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性愛に踏み出せない女の子のために 第9回中編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第9回 中編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2023年3月15日発売号で第9回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
前回(第9回誌面版=WEB版前編)に続いて、WEB版中編では、豊かな性愛に必要な「なりきり」とそれによる「交響する多視座」の実装について理解を深めるために、かつて隆盛を誇ったスワッピング本質が語られます。

 


過去の記事掲載号の紹介 

 

季刊エス81号に第9回前編が掲載 https://amzn.to/3T5e7Ep
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3QiyWuP
第8回はWEB掲載 https://www.s-ss-s.com/c/miyadai08a
第9回は「季刊エス81号」https://amzn.to/3T5e7Ep

 


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

 

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積 極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


中編
互いを取り替えられないスワッピング

 

──前回の予告では、今回は「テンプレ系=インスタ性愛系・退却系・肉食系」のつまらなさの、外に出るには、具体的にどうすればいいのかを、話してくださるということでした。

宮台 今回は文脈の繫がりが大切なので、第9回の誌面版(3/15に発売済)をWEB版前編としても公開しつつ、それに続くWEB版中編・後編として、ここからの話を進めます。復習すると、前編では80年代半ばから一部に拡がった「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」を紹介し、それが入替可能性による孤独(による尊厳喪失)・の体験加工としての退屈・としての「つまらなさ」だと分析しました。

「仄暗い雲のようなもの」の大元は「相手は誰でも良かった」&「自分でなくても良かった」という入替可能性です。哲学(ソール・クリプキ)の言い方だと、その人がいなくなると世界(総ゆる全体=可能世界集合)の同一性が失われる固有名・としてでなく、その人がいなくなっても同じ述語(属性の束)を持つ人に入れ替えれば世界の同一性が保たれる一般名・として相手や自分が認識された状態です。

そこには「誰でもいい扱い」をされて来た者が「誰でも良かった」と人を殺める無差別殺傷事件と共通の背景があります(無差別殺傷には対象が「属性無関連に誰でも良かった」単純無差別殺傷と「ムスリムなら・知識人なら誰でも良かった」の類の条件付無差別殺傷があります)。性愛の局面では、僕ら世代の複数プレイと、昨今の複数プレイの違いが、入替可能性問題の本質を象徴します。

僕の世代(新人類世代)に限れば、スワッピングswap(夫婦交換・恋人交換)とオージーorgy(乱交)の違いです。「限れば」というのは、下世代になるとスワッピングが名ばかりで実質オージーに近づくからです(後に詳述)。スワッピングは80-90年代が隆盛で、僕ら世代が中心で僕自身も参加していましたが、ケータイ化と並行して01年までに不可視化し、やがて廃れました(その理由も後述)。

改めて言うと、互いの入替不能性に支えられた眩暈に満ちた性愛の、綺麗事ではない生々しい具体を知りたいという読者の要求に応じつつ、「愛の深さ」とはどういうものかを伝えるのが今回の目的です。ハードルの高さに拒絶反応を示さず、記述に登場する各主体に「なりきって」聞いて下さい。スワッピング(以下SW)自体ではなく、「交響する多視座」の実装を奨励するものです。

読者世代には、「複数プレイ」の名でオージーに参加経験のある人が、僕の世代よりも多いはずです。オージーには賢者モードが付き物で、性欲が収まると「自分はなぜここに?」と冷めます。対照的にSWは愛を強める営みで、事後の「お清めSEX」で2人が「同じ世界で一つになる」。本質は代々木忠の初期AVに如実で、他の男達と性交して飛ぶ妻の姿に、夫が感動して拝跪します。

僕は代々木忠・村西透・カンパニー松尾・バクシーシ山下など初期AV(86年から十年間)の監督達と懇意で、現場も見ています。代々木作品はドキュメンタリーです。演出によるこしらえものだと遣り過ごしたがる向きもありますが、現実そのもの。稀少な現実なので撮影された夫婦(カップル)の四組に一組しか作品化されません。稀少であれ僕自身がSWの現場で体験してきたことです。

