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性愛に踏み出せない女の子のために 第8回第二部 中編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第8回第二部 中編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。今回で第8回をむかえますが、二部に分けて、WEBで発表いたします。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第8回第二部は、中編として、「自己像の悪さの由来を探す」「感染する相手を見つける」についての話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


中編
「自己像の悪さ」の由来を探すこと


──自己肯定感が低くても、それを受け入れたら楽というか、努力しなくていいので、そうなってしまいがちですよね…。私は、人前に出ることが嫌でした。他人の目を気にしないでやれば良いのに、それが出来ないから、もう何もしないでいいや、と思った部分もあるし、逆に「やっぱり、誰も気にしていないから、出たってどうということはない」と、行動できる自分もいます。受け入れている自分が半分、飛び出ようとしている自分が半分でしょうか。

宮台 こもるより飛び出る方が考えるべき材料が経験から得られるから良いです。でも考えるべき材料を得るには経験に違和感を感じる必要がある。なのに多くの女子がテンプレ化していて違和感がないことにしています。復習すると若い女子は臆病系と肉食系に両極化した中間にテンプレ系がいて「私じゃなくてもいいんじゃね?」的なデートと性交をします。

正確には臆病系も肉食系も、デートや性交のテンプレ的イメージに反応して退却化・過剰化しているので、3類型全て広義にはテンプレ系です。それを踏まえて両極の間にいるのを狭義のテンプレ系と呼びます。以下で話すテンプレ系はそちらです。テンプレ系の目印はマッチングアプリの利用です。出会いの8割がマッチッグアプリという統計もあります。

典型的イメージを言います。見た目に気を遣い、化粧にスキがなく、容姿に問題はありません。イケメン好きで、普通は耐えられない所業もイケメン相手なら耐えられます。でも長続きせず、一か月プラスαで別れます。「深く好きになられると嫌になる」というセリフをよく吐きます。前にトー横界隈の特徴として話したけど、背景に幾つか要因があります。

先ず「関係性よりキャラ」。関係性に耐えられないのです。96年頃から「KYを恐れてキャラを演じる」構えが関係一般に拡がります。だから性愛の話・政治の話・本当に好きなものの話がタブーになる。「本当に思うこと」を否定されたくない。相手が「本当に思うこと」を語ってもどう反応すべきかが分からない。これが関係性忌避のクセを育て上げます。

次に「自己像が悪い」。前に話した僕の3回の大規模統計調査では、自己像が悪いと「引きこもる」か「相手に合わせるか」になります。自己像が悪いまま性愛に乗り出すと本音を語れず話を合わるので、ストレスがやがて限界を超えます。本音耐性がないので、本音トークの段になると相手や自分の本音がノイズだと感じられます。だから長続きしません。

別れる前も特徴的。自己像が悪いので、優しくされたり褒められたりお洒落スポットに連れられたり…等の表面的ホスピタリティを承認印として求めます。これが中2のテンプレデート。今見えている自分の承認を絶えず欲しがるのは自己像の悪さゆえの承認中毒で、四半世紀前はアダルトチルドレンと呼ばれましたが、今は普通なので呼称が廃れました。

テンプレデートをする人も、無意識では「入替不能=快/入替可能=不快」の二項図式がうごめきます。付き合いたての非日常がそれを覆い隠してくれますが、長く付き合うと非日常性が薄れて二項図式が意識へと前景化します。それも長続きしない理由です。でも「どうせそんなものだ」と認知的整合化を図り、温度の低い関係をダラダラ続ける場合もあります。

こうした「自己像が悪い」人の特徴は「今のあなたは偉い」「今のあなたのままでいい」的な自己啓発本が大好きなこと。意識が絶えず自分に向くので相手の心を──まして無意識の二項図式を──観察できず、「同じ世界で一つになる」体験はありません。意識が絶えず自分に向く状態が「自己像の悪さ」の目印。意識高い系の多くも「自己像が悪い」のです。

斎藤環氏が「自傷的自己愛」と呼ぶ現象にも注意したい。『サブカルチャー神話解体』で「諧謔から韜晦へ」と記した通り、「どうせ自分は…」という構えに固執する「自己のホメオスタシス」が90年代からオタク界隈で目立ち始めます。その特徴は「否定的自己像」の脱却を望まず、それに固執して世界像を構築、他責化による敵味方図式に粘着することです。

一般には、どうせ自分はモテないと決めつけて理由を他責化する「インセル(非自発的禁欲者)」現象に引きつけて理解されますが、実は「関係性よりキャラ」のテンプレ系女子にも同じ構造があります。「自分の内面が暴露されたらモテない」と決めつけ、相手が内面に入って来た途端、「相手がノイジーな挙に乗り出してきた」と他責化して別れるからです。

