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性愛に踏み出せない女の子のために 第8回第二部 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第8回第二部 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。今回で第8回をむかえますが、二部に分けて、WEBで発表いたします。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第8回第二部は、前編として、「世界を同じように体験すること」「ヤバい自分になる」についての話題です。


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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


前編
世界を同じように体験すること


──「同じ世界に入る」とはどういうことかについて、読者からも反響があります。趣味や価値観が合うから「同じ世界」に入れるわけではない。歴史を振り返ると、性愛のかたわらに、宗教と政治、若者にとっては新興宗教や学生運動に「同じ世界」を求める感覚があったと宮台さんがよくお話されています。「同じ世界」について詳しく聞かせてください。

宮台 宗教の話から始めます。今の社会には「社会の外」がありません。例えば祝祭や祝祭的性愛が消えました。人は四六時中、言葉・法・損得勘定の界隈に閉ざされています。なので生き辛さからの避難所として宗教が求められます。だから、教団には普段関われない様々な人がいて、皆が生き辛さを感じているのを目撃でき、互いに「同じ世界」に入れます。

「同じ世界」には身体性の次元と無意識の次元があります。どちらも意識の外にあります。事物や身体の配列から同じようにアフォードされている人達は、身体性の次元で「同じ世界」に入ります。アフォーダンスとは物や身体の配列から呼び掛けられて自動的に体が動くこと。主体による選択を意味する認知・評価・指令図式を認めない生態心理学の概念です。

言葉・法・損得の界隈である社会を生きる時、人は能動の選択を強いられます。言外・法外・損得外の界隈である「社会の外」を生きる時、人は能動の負担を免除され、中動の自動性を生きます。性愛の時空は社会の時空の外に本来あります。能動の選択ならぬ中動の自動性で、複数の身体がアフォーダンス的に共振する共同身体性が、性愛の享楽の前提です。

他方で、身体性と同様、無意識も能動の選択ならぬ中動の自動性を与えます。意識は能動の選択を司ります。無意識は、能動の選択を司る意識を中動の自動性に於いて方向付けます。意識は散文言語で構成され、無意識は詩的言語つまり隠喩と換喩で構成されます。隠喩は、見掛けが違うのに同じ何かを指すと感じるもの。換喩は、見掛けの類似と戯れるもの。

無意識を構成する隠喩は[大人/子供][成功/失敗]の如く二項化されます。無意識は物語(散文の指示)というより神話的(二項図式の重合)です。定住の法生活で成員は、社会(大文字の他者)から代理人(父の名)経由で[Aは快/notAは不快]と二項化された意識を抑圧的に植えられますが、無意識には逆に[notAが快/Aが不快]という逆転図式を溜めます。

無意識の隠喩的二項図式が相手と同期すると、互いに「同じ世界」に入れたと感じます。相手の言葉を散文として理解するより、背後にある隠喩的二項図式(無意識)を理解すると、「同じ世界」に入れます。相手の言葉を方向づける隠喩的二項図式([子供は快/大人は不快]等)に沿って散文的に言葉を発すると、相手は「同じ世界」に入ってくれたと感じます。

「同じ世界」は、身体性の次元であれ無意識の次元であれ、選択する意識の外で実現されます。意識的ならぬ自動的。能動的ならぬ中動的。それを意識が後から捉えます。「同じ世界」に入るとは「自分が相手と同じように世界を体験している」と感じること。それには「自分の身体が感じる」ケースと「自分の無意識が感じる」ケースがあるというわけです。

それは「同じ趣味を持つこと」とは関係ありません。趣味どころか民族や国籍が違っても、身体性の同期(共同身体性)か無意識の同期(共通無意識)があれば、「同じ世界」に入れます。それを考えても、「好みのタイプだ」「同じ趣味だ」みたいなマッチングアプリの属性主義は見当違いです。これらは身体性の同期も無意識の同期も、全く与えてくれません。

身体性の同期については幼少期の外遊びなどに絡めて連載で話してきました。今回は無意識の同期についてです。本来の性愛は「社会の外=言外・法外・損得外」の営みです。でも人間は言葉の動物です。だから言葉を、言外の同期を阻害せずに触媒するように使う必要があります。一体どんな使い方か。それを紹介するためにイエス・キリストの話をします。

新約聖書は福音書が四つあります。福音gospelとは「神からの良い知らせgood news」という意味です。伝聞者の名を冠したイエス言行録で、成立順にマルコ・マタイ・ルカ・ヨハネ。八〇以上の言行録をイエスの死後四百年かけてエルサレム教会が四つに絞りました。最初の三つマルコ・マタイ・ルカは共通する観方が目立つので「共観福音書」と言います。

実際、奇蹟物語が満載なのが似ています。マタイ以降は十字架の受難からの復活も強調します。抽象的には、イエスが偉大だと示す物語的粉飾決算が共通の話法です。布教戦略上効果的だったからです。ところがヨハネ福音書には物語的粉飾決算がない。「初めに言葉ありき」で始まり、粉飾決算を経ずに「イエスは神の言葉を語った」を出発点に置きます。