男達との性交中に夫に手を握られる妻は、男達を夫の分身と感じつつ飛ぶ。夫は、そんな妻に拝跪し、男達の視座から妻に新たな欲望を抱く。妻は、男達との享楽を夫に抱擁されて夫を超越化する。そこには「女が飛び、男は女の翼で飛ぶ」非対称があります。非対称性は大脳生理学者大島清による女優数人と男優数人の性交中のα波測定で実証されています(代々木忠『プラトニックアニマル』1992)。

『ダヴィンチ』00年9月号スワッピング特集で記した通り(https://is.gd/ficNaM)SWの動機は3つ。①痴話喧嘩は愛ゆえの嫉妬によると共に反省、嫉妬を愛の燃料にしようと企図(5割)。②マンネリによる浮気がマンネリ化し、どうせなら愛する相手との非日常の回復を企図(4割)。③「二人寂しい」若い夫婦が社交を企図(1割)。なおSWには恋人男女も参加するので適宜読み替えて下さい。

またSW夫婦は「同室プレイ→別室プレイ→貸出プレイ」と進化します。別室プレイは夫婦が互いに別の相手(達)と見えない別室でプレイする。貸出プレイは妻だけが別の男(達)と別室でプレイし、夫は応接間で黙想する。やがて貸出プレイは、テレクラや伝言ダイヤルで相手を見つけて出かける妻を夫が見送って「お清めSEX」での事後報告を待つSWサークル抜きの営みに進化します。

夫婦ごとの様々な事情次第で互いの感情や恋愛模様は多種多様に見えて、正式に調査すると参加夫婦の動機や進化には少数の定型しかありません。幾度も参加した夫婦はそれを知っています。自分達と同じような夫婦がこんなにいて型を反復している。「人とはそういうものだ…」と業のように感じます。だからSWの現場には「悲しいような愛おしいような」微妙なダルさが漂うのです。

という言い方もうまくない気がします。「めくるめく眩暈を享楽している」視座と、「ふと我に返って悲しいような愛おしいようなダルさを味わう視座」が、重なり合う雲のように交錯します。無論、オージーの賢者モードとは別物です。ここから先に話すことも、めくるめく眩暈を享楽させる営みでありつつ、しかし、悲しいような愛おしいような微妙なダルサを感じさせる定型です。

さて、先の貸出プレイもその変形(お見送りプレイ)も、本質は意図的な不完全情報化です。女が男と何をしたのか分からなくするのです。事前に「縛りNG」「生NG」などを申し渡すのも、事後の「お清めSEX」のためです。「どんなSEXした?」「△△した」「決まり守った?」「はい」「正直に言ってよ」「本当は××しちゃった」「それだけ?」「怒らない? 実は○○もしたよ」……。

小出しにする度に夫が興奮するのに釣られた妻が「◎◎もした」と盛ります。眩暈しつつ夫は「さすがに嘘だ」と返しますが、虚実不明。「虚実のあわい」ゆえに眩暈に彩られた「同じ世界」で二人が「一つになる」。AVで流行のNTRは、「お清めSEX」が醸し出す「虚実のあわい」を、欠く頽落です。そうでなく、最も眩暈するのは、妻が何もしなくても成り立つ虚実のゲームです。

虚実の皮膜で「同じ世界で1つになる」時、夫婦は自分達が複素数空間を生きるのを自覚します。加えてかつて痴話喧嘩の種だった過去の相手の浮気話も、「お清めSEX」での虚実不明な申告と等価だと気付きます。「あるといえばある、ないといえばない」。二人が虚実の複素数空間を生きられるのは、関係の履歴ゆえ相手が入替不能となり、過去を想像(妄想)するからだと気付きます。

先の応用プレイを含めてSWを数年続ける男女のSW頻度は年平均3回。理由は非日常性の継続です。当事者は祭りと同じ頻度だと言います。これは重要です。祭りの目的は日常の「力」の回復だと連載で言いました。SWも同じ。「相手の輝き(ゆえの自分の輝き)」の回復です。別室プレイや貸出プレイが終っても、数ヶ月は「あの話だけど…」と「お清めSEX」が可能なのもあります。