こうしたテンプレ系女子の延長上にトー横界隈に目立つ「地雷系」があります。テンプレ系だから関係が希薄です。その不全感の埋め合わせで、ワザと他の男と寝たことをバラすなどして時には刃傷沙汰にも及ぶ痴話喧嘩を引き寄せます。その営みは当人に自覚され、Twitterで「マイメロ系」を自称するアイコンやツイッター名を使う。前に話しましたね。

「関係性よりキャラ」を克服しない限り、引きこもりから「外に飛び出し」ても、①マッチングで取っ替え引っ替えする、②低体温のカレシカノジョをダラダラ続ける、③それがつまらなくてワザと地雷系の振る舞いをする、などのテンプレ系に堕落します。それを外から見た女子の一部が、性愛に乗り出す前に「それなら性愛はもういいや」となるわけです。

前編で話したアファメーション系の出鱈目コーチングが蔓延するのも、否定的自己像によるニーズが背景です。会社にコーチングの導入を決める管理職自身が既に意識が絶えず自分に向く状態だから疑えないのです。ちなみに「自己像が良い」人はそれを意識するわけではなく、ゼロ年代からの僕の言い方では<自分探し>ならぬ<世界探し>に乗り出します。

それで言えば、あなたがいう外に飛び出ようとする自分が、<自分探し>系なのか<世界探し>系なのかを意識するべきです。僕の定番の物言いでは<自分探し>の延長上で持続的な「肯定的自己像」が見つかることは論理的にありません。ルーマンの自己強化モデルを紹介しましたが、<世界探し>を続ける内に自己信頼(自己効力感)が自動的に高まるのです。

ピースボートに幾度か乗船して驚愕したのは、今世紀に入ると途上国中心の世界一周の旅をしても<自分探し>に固着する若い人だらけになったこと。彼らの特徴は既存の自己像(自己物語)にとって好都合な材料ばかり探すこと。平穏な日本で温存された(否定的)自己像から物を見るので、想定外のトラブルが成長に繋がらず、現地が嫌いになって終わります。

以上を踏まえて言うと、あなたに必要なのは「外に飛び出す」前に「自己像の悪さ」の由来を探索する営みです。ほぼ全てが親子関係、特に女子は母子関係に由来する神経症的不安です。フロイトによれば神経症的不安は親(の姿)による抑圧がもたらすトラウマが原因です。「あれは良い/これは悪い」という抑圧が子に「自己像が悪い」のラベルを貼ります。

これは、自己啓発本や出鱈目コーチング以前に、精神分析を含めたカウンセリング案件です。そこでは否定的自己像の原因を本人に「思い出させ」、親の物差しによって貼られた「あれは良い/これは悪い」のラベルを一度は全て剥がす必要があります。一部を剥がしても無意味なのは、「あれは良い/これは悪い」的なラベルが全体で一つの意味論だからです。

意味論とは「概念と命題のワンパッケージ」で社会システム理論の最重要概念です。ラベルの全面的引き剥がしは苦しい。いったんは家族を否定することになるからです。だからラポール(父への愛の類似物)が要ります。ここでの父は信頼して委ねられる強い存在です。でもコンプライアンス的約束に過ぎず、フロイトやユングは重要な患者を愛人にしました。

だから恋人への愛もラベルの全面的引き剥がしを耐えさせます。僕も精神分析を激しく学んで恋愛相手のラベルを全面的に引き剥がした経験があります。成功して「同じ世界」に入れるようになったけど、想定した副作用がありました。親に合わせようとして貼られたラベルを自覚して剥がす営みが、親に合わせるのを不可能にし、親子関係が切れたのです。

──読者にも、母親から強烈な「良い/悪い」の価値観を押し付けられて、困っている人がいます。でも反発はしないんです。母親が嫌いではないからと受け入れているようです。

宮台 先のラベル引き剥がしの過程で再確認しましたが、母親に否定的自己像を刻印された娘は、母親に依存して「自己のホメオスタシス」を保ちます。ママをちゃん付けの名で呼ぶ。ママが言うことを全て間に受ける。ママがけなした男とは別れる。テンプレのデート場所をママに教えて貰う。これで「関係性よりキャラ」にならない方がむしろ不思議です。

再確認したと言ったけど、援交取材の過程で90年代半ばまでに気付きました。それで97年の『まぼろしの郊外』に書きました。昔から子の営みのあれこれにラベルを貼る親はいた。でもかつては親以外の大人達と親しくなって、親よりロールモデルになる人を見出せた。僕の場合、同級生の組員の親や、GE極東支配人と広告写真家の二足のわらじの伯父でした。

