプリの話をしました。どんな出会いなら「重い」──「入替不能」「持続可能」──なのか、逆にどんな関係なら「軽い」──「入替可能」「持続不能」──なのかでした。30年前『サブカルチャー神話解体』(1993)に書いた通り「関係の唯一性」をもたらすのは「①非属性主義的な②関係の履歴」。マッチングアプリはそれを欠きます。

 加えて、入替不能な「重い」関係には、「フュージョン系・ダイヴ系・脱自意識・享楽・中動・社会の外」が不可欠なのが分かるでしょう。マッチングアプリは所詮「コントロール系(支配被支配)・フェチ系(属性的)・自意識(達成的)・快楽(相対的)・能動受動(意識的)・社会の内(リア充)」に過ぎず、だから入替可能な「軽い」関係になります。

 今は結婚すると二組に一組近くが離婚します。イヤなら離婚すりゃいい。でもそもそも彼らは持続可能な関係を築く感情的能力を持つのか。こんな時代には子供を幸せにできないとする「反出生主義」が流行ですが、僕の見立てでは、持続可能な関係を築く感情的能力を持たない両親がそれゆえ子供を幸せにできそうもないと直観することが背景にあります。

 さらに踏み込みます。「重い」関係だけが「ゆだね」「明け渡し」を可能にし、「ゆだね」「明け渡し」だけが「重い」関係を可能にします。でも今のステディや夫婦にそれがあるか。人妻ナンパ師だった僕は知っています。80年代には「夫を愛してますが…」と言う人が多かったのに、ゼロ年代になると「夫への愛はありません」と言う人が殆どになりました。

 彼女らの言い方では「愛がないこと」と「性交がただの作業であること」との間には関係があります。正確には「ゆだね」「明け渡し」がない所では「性交はただの作業」になります。この20年間の『婦人公論』は「中イキしたことがない。このまま老いるのか」という悲鳴が満載ですが、僕が読むと本質は「愛がないこと=ゆだねと明け渡しがないこと」。

 容姿やカネや地位から「一緒にいて違和感がない」まで含めて、「属性主義」は脆弱です。容姿やカネや地位や違和感のなさには、もっと上の属性を持つ相手が腐るほどいます。だから

マッチングで出会ったステディや夫婦の多くはマッチングアプリを手放さず、それを互いに知るがゆえの疑心暗鬼で、①非属性主義的な②関係の履歴から、見放されるのです。

 上野千鶴子氏は「結婚に恋愛を持ち込むな」と語り、女の婚外性愛を認めてきましたが、時代遅れです。今や仮面夫婦の関係の外に、「ゆだね」「明け渡し」によってトランスできる──号泣・過呼吸・時間感覚失調・記憶喪失・言語聴取失調を来す──男を、中年以降に見つけるのは難しい。だから女がSNSで助け合う女風(女性用風俗)が流行るのです。

 そんな脆弱な「軽い」関係しかありえない相手と、長い時間を使うステディや結婚の関係を結んでいいのか。認識の正しさを横に置くと、女風界隈に来る女の多くは「三〇代も後半になれば恋愛市場での価値が急落する」と脅えています。ならば、なぜそれまでじっとしていたのか。だから、あなたは今すぐに「重い」性愛関係を求めて試行錯誤すべきです。

 試行錯誤で昨今の劣化した現実が見えてきます。「ゆだね」「明け渡し」を伴う「重い」性愛関係を結べる男が払底している現実が。そういう男は誰かと「共有」するしかない現実が。現実が見えてくると「あれもこれも」はありえず、優先順位を付ける必要に迫られます。感情の働きに関わるので時間が掛かります。早く試行錯誤に乗り出す必要があります。

──先ほども少し話題に出ましたが、親密な関係の人が誰もいないけれど、性的に気持ち良くなりたいときはマスターベーションをしますよね。それはどうでしょう。一人だからフェチになってしまうのか、でもやらないというのも変だし…。

宮台 フェチの問題以前に、マスターベーションレベルの快楽は「享楽」までいきません。前に「享楽は絶対的、快楽は相対的」という話をしました。マスターベーションの快楽は相対的です。他に楽しいことがあればマスターベーションしないでしょう。絶対の優先事項じゃなく、「暇な時にムラムラしてやる」という程度のもの。レベルが低いわけです。

 でも、それは享楽を知らなければ分からない。絶対を知らないと相対に過ぎないものが分からない。だから当人たちは不満を持たない。すると性交する相手を見つけても「二人オナニー」になります。『サブカルチャー神話解体』にも書きました。最善の場合でも、互いのフェチ的志向の凸と凹を噛み合わせる程度の、入替可能で持続不能な関係に堕します。

 僕の映画評の言い方だと、「同じ世界」に入り、「同じフロー」に乗り、「一つのアメーバ」になる感覚がない。だから「社会の時空」を忘れて「性愛の時空」に没入できない。単なる快楽です。「享楽の性愛」を知れば「あれはオナニーの相互介助だったな」と気付けます。でも「享楽の性愛」を知らなければ分からない。だから不満を持ちにくいのです。

 あなたは前に「AV女優みたいに感じることはあり得ない」と言いました。でも僕らが見ればAV女優は「さして感じていない」。ごく一部の例外を除いて「二人オナニー」の延長線上でしかない。女が号泣・失神・過呼吸に見舞われる状態からは程遠い。それは体の色を見ているだけで分かります。性交でトランスした女は顔や体の一部の色が変わります。

AVを離れると、当事者の女はそれ以外のものを想像出来ないので、男に「気持ち良かった?」と聞かれて「気持ち良かった」と答えます。それは、見る人が見れば「気持ちの良い二人オナニーだった」と言っているのと同じ。本当は「享楽の性愛」で「同じ世界」で「一つのアメーバ」になる感じをゴールに出来るのに、それを知らない。凄く可哀想です。

 

中編につづく