妻の「本当は××しちゃった」は、〈最初は〉男達との流れに飲まれた自然過程です。夫は、流れに飲まれた妻に「なりきり」、抑え切れなかった「妻の欲望」を自らの内に再現します。同じく夫は、流れを作った男達に「なりきり」、妻への「男達の欲望」を自らの内に再現します。夫は「妻の欲望」と「男達の欲望」へと多視座化します。だから「相手の輝き(ゆえの自分の輝き)」が回復します。

AVのNTRは只のフェチ趣味で多視座化を欠きます。多視座化があってこそ、事後の「日常の妻」が輝くのです。多視座化は妻にも生じます。妻は夫が「男達の欲望」を内に再現できるのを知ります。だからSWに参加した妻達は「男達を夫の分身だと感じる」と言います。夫は、妻と男達に「なりきる」。妻は、妻と男達になりきった夫に「なりきる」。謂わば「交響する多視座」があるのです。

──スワッピング(SW)は、そうした営みだったのですね…。乱交のようなものだと思っていたので、本質が違うということを考えたこともありませんでした。そうしたスワッピングがサークルとして90年代にはたくさんあったということにも驚きました。「なりきる」とか「多視座が交響する」とかは、私には考えられない営みです。スワッピングがたくさんあったとすると、似た営みが他にもあったんですか?

宮台 SWの本質を知る男女は様々に応用展開できます。オートロックのないラブホで性交中、他の男達(SW仲間等)を侵入させて参加させます。夫は途中からわざとシャワーに発ち、男達に委ねます。妻は夫がどこまで了解済みか不明だし、夫はシャワー中に妻が何を体験したか不明です。妻の夫への信頼と、夫の妻への信頼と、夫婦の男達への信頼だけが、不完全情報を耐えさせます。

先の貸出プレイの応用もそう。85年来、テレクラ→伝言ダイヤル→O2→iモード出会い→SNSやマッチングアプリの流れがあります。これらを用いて妻に相手を探してもらいます。相手の男には妻が単独だと思わせます。男が決まったらカフェで待ち合わせ。夫も妻の近くで他人を装って待ちます。相手の男が来て妻と店外へ。夫は2人を尾行。ラブホまで見届け、カフェで待ちます。

妻が何をされているかを思うと夫の胸は張り裂けます。無論夫婦は事前にNGを決めてあります。「お清めSEX」の「本当は何をしたプレイ」のためでもあるけど、心配です。時間は2時間の約束です。でも妻は(意図して)時間を守りません。予定時刻を30分延び1時間延び……悶々とする夫の前に妻が現れます。妻の陰部をそっと触って事実のかけらを確かめると、妻は極度に羞じらいます。

90年代半ばまで夜の代々木公園・新宿中央公園などは「覗き」のメッカでした。多くの男女はペッティング止まりですが、SW慣れした夫婦は性交までして「覗き」を参加させます。「覗き」は性交までしないのが掟。それでも充分にめくるめく眩暈を享楽できます。時にはSW仲間や、当時は既にインターネットがあったので「臨時仲間」を見繕い、性交に参加させることもありました。

当時ネットは濫觴期。アットマーク以下が大企業名や大学名が多く、所属を信頼して初対面者も混ぜました。そこでも不完全情報化が使われます。夫は妻に伏せておきますが、段階が「覗き」を越えて進むと、さすがに妻も仕込みだなと気付きます。それでも妻は気付かない素振りで、「あなた、いいの?」と目で問います。夫婦は不完全情報ベースでの虚実皮膜の共同演出家なのでした。

公園では偶発的SWもありました。抱き合ってキスやペッティングをする2組の夫婦が次第に近接するのが合図。最接近すると、夫達は妻達を間に挟み、妻にキスしつつ別の女を愛撫。自然な流れで妻達を入れ替え、夫婦が互いに別の相手と目前で性交しました。仕込みはありませんが、近接する過程で人相と身なりを観察し合い、近接をやめなければ合意がなされたことになります。

 

交響する多視座を実装できない若い世代

──先ほどおっしゃっていましたが、80年代から90年代まで盛んだったスワッピング(SW)は、夫婦だけでなく、恋人同士も参加していたのですね?