これは前に話した「避難所」に似ます。「親が知らない界隈を自分は知ってる」「親が推奨する作法は閉ざされた界隈で通用するだけ」「なのに自分を抑圧しやがって、この野郎!」という感覚を持てたのです。それが反抗期を可能にした。いま中学生の7割に反抗期がないのは、「家族の外」がない分、①反抗動機を持ちにくく、②適応圧力が高まるからです。

抽象度を上げると、「外がない」ことで①反抗動機を持ちにくく②適応圧力が高まるメカニズムは、どこでも見つかります。第一部で紹介したコロナ禍前に撮られた映画『ピンク・クラウド』も、ロックダウン常態化の中で育つ子が「外に出る」動機を失うことを描きます。加えて「外は未規定な奈落」という地球平面説的世界観を描いているとも言いました。

速水由紀子が「一卵性母娘」の名で反抗期を欠く母娘を描いたのが97年。性的退却や「KYを恐れてキャラを演じる営み」の開始時期と同じで、同時に過剰さを「イタイ」と称する営みと「いい人だから」という物言いも拡がる。この時想起したのは「あんたいい人、どうでもいい人」という79年の江戸アケミ(じゃがたら)「でも・デモ・DEMO」の歌詞です。

79年に「あんた気に食わない」から始まるこの歌を唱ったアケミは今に到るも僕にとって神です。「あなたは、いい人だから、どうでもいい人で、だから気に食わないので、すぐ別れましょう」という意味論は大衝撃でした。だから83年に最初のナンパをしてから、どうでもよくない人を探そうと様々な工夫をした結果、地獄にはまったことは次回に話します。

いずれにせよ、四半世紀前から「いい人だから」という物言いが蔓延します。「なぜカレシに?」と問うと「いい人だから」「やさしいから」と答える。80年代の悪戦苦闘を記憶する僕は「そんな男はクサるほどいるだろ!」と吐き気を覚えました。これぞまさに「自己像を温存するために認知的に整合化されたコンフォートゾーン」の典型だと感じたのですね。

「でも・デモ・DEMO」は「日本人って暗いね、性格が暗いね、暗いね、暗いね」というコーラス・リフが有名です。これは日本人が価値的貫徹よりも学習的適応を優先する事実を指します。現実的な期待水準に合わせて願望水準を切り縮めるヘタレぶり。アケミが唱う通り「いい人だから」という物言いは、そんな日本人の適応優位の暗さ・醜さを象徴します。

 

感染する相手を見つける

──良くない状況なのに、そこにいることを認めようとする。自己防衛なのですね。

宮台 それを飛び越える手軽で強力な一番良い方法は、感染する相手を見つけることです。感染はギリシャ語の「ミメーシス」です。摸倣と訳されてきましたが間違い。真似ようと思って真似るんじゃなく、踊る人を見ていたら気が付いたら自分も踊っていること。能動ではなく中動。だから僕は「感染的摸倣」と訳してきましたが、短くすれば「感染」です。

社会学にも似た概念があります。「ロールモデル」と「準拠他者」。ロールモデルは「お手本」ですが、モデリングしよう(真似よう)という能動です。準拠他者は、準拠集団の応用概念で、「なりきって、その人の視座から社会を見ること」ですが、気が付いたらそうしているので、こちらの方がミメーシスに近いです。でも、身体性の契機が欠けています。

ちなみに、分野横断的に学ぶと、目の前の事象を社会学ではぴったり記述できないのに、他の学問では記述できるということがあります。社会学には「主体の選択」という能動概念はありますが、「非主体的な自動」という中動概念はありません。能動active voice、中動middle voice、受動passive voiceは、バンヴェニストに由来する言語学の概念です。

社会学の専門知にこんな盲点があるのは、19世紀半ば以降に近代社会の記述を目的として成立したからです。だから文字を使う広域統治である文明社会(大規模定住社会ないし高文化社会)までは辛うじて記述できますが、以前の初期定住段階や遊動段階を記述できない。のみならず、近代社会でも、祝祭や性愛のような社会の外の緩衝帯を記述できません。

今日、各分野が近代社会の持続不可能性やその理由の分析を主題化していて、近代社会の外を適切に記述できる枠組みを競います。でも近代社会の自明性を前提にした社会学の概念枠組にはその性能がなく、記述の努力はあれ社会学の概念枠組を用いる限り不適切になります。なのに、社会学の概念枠組をはみ出すと審査付き学会誌で評価不能になります。

ルーマンによれば、アカデミックポジションを得るべく過去10年の業績を参照して学会主流に媚びた実証的モノグラフを積んで業績リストを埋める営みがそれを加速しますが、分野を問わず新たな分野が制度化された途端──分野ファカルティの成立──多かれ少なかれそうなります。60年代末に「社会学の社会学」を提唱したグールドナー以来の認識です。

しかし「社会学の社会学」がそれこそ社会学で制度化されることはありませんでした。自らの学的正当性を揺るがすので理解できます。ただしルーマンはそれに抗い、自己言及によって正当性が揺らぐのは社会学の理論枠組が未熟だからだとし、哲学に於ける50年代の言語ゲーム論を踏まえた社会システム理論のバージョンアップ版を70年代に展開しました。

ところで以上から推測できる通り、社会学の黎明期には近代は特殊だとの意識が強くあったので、ミメーシスを含意する概念が提唱されています。ウェーバーの「カリスマ」とデュルケームの「沸騰」。カリスマとは、凄い人が言うことなので思わず従う時の、凄さです。沸騰とは、個人や集団が輪郭を失う状態で、新たな秩序形成の出発点になるものです。

共通する特徴は両方とも「規定不能性」を定義要件とすること。カリスマは金力やゲバルトに「還元不能」な非日常的資質。沸騰は社会秩序に「還元不能」な渾沌に於ける高揚状態。共に社会「ではない何か」として否定神学的に示されています。否定神学とは「〜でない」という否定辞の連言(Aでなく&Bでなく&…)で、規定不能な神を示す記述法です。

これらは、近代以前の社会ないし近代社会の周辺に、社会=言葉・法・損得の時空では規定できない対象がある、との明確な意識を含みます。ロールモデルや準拠他者の概念にはこの意識がありません。ミメーシス概念はプラトンに遡りますが、別の場所で詳述した通り統治秩序以前的なもの──言外・法外・損得外のもの──という含意が込められています。

凄い・沸騰・社会外・規定不能…といった時空は戦間期にバタイユやアルトーによって「呪われた部分」「分裂病的体験」として再提起されました。他方、民族学者ヘネップが20世紀初頭に通過儀礼の分離・渾沌・統合3局面論を提示し、凄い・沸騰・社会外・規定不能の時空を第2局面として賞揚。70年代に人類学者ターナーがコミュニタス論として精緻化しています。

ミメーシス概念の学的背景を記しました。僕が言う「感染」が分かったでしょう。この人は凄い。圧倒的な力で吸い寄せられる。この人みたいになりたい。でもどうしたらそうなれるか皆目分からない。それが「感染する」ということ。お手本を習うのとも単に「なりきる」のとも違います。そこには、連載で話してきた「力の受け渡し」があるからです。

「力の受け渡し」とは何か。90年代前半、当時関わっていた教育改革(体験学習化)に絡めてこう言いました。学習について競争動機(勝つ喜び)と理解動機(分かる喜び)が取り沙汰されてきたが、最も強力なのは感染動機(感染して近づく喜び)だと。併せて、二人の師匠廣松涉氏と小室直樹氏に感染した僕が一挙手一投足を中動的に真似ていたことも。

お二人は極左と極右の違いはあれ、諸学に通じた博覧強記ぶりが共通します。お二人への感染がなければ、所属学問分野を超えて諸学を激しく学ぶことはあり得ませんでした。そこには合理的な目的手段図式(条件プログラム)はなく、そうしたくて堪らないという欲望(目的プログラム)だけがありました。僕は感染によって寝ずに学ぶ力が与えられました。

競争動機は勝てば終りです。全国公開模試で一番になった経験でそれを知っています。理解動機は、理解できなくても暗記しまくる営みを促しません。競争動機がそれを促しても勝てば終り。感染動機だけが際限なき学びを動機付けます。経験で知っています。「力の受け渡し」が分かりましたか。実はナンパ修行(正確には性愛修行)も感染で始まりました。

感染源は教育学者の丹下隆一氏。「不確定性原理」の塊のような人。一緒に歩いていても、幼児が一人でしゃがんで遊んでいれば近づいてしゃがみ込み、僕をそっちのけで仲良く遊びます。魅力的な女とすれちがえば外見の特徴からフィリピン人を装い、片言の日本語で道案内を頼んで、僕を置いてどこかに消えます。僕が週刊誌にバラしたエピソードも驚きでした。