宮台 はい。ただし80年代に20歳代で90年代に30歳代だった僕の世代(新人類世代=60年前後生まれ)が中心の担い手でした。『ダヴィンチ』の協力で当事者に調査目的を告げてSWを調査をした90年代末だと、非婚の恋人同士でも、既婚の夫婦と同じく30歳代後半だったことに注意が必要です。そこで、改めて再確認すると、以上の記述に出て来る「夫婦」という言葉は「非婚男女」も含みます。

再確認します。第一に、SWとその応用は、信頼はもとより、「真に愛し合う同士」にだけ開かれた多視座性・を前提とした享楽です。「カレシがいるけど愛が薄い」昨今の若い読者の殆どには不可能だし、まして今回のSWの記述に湧くようなクソフェミには無理です。第二に、SWでは、まず男でなく女が享楽に咽ぶのが条件です。「女が飛び、男は女の翼で飛ぶ」が全てを貫徹します。

オージーにない多視座を確認します。夫は妻に「なりきり」、抑え切れない「妻の欲望」を自らの内に再現し、また夫は男達に「なりきり」、妻への「男達の欲望」を自らの内に再現します。妻は、夫が「男達の欲望」を内に再現するのを感じて男達を夫の分身だと思います。また妻は、夫が「妻の欲望」を内に再現するのを知って夫が「全てを承認する存在」として他の男達全てを超えた存在になります。

かくて妻が「飛ぶ」のを見た夫は、立ち会い出産で赤子を眼前に掲げられた時と同様、「聖なるもの」を体験します(力が湧き出す非日常の時空が「聖」、力を使って減る日常の時空が「俗」)。かかる相互超越化を支えるのが「交響する多視座」。「交響する多視座」に不可欠なのが「相手の享楽が直ちに自分の享楽になる態勢」。「相手の享楽なのか自分の享楽なのか識別不能な状態」です。

連載初期から話してきた散歩は、性愛に於いて「同じ世界で一つになる」営みの初歩的な形です。他方、今回話したSWは、性愛で「同じ世界で一つになる」営みの究極的な形(の一つ)です。性愛で「同じ世界で一つになる」営みは、この両極の間にスペクトラムを成します。後者の営みは、前者と違い、主体が消えて「一つのアメーバになる」ことです。日常では想像しがたい体験です。

昨今の「テンプレ系=退却系・インスタ性愛系・肉食系」は、残念ながらこのスペクトラム上に乗っていません。「交響する多視座」の中で主体が消えるどころか、キャラ&テンプレ(=カテゴリー&ステレオタイプ)に縛られて、社会の奴隷としての(神経症的)主体=「言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン」になり下がっています。「性愛の時空」が「社会の時空」に従属しているのです。

ちなみに、「男の欲望を惹起するものは敵だ」「風俗労働は人格破壊だ」「AV嬢は性被害者だ」のように、「男の欲望を惹起するもの」「風俗労働」「AV嬢」等のカテゴリーに、「敵」「人格破壊」「性被害者」等のステレオタイプを結合して恥じぬ者は、定義的に差別者ですが、これら差別者は例外なく、キャラ&テンプレ的な性愛を生きてきた「心貧しき者」だと論理的に言えるのです。

連載では、〈祭りのセックス〉と〈愛のセックス〉の重なりで、最大の眩暈を享楽できると言いました。抽象的過ぎる物言いでしたが、今回紹介したSWとその応用的な営みが具体像になります。散歩の事例が「綺麗事」とお叱りを受けたように、〈祭りのセックス〉と〈愛のセックス〉の重なりという物言いにも「抽象的で意味が分からない」とお叱りを受けました。改めて謝罪致します。

 

スワッピングが若い世代を排除した理由

──ご自分の豊富な経験も含めて言葉にしていただいているので、印象的で、とても説得的です。でも、そうであるほど、私たちには無理だと感じてしまいます。どうしたら豊かな性愛を生きられるかという問いに、かつての強烈な営みを答えとして持って来られると、正直引いてしまいます…。

宮台 承知の上です。SWを持ち出す理由は三つ。第一に、テンプレ性愛が如何に劣化しているか気付いてもらいたいから。第二に、SWを実際に営むことよりも、営みに必要な条件 ──相手の感覚を自分の感覚として感じる「なりきり」やそれを前提とした「交響する多視座」── を実装してほしいから。第三に、読者の一部に少数ながらSWや応用的な営みが出来るようになった女子がいるから。