彼は僕に録音テープを聞かせて「何だか分かる?」と尋ねました。それはデリヘル嬢を呼んで何分以内に身分証付きで本名を聞き出せるかの実験でした。いずれの場合も瞬時に不特定者と親密になれることに驚愕、感染しました。彼は言います。「都会は寂しいと言う。だが不特定者と簡単には仲良くなれないという前提に立つからだ。前提は間違いだよ」と。

丹下先生はなぜそれを僕に実地に示したのか。僕に何かを感じたからかも知れないけど分かりません。でもそれが僕の人生を変えました。それがなければこの連載はないのです。それで最初のナンパをしたのが83年。以降は年に何回かでしたが、85年にワイドショーが世界初の個室テレクラを扱って2時間後にはそのテレクラの105番目の会員になりました。

僕は丹下先生に「なりきる」ことで他の男達が信じてくれない頻度で女達に会えるようになりました。「ヤバイ人になる」とは、現状の自分とそれを支える社会的設定の外に最終目標を設定することだと言いました。でもそんな最終目標に臨場感を感じるのは難しい。でも凄い人に感染すれば、自己防衛を越えてぬるま湯のコンフォートゾーンから出られます。

──私の場合、今つき合っている人はそうかもしれません。性格や考えが違います。相手は自分の好きなものがハッキリしていて、それにすごくのめり込む。自分とは真逆でした。私は広く浅く好きになるので、彼が一つのことにのめり込んで夢中になっている姿は羨ましいと思いました。

宮台 彼を知らないから憶測で言うと、あなたが仰る「一つのことに沼る人」という程度であれば無数にいると思う。僕は「性愛に果敢に乗り出しつつ、他の人より圧倒的な願望水準を維持する」という意味で「外に飛び出せ」と語り、そのための自己防衛機制の克服を話しています。それには羨ましがるのでは足りず、感染が必要だと指摘しているわけです。

幾つかに分解します。第1に、羨ましい相手は「多数いる」が、感染源は「またとない」。第2に、羨ましい相手は「傍観で済ませられる」が、感染源は「思わず乗り出してしまう」。第3に、羨ましい相手は「前から感じる欠点を補いたい」気持ちに関わるが、感染源は「前は想像もしなかった別次元の存在になる」のを助ける。かなり違いますよね?

羨ましがる営みは、現状肯定の延長上で「そこそこの」ゴールを設定して、今の自分にやれそうなことをやるだけで、損得計算に留まる。感染する営みは、現状から遠く離れた「魅力的で輝かしい」ゴールの設定で、普通に考えたらやれそうもないことに向かう、損得を越える「力」を与える。前者に留まれば、親に刷り込まれた自己像に縛られたままです。

繰り返すと、「自己像を温存するために認知的に整合化されたコンフォートゾーン」つまり「自己像を引力とする現実的コンフォートゾーン」に留まれば、性愛に踏み出しても、母親や友達が承認する範囲での、キャラとテンプレゆえの「弛緩した快楽」に留まり、母親や友達の想像を絶した、清濁併せ飲む関係性ゆえの「比較不能な享楽」には届きません。

キャラならぬ関係性ゆえの比較不能な享楽に届きたければ、それをあなたが想像できない以上、論理的に考えて、「自己像を引力とする現実的コンフォートゾーン」から「感染源を引力とする想像のコンフォートゾーン」へと離陸する必要があります。ただしこの話の前提は、あなたがまだ見ぬ、関係性ゆえの比較不能の享楽を、強く願望していることです。

自己防衛機制(自己のホメオスタシス)の外に出るための最も容易で強力な方法こそ「感染」だと話したのを思い出して下さい。凄い人を見つけて感染すれば、感染源からの引力に抗えず、自己防衛どうのこうのに関係なく気がついたら自然に「その人みたいになりたい」という欲望のフローに乗っています。それ以外の方法を思い付くことができません。

今の話を平たく言えば巷で言う「have toからwantへ」のシフトに近い。「『そうする必要がある』から『そうせずにいられない』へ」。哲学で言う「認識から関心へ」「知識から動機付けへ」「主知主義から主意主義へ」のシフトに重なる。初期ギリシャを参照してこのシフトを賞揚するのがプラグマティスムです。実用主義の訳は誤りで、行動哲学が正しい。

プラグマティズムの鼻祖エマソンは行動を動機付けるものを「内なる光」と呼び、プラグマティズム教育学の鼻祖デューイは「知識の受け渡し」より「内なる光の受け渡し」を重んじます。そして連載の目的は「知識の受け渡し」より「内なる光の受け渡し」。記述の中でも「知識」より「内なる光」を重んじます。その意味ではプラグマティズムの実践です。

環境を分析して「そうする必要がある」と思うのは知識です。それだけでは行動に向けた「力」は出ません。「力」の惹起で「そうせずにいられない」と動機付けられるにはどうしたらいいか。社会=言葉・法・損得の時空の外に出るには「力=動機付け=内なる光」が必要です。なぜなら、社会の外に出た経験がない人にとって、社会の外はヤバイからです。

──なるほど。人の変化の話題でいうと、宗教や政治活動での話になりますが、編集長が学生時代に、知人が新左翼の過激派になって、彼はとてもおとなしい人だったのに、非常にアクティブな男性になったそうです。学生運動の話を聞きますと、動機として自分個人が息苦しいから解放を目指した。そこで、「社会が解放されないと個人の解放はありえない」と思ったから運動をはじめる。そして、個人として拡声器を持って演説をしようと、いざ考えてきた言葉をしゃべり出した途端に、「個人でしゃべっているという感覚がなくなって、しゃべらされているような気持ちになった」というんです。興味深いことだと思いました。

宮台 生き方が変わった理由は帰属変更です。他の人に出来ることが自分には出来ない。人前で喋れない。それを自分が悪いと思ってきた。そこにこう語りかけられる。「この社会に違和感を覚えて喋れない君はマトモだ。社会に適応して平気で喋れる奴がむしろおかしい。悪いのは君ではなく社会だ」と。問題が他責化されて否定的自己像から解放されたのです。

ここまでは「どうせオイラは」的な自傷的自己愛と他責化の組み合わせ(斎藤環)よりマシに見えます。でもそこに社会がどう悪いのかについて自分で考えていないイデオロギーが入ってくる。だから党派やカルトの操り人形として喋り始める。そこで入替可能性に気付く。自分じゃなくても「誰でもいい」じゃんと。それに気付く人は珍しいので素晴らしい。

──「自分が変わった」という感覚と同時に、個人を保てるか。取り込まれると台無しですね。

宮台 話した通り、大切なのは否定的自己像の由来を正しく掴むこと。自己像の悪さからの解放が、おかしな界隈への適応と引き換えじゃ、マズイ。性愛にも全く同じことが言えます。否定的自己像から解放されたくて「外に飛び出る」だけでは、かつて羨ましく見えたキャラ&テンプレの営みに適応して、テンプレのデートや性交を繰り返すだけになります。

性愛に踏み出せない段階では友人達のキラキラデートが羨ましい。東京タワーが見えるレストランで食事して写真を撮るとか、誕生日にホテルの一室で風船を年齢の数ぶん膨らませて写真を撮るとか。少し考えればインスタ映えが目的だから相手は「誰でもいい」。関係性ならぬキャラに結合したテンプレデートは、課題を達成すると後がなく、弛緩します。

それで飽きる子と続ける子がいます。飽きる子は恋愛はいいやとなる。続ける子は相手を変えるか、インスタ映えのいいね稼ぎに目標を変えるか、そんなものだとテンプレを続けるか。いずれも関係性は生じません。そんなカップルはおぞましい。彼らが結婚・子育てするのもおぞましい。そう感じる女子が性愛・結婚から離脱。極く少数が絆作りを「試そう」とします。

政府は少子化対策には「子供手当てだ」「学校無償化だ」と騒ぎます。臍が茶を沸かす話です。社会統計では少子化の理由が非婚化・晩婚化なのは明白です。非婚化・晩婚化の背景はこうした広義の性的退却です。つまり、破れない自己防衛機制とそれゆえのキャラ&テンプレによる関係性忌避が問題なのです。若い世代の貧相な実態が正しく理解されていないようです。

両親の轍を踏みたくないと思い、友人達に合わせていたら両親みたいになると感じる女子は、多くが恋愛・結婚から退却しますが、一部は読書で憧れた「真の恋愛」が本当に不可能なのかを若いうちに「試そう」とします。巷の眼差しから見てそこそこ良さげなキャラ&テンプレ的キラキラ家族より、それがうまくいかない家族にそんな女子が育ちます(前編)。

社会学の重要概念に関係します。教育が成功していると見える(教員や親の教育意図が貫徹した)学校より、失敗していると見える(教育意図が挫かれた)学校の方が、社会の存続にとって有為な人材が育つ可能性がある──そこに注目したのが教育と区別される社会化の概念でした。パーソンズが50年代に提唱しましたが、専門家界隈でも理解が不十分です。

なぜそれが起こり得るのか考えないからです。90年代の本で強調したけど、教育失敗校の生徒には、ぬるま湯の学校的作法が通用しない分、外の社会への免疫ができるからです。「社会というもの」が分かるのです。詳しく見ます。教育成功校の生徒は、社会では通用しない期待水準を万事に渡り維持できるで、それに見合った願望水準を自然に習得し、社会に出て挫かれます。