そのように言うと勇気が出ませんか。「なりきり」や「交響する多視座」を実装するだけで、浅ましいソクバッキーや痴話喧嘩の「外に出る」ことができるのだから。連載で「コクってイエス」で付き合ってることになって相互所有権を主張し合うのは滑稽千万と話して来ました。「そう言われてもどうすれば…」と感じた読者にとって、この「外に出る」ための作法は福音であるはずです。

以下、SWにおける若い世代の劣化を実例で話します。紹介したSWとその応用は、乱交やNTRの独りよがりで孤独な「フェチ臭」とは別物で、深く愛し合う二人だけが営む尊い営みです。「それゆえ」90年代末から若い(自称)恋人男女を閉め出す動きに繋がりました。愛が薄過ぎ、彼らのSWが「セフレ男女が互いに合意して乱交に参加するが如きショボイ営み」に頽落したからです。

当時の優良SWサークルは「女神の唇」と「グリーンドア」。事前面接で愛の深さを確認して参加を認めました。当初は、男が商売女を伴って乱交目当てで参加するのを抑止するためでした。それがやがて、愛が薄い若い(自称)恋人男女を排除するためのものになりました。正確には、自然にそうした機能を果たすようになり、それが主催者や参加者に自覚されるようになったのです。

そして、それまであり得なかった事件が起こるようになります。愛の薄い若い(自称)恋人男女が情報漏洩する事態が頻発しました。実例です。『ダヴィンチ』取材者として現場にいた時、「取材された妻があなたとの関係を望んでいる。叶えてあげてくれ」と頼まれました。「女神の唇」主催者と編集者横里隆に相談。主催者が「取材を中止し、この瞬間から参加者になる」と告知しました。

頼んで来た夫は、妻がベッドルームで性交する間、パーティルームでソファに深々座り、ドンペリをあけながら目を閉じて上を向いていた人。僕が「最も正しい参加者だ」と感じ、「心の深み」を伝えてくれた人です。返礼の意味もあって彼と妻の望みを叶えようと思い、取材を中止し、彼の望みで目の前で、彼の表情を眺めつつ妻を導きました。素敵な時間で、主催者にも周囲にも感謝されました。

ところが「宮台が『取材と称して』参加した」とのデマがネットで拡散されます。その五年ほど前、『噂の眞相』の「一行情報」で「都立大助教授M、地方テレクラ取材と称して女子高生とやりまくり説」なるデマが書かれたのを真似たのでしょう。ちなみに数百人を取材してそうしたタレコミが一件もないことを『噂の眞相』川端幹人副編集長が驚嘆していたという事実を、念のために申し添えます。

さて「女神の唇」主催者夫婦がデマの拡散に激怒。ネットの発信源を突き止め、若い参加者を制裁しました。同時期、SWに若い(自称)恋人男女の参加でトラブルになる事態が頻発します。典型は、若い男が脳内で性的興奮を想像して(自称)恋人の女を説得してSWに参加した事後に2人きりになった途端、「普段は出さない喘ぎ声を出しやがって」と激昂して暴行するようなケースです。

それについても経験があります。テレクラで会った若い主婦にSWの話をしました。それを夫に伝えたという彼女から、「夫があなたとの性交をケータイで音声実況してくれと言ってる」と頼んできました。ところが実況中、ケータイが電池切れしたことに気付きませんでした。帰宅した彼女から「夫にボコられた」と泣きながら電話がありました。僕が夫に話して宥めたのですが、正直とても驚きました。

数多のトラブルの中でこの話を記憶する理由は、たとえ事故であれ、実況中断がSWの「お清めSEX」に定番の「不完全情報化」の機能を果たす筈だからです。「正直に言ってよ」「実は○○した」「それだけ?」「◎◎もした」という例の遣り取りで、虚実のあわいで「同じ世界で一つになる」営み。夫が「妻を所有物化するフェチ野郎」である可能性を、考えなかった自分を反省しました。

ことほどさよう、SWに参加しても、「交響する多視座」を通じて「一つのアメーバになる」ことで「取り替えが効かない関係」を構築することが、全くできない若い男女達。「こいつら恋人と言えるのか」ということで、この種の体験を機に「感情的劣化」という言葉を使い始めます。ちなみに、96年が性的退却元年・援交変質元年・セクハラ元年・ストーカー元年だった話は既にしました。