他方、教育失敗校では、外の社会に見合って期待水準が下がり、多くの生徒が引き摺られて願望水準も下げます。ただ、少数の生徒は逆に適応を拒否。否定的現実に見合って期待水準を下げつつも、教育成功校の生徒より高い願望水準を持続可能に抱きます。「教育成功校」の項に「キラキラ家族」を、「教育失敗校」の項に「失敗した家族」を、代入しても成り立ちます。

つまり「反面教師のメカニズム」です。『こども性教育』に書いたけど、「失敗家族」に生まれたと自覚する子の一部は、「ここ」ではない「どこか」を探し、図書館にこもって本を読み、「どこか」は確かにあると思い、自分が行けるかどうか「試そう」とします。その際「真の恋愛」としてイメージするのは、言外・法外・損得外の「同じ世界」で一つになることです。

だから、これも『こども性教育』に書いたけど、高い性愛の潜在能力を持つ子には①性別・年齢・出身階層などのカテゴリーを越えて「同じ世界」でフュージョンする外遊びを重ねて来た子に加え、②「失敗家族」を自覚するがゆえに読書等を通じて「同じ世界」でフュージョンする体験の想像を重ねて来た子がいます。「反面教師のメカニズム」によるものです。

二人が「同じ世界」でフュージョンする時、同じ事物に同じようにアフォードされる身体性の同期=共同身体性によるものであれ、無意識の隠喩的2項図式の同期=共通無意識によるものであれ、相手の目に映るものがそのまま自分の目に映り、相手の快不快がそのまま自分の快不快になり、ゆえに互いに相手の快のゾーンに入ることが自分の快になります。

かくて心筋細胞の相互引き込み現象に似た中動的(自動的)協働が生じます。これを捉えようとした社会学で唯一の試みが、戦間期のミードによる「役割取得role taking」概念。「相手の反応を自らの反応として引き起こすこと」と定義され、幼児のゴッコ遊び(「なりきり」遊び)の反復が、「他者の視界」を「自らの視界」とするこの能力をつちかうとしました。

前に、「12世紀ルネサンス」による世俗化で、「貴女が世界の全て(だから入替不能)」とする<唯一性規範>と「貴女の喜びが私の喜び(だから貴女の喜びに向けて法をも侵す)」とする<贈与規範>を要件として、「恋愛=受苦としての情熱愛」概念が成立したと話しました。「相手の快不快がそのまま自分の快不快となる」身体や感情の能力を前提とした概念史です。

こうして互いに相手が望む自分に中動的(自動的)に近づいていく過程が、「恋愛」です。「まず双方の属性があり、次に属性同士のマッチングがある」とする発想は、逆さまの妄想です。周囲が驚く階級差や年齢差や趣味差にも拘わらず、互いに相手が望む自分へと近づいていくのが恋愛です。逆さまの妄想の先にあるのはキャラ&テンプレの貧しい営みです。

だから①性別・年齢・階層のカテゴリーを越えて「同じ世界」でフュージョンする外遊びを重ねて来た子と、②「失敗家族」を自覚するがゆえに読書などを通じて「同じ世界」でフュージョンする想像を重ねて来た子は、キャラ&テンプレの中2的キラキラに一度は憧れて乗り出しても、互いに相手の目に映るものを自分に映す営みがないので、違和感を感じます。

だから、あなたに必要なのは単に「乗り出す」ことではなく、「こんなものなのだな…」と適応することを許さないような、強い違和感を抱かせる高い願望です。どんな願望か。「相手の目に映るものがそのまま自分の目に映るがゆえに、互いに自分が相手の快のゾーンに引き込まれる」営みへの願望です。それが「同じ世界で一つになる」営みへの願望です。

とすると、先に話した「自己肯定のかげり」に必要なのは①「同じ世界で一つになる」ことへの強い願望と、②実際に乗り出してその願望ゆえに違和感を感じる体験です。縮めて言えば「願望」しながら実践して生じる「違和感」。更に縮めて「願望」ゆえの「違和感」です。経験値がないと「おかしい」と気付けませんが、気付くにも高い願望が必要なのです。

他方、話に出た「学生運動の活動家」が、「自分の喋りは乗っ取られている」と思ったのは、喋りを重ねた経験があればこそです。「この性交には違和感がある」と感じられるのも、性交を重ねた経験があればこそです。巷に劣化した性交が溢れているにしろ、それを理由に性交を忌避していたら違和感の質を見極められず、進むべき方向を定められません。