SWだけでなくオージーでも若い男の性愛の「感情的劣化」をつぶさに観察できるようになりました。乱交パーティの現場で、女達の享楽に無頓着に欲望を表す「汁男」みたいな若い男達が急増したのです。しかし、そうした事態を抑止しようと努力する優良な常設乱交パーティは少数で、そうした常設パーティ群は、だいたい同一の卓越した主催者達によって営まれていました。

 

乗り出せる女子と乗り出せない女子の違い

──私と同世代の男性だったら所有欲が強くて、宮台さんが軽蔑するような振る舞いをするのが普通だと思います。そうじゃない男性なんていないんじゃないでしょうか。

宮台 かもしれません。ここで若い読者に考えてほしいのは、こうしたSWをたとえ実践しなくても、「なりきり」や「交響する多視座」が与える至福を想像できるかです。大学生女子を観ると、05年ぐらいから、複数プレイやSMプレイなどの経験者が絶対数としては増えます。でも連載で話した通り、カレシが喜ぶからするだけで、自分からしたい訳じゃないと語る女達だらけになります。

そこに女達の欲望がなく、だから女達の眩暈もありません。僕は「女が欲望を言わなくなったから」と分析してきたけど、少し修正します。深い愛ゆえの関係性ベースの欲望が消えたから、欲望を言わなくなっただけ。だから、若い世代がSWを真似るとオージーに近づいてしまいます。要は、相手を入替可能化するフェチ的な営みで、相手に「なりきる」ダイヴ的な営みではないのです。

前に話した概念を使うと、SWは「愛の営み」で互いの「ダイヴ系フュージョン」です。オージーは互いの「フェチ系コントロール」です。前者の「飛ぶ女」へのリスペクトが、後者にはありません。「ダイヴ系フュージョン」は「フェチ系コントロール」とは眩暈の度合が違います。だからこの十数年の若い女子に経験者が増えた○○プレイは、落涙や過呼吸や記憶脱落を伴わないのです。

「ダイヴ系フュージョン」は「フェチ系コントロール」と違い、感情に負担を掛けるので激しく疲労します。そこで注がれているエネルギーは愛に由来する「贈与」(捧げ物)です。「フェチ系コントロール」は、掛けたコストに見合う回収をおこなう「交換」に過ぎません。バタイユ的に言えば、「ダイヴ系フュージョン」は蕩尽consummation。「フェチ系コントロール」は単なる消費consumption。

最近でもそんな「強い愛」を実践できる女子が僅かにいると言いました。それを話します。退却系に見られるように女子の多くが「つまらない恋愛ならしない方がマシ」と思うようになったのは福音です。実際それが女子の性的退却の理由になっています。でも全ての恋愛がつまらないと考えているのは残念です。他方、男子は性的退却の理由にコストパフォーマンスの低さを挙げます。

ざっくり、女子の退却理由は「つまらないから」で、男子は「先が読めないから」です。男子が望む「先が読める恋愛」はあり得ませんが、女子が望む「つまらなくない恋愛」はあり得ます。だから、女子の構えにだけ希望が持てます。とすると、「つまらなくない恋愛」(先に話した「強い愛」)を実践する若い女子達の、過去20年間の聞き取りから見て取れる傾向はどんなものでしょう。

「つまらない恋愛」の概念を手にするのは両親や友人の体たらくを見るから。女子が男子より漫画などを通じて「つまらなくない愛」を願望するのもあります。「つまらない恋愛ならしない方がマシ」と思った後に二極分解します。①恋愛に期待を失う退却系と、②「つまらなくない恋愛」を諦めず「試そう」とする試行系です。なおテンプレ系=退却系・インスタ性愛系・肉食系でしたね。

試行系には、幼少期に親の離婚や極端な不仲を経験し、「そんな関係は嫌」と思った女子が目立ちます。退却系には、かかる不幸がないからこそ「両親はスカスカだけど多分普通」と思った女子が目立ちます。彼女達は、これが現実だと想像した期待水準に合わせて願望水準を下げます。ちなみに「両親が深く愛し合っていると思うか」にイエスと答える大学生は4割・ノーが6割です。