それだけでなく、経験値が低いと、自称「達人」による「メンター詐欺」に引っ掛かり、クダラナイ性交に合意します。また経験値が低いと、相手がどんな意味で凄いのか、相手の謂わば稀少性を評価できなくなります。僕を含めて一部の男が処女を苦手とするのは、「男が入替可能であるような妄想」に自分が組み込まれている可能性を恐れるからです。

だから、性愛ワークショップで言います。「真の恋愛」に近づくための条件は、相手と他の相手達との「圧倒的な」違いを、言葉で言えなくても、相手との関係が与える感覚を対照して、確信できることです。その確信は、一度のハグやキスでも、自分が消えていくエクスタシス(自分の外に出ること)の感覚として、いつでもどこでも再確認できるものです。

──政治運動や新興宗教が盛んだった頃は、学生はそちらに引き寄せられやすかったと思います。これを性愛のお話につなげたかったのは、宮台さんが映画『ビリーバーズ』(山本直樹の漫画を城定秀夫が監督した作品。今夏に公開された)について語られていた時に、八〇年代の性愛とカルトの関係を指摘していました。性愛による包括的承認が得られずに見放されてしまった人たちが、宗教による包括的承認を求めるように変わっていく。性愛と宗教は機能的に等価であった。そこには「同じ世界で一つになる」ことがあった。「同じ世界」を理解するポイントになると感じました。

宮台 94年の『制服少女たちの選択』で示したように、こんなに駄目な私でも「恋人が・神が」愛してくれるという形で、性愛と宗教が包括的承認comprehensive approvalに於いて等価な機能を果たし得ます。それが、80年代前半に性的アクティヴだった女達の多くが、包括的承認の獲得に挫折して、80年代後半にカルトに入信した事実によって示されます。

映画版『ビリーバーズ』の登場人物達は、「自分の外に出る」「ヤバい自分になる」営みを性愛の次元で奇蹟的に確信できたことを入口に、「今までの社会生活は紛い物だった」「だから今の社会は間違ってるのだ」という確信へと導かれます。実際80年代には一部カルトがそうした手法を使っていました。連載での語りから分かるように、これは間違いです。

社会とはそういうものだからです。定住が言葉で示された法に損得で従う法生活を必要とするからです。遊動段階のように生存戦略×仲間意識だけでダンバー数(50〜150人)の集団生活に戻るのは不可能です。可能に思えるのはそのコミューンが定住社会に寄生しているからに過ぎません。そんなあからさまな事実が分からないのは基礎的な教養を欠くからです。

原始仏教のサンガ(出家した修行者達の共同体)の修行者達は、托鉢や御布施によって糊口を凌ぎ禄を食みます。それは今申し上げたような錯覚を防遏するための工夫です。ところが『ビリーバーズ』では食料や生活物資が本部から宅配されます。だから「社会は間違ってる」と主張するカルトがその実、社会に依存し切っている実態が覆い隠されるのです。

69年の三島由紀夫と全共闘の東大駒場900番教室討論集会でも、三島が当時学生の芥正彦にそれを指摘します。アルトー主義者の芥はそんなことは百も承知で、社会の現実を仕方なく生きながらもそこに閉ざされず、その外をも想像的に生きる複素数的なあり方を推奨します。先日の早稲田祭での芥×宮台の対話集会で話した通り、芥に全面的に賛同します。

語って来たように、社会の時空と性愛の時空は直和分割されます。性愛の時空で絶対的な(比較不能な)享楽が得られても、「だからそれを欠く社会は間違いだ」と短絡するわけには参りません。前編で話した通り、性愛の時空は、社会の外ではあれ、「社会に依存した『社会の外』」という緩衝帯です。だからこそ比較的安全な「世界への扉」になるのです。

祝祭も同じ。祝祭だけ続けたら皆が死にます。「社会に依存した『社会の外』」という緩衝帯は、言葉・法・損得に閉ざされる生き辛さからの避難所です。でも、それが避難所として機能するにも、その時空では「社会は関係ない」という感覚になるのが重要です(逃避行!)。社会という相対性の時空とは違う絶対性の時空でなければ、避難所になりません。

その意味で、社会で通用する作法に過ぎない属性主義や、いいね狙いのインスタ的キラキラを性愛に持ち込むことで、性愛の時空の避難所としての機能は、確実に損なわれます。それを語ることが、とりわけ「こども性教育」では、恋愛はただ好きということではなしに<唯一性規範>と<贈与規範>を伴うべきだと語ることと並んだ、中核モチーフになります。

 

後編につづく