──親がラブラブだという話は周りでも聞きませんね…。育ち方から考えても、私たちの世代は「なりきり」と「交響する多視座」に支えられた「ダイヴ系フュージョン」が難しいということでしょうか。

宮台 そうでもないです。親の離婚や不仲を経験して「そんな関係は嫌」と思った女子の多くも退却系になりますが、一部は「そんな関係は嫌」だからこそ諦めずに試行系になります。試行系になるのは、中高生で男子にモテた経験から「諦める前にちゃんと試そう」と自覚した女子が多い。「試そうとする構え」は、「失敗を恐れない構え」と、それゆえに「無理筋を恐れぬ構え」を伴います。

だから相手に妻や恋人がいても、上司部下や教師生徒の関係でも、年齢差が大きくても、試そうとする。すると規範らしきものを所詮タテマエだと無視せざるを得ず、昨今の若者の「社会(言葉・法・損得)への閉ざされ」にもこだわらず「社会の外」に出易くなる。そこには家族の不幸が恋愛を可能にする逆説があります。離婚の世代間伝承の統計もありますが、ミクロには逆もあるのです。

周囲が後ろ指をさす関係に挑戦するので、カレシ・カノジョというキャラに結合した人畜無害さからも自動的に遠ざかります。公認キャラを演じにくい分「キャラから関係性へ」と離脱しやすい。他方、キャラと結合したテンプレ系(退却系・インスタ性愛系・肉食系)は、傷付かないための「中二病」です。実際、中ニの恋愛は、一緒の下校、手繋ぎ、贈り物のやりとりなどへの憧れに始まります。

中二的な憧れと五十歩百歩のテンプレ・デートの反復が、「自分じゃなくてもいいんじゃね?」的に入替可能な、「つまらない恋愛」に若い人を閉ざします。ちなみに業者介在型の初期パパ活や彼女代行もテンプレ・デートの商品化です。コクってイエスの相互所有と「他の男(女)と話すな」的痴話喧嘩。この中二的に幼児化した感情的劣化から、クソフェミ的「言葉の自動機械」も生じます。

18年前に妻と結婚した際、援交を賞揚しながらクリスチャンのお嬢様と結婚かと三浦展がディスりました。大澤真幸氏が直ちに、深い性愛には外から伺い知れない関係性がつきもので外見から評するのは浅ましいと評しました。妻にも様々な過去があって当たり前。「クリスチャンのお嬢様」というキャラにテンプレを当てはめた頓馬です。芸能人不倫報道に激する頓馬達も同じです。

95年に『テレクラという日常』として出版予定だった本は今回話したことが基本線でした。予告篇として「青森のテレクラ少女たち」が同年『創』に掲載されました(『まぼろしの郊外』収録)。でも出版はやめました。予告篇公開後に中高生フェチが青森に集結したという倫理面もありましたが、実際、97年末から鬱転した一つの背景がそれでした。

95年初頭には録音データの文字起こしを大量に抱えつつ筆が進まずに悶々としていましたが、3月にオウム真理教による地下鉄サリン事件が起き、書きたいことの半分は偶然調べていたオウム信者らの参入動機を書けば済むと考え、『終わりなき日常を生きろ』(速水由紀子と共著)を6月に緊急出版。予定していた本の上梓を取りやめました。

「終わりなき日常」という言葉は『テレクラという日常』のために発案したキーワードです。今回そこで書いたはずの論点を掘り返した理由は、①「女子から力を奪う仄暗い雲のようなもの」によるダメージの記憶が遠くなったから。②ダメージを受けた30歳代半ばの自分のナイーヴさが克服されたから。③当時は語彙力がなくて思いを表現できなかった処方箋を書けるようになったから、です。

ちなみに問題を感じていた語彙力を強化するために僕がしたことは四つ。①映画批評を仕事にすること。②精神分析学を学ぶこと。③人類学を学ぶこと。④進化生物学を学ぶこと。映画の話は第8回でも今回の第9回でもしました。第8回では前意識と無意識の関係について精神分析学から語りました。第9回の「なりきり」と「交響する多視座」の概念は人類学に由来するものです。

後編につづく