正確には「神がイエスという肉を通じて語った」ということ。イエスの言葉は特別だったというのです。ヨハネ福音書が注目するのは「イエスの人となりを何も知らない人々が、イエスの言葉を聞いた瞬間に電撃を受ける」メカニズム。それを、人々に数多のことを「思い出させる」力として記述します(大貫隆『ヨハネ福音書解釈の根本問題』参照)。

具体的には「あれはそういうことだったのか」という記憶の再解釈や、「長い間忘れていた」という抑圧された記憶の召還を、「あなた方は本当は知っていた筈だ」という話法でおこなう。イエスの喩え話の多用がそれ。例えば「サマリヤ人の喩え」は、「あなたは律法に従って人を助け、ラビ(聖職者)から褒められたが、本当は違和感があった」という語り口です。

記憶の召還や再解釈は、精神分析の手法に似ます。自己肯定に含まれたかげりの指摘は、自己肯定感(アファメーション)を重要視する企業研修化された似非コーチング以前の、自己効力感(エフィカシー)を重要視する本来のコーチングに似ます(アルバート・バンデューラ『自己効力』参照)。つまりイエスの話法は、部分的には学問的に記述できるのです。

ヨハネ福音書に「人々は思い出した」が頻出しますが、イエスの言葉はなぜ「思い出させる」のか。僕の考えでは、無意識に格納された隠喩的二項図式に寄り添うからです。人々は「律法に従う=快/律法に逆らう=不快」と幼少時から躾けられることで、反対の「律法に従う=不快/律法に逆らう=快」を無意識に溜め込みます。それだけじゃありません。

人々は誰しも一度は疑念を抱いたことがある筈です。罰が嫌で律法通りに善いおこないをするのは本当に善いのかと。律法に書かれていないのに善いおこないをするのが本当に善いのではないかと。イエスは「無意識の隠喩的二項図式」と「一度は抱いたことがあるが、認知的不整合ゆえに忘れたことにしていた疑念」に訴えることで人々に「思い出させる」のです。

「自分も確かに、律法に服属するのでなく、律法の外側で善いおこないをしたかったのだ」と、「思い出させる」のです。読者の皆さんも、法に定めてあるから善いおこないをする人より、法に定めがなくても善いおこないをする人を好む筈です。「遵法よりも良心」の構えはゲノム的に普遍なので、何かにつけ法を持ち出す営みに誰もが違和感を覚えたことがあるのです。

「法内=快/法外=不快」という社会の図式への適応を促すのも超自我ですが、「法外=快/法内=不快」という逆転図式を無意識に蓄積させるのも超自我だとするのが後期フロイトです。だから無意識は逆転図式としての隠喩的二項図式のアーカイブです。それでフロイトは清楚な人に淫乱を見出し、淫乱な人に清楚を見出す。イエスそのものじゃないですか。

だから人々は「そうだ」と思い、そう感じたことがあるのを「思い出す」。フロイト派ラカンが「無意識は言語的に構造化されている」とする意味の一つはそれです。それがなぜ重要か。イエスが自分の名前も来歴も知らない人と瞬時に「同じ世界」に入れた理由だからです。こうしてヨハネ福音書の視座は、学問的な視座からある程度分析できるのです。

「無意識は言語的に構造化される」というと、人は「物語」のことだと思いがちですが、睡眠中の夢のように隠喩(違うものが同じ何かを指す)と換喩(何を指すかに拘わらず形が似る)で成り立つことを言います。睡眠学によれば、覚えておくべき長期記憶と捨てるべき短期記憶の、REM睡眠時の分別処理の副産物が夢です。なぜ夢を分泌するのでしょう。

「言語的に構造化された無意識」が記憶を分別するからです。特に隠喩的二項図式が大切です。第一部で現実と逆転した「快/不快」=「X/Y」(XとYは様々)のリストを示しました。無意識の二項図式には全て「快(良い)/不快(悪い)」のフラグが立ちます。人の来歴(散文の物語)が多様でも、無意識の「快/不快」=「X/Y」はより単純かつ普遍的です。

だからイエスの名も来歴も知らない人々が瞬時に「同じ世界」に入ります。無意識の隠喩的二項図式に訴えるのがイエスの話法です。あなたがこれを真似て、相手の言葉自体に反応するより、そこから透ける隠喩的二項図式を標的にして反応すると、相手と「同じ世界」に入れます。僕が膨大なフィールドワークを通じて獲得した実践の知恵でもあります。

マッチングアプリで趣味や属性が合う人を選ぶと、楽しいけどワクワクしないことがよくあります。互いのキャラに従ってテンプレをなぞるからです。趣味が合う人・カレシカノジョになった人などがキャラです。趣味が合う同士・カレシカノジョなどがやりそうなことがテンプレです。キャラに従ってテンプレをなぞるのは、所詮は「中2のデート」です。

キャラに当て嵌まる人は腐るほどいます。テンプレのデートをしても「これは私じゃなくてもいいんじゃね?」と敏感な人は感じます。ポイントは世界(あらゆる全体)を同じように体験する力があるかどうかです。そもそも生活時間の大半は趣味の時間ではない。世界を同じように体験する力がある相手とだけ、万事に渡って「同じ世界」に入れるのです。

以上が概略の答えです。では僕はどんな無意識の二項図式を見るか。言葉・法・損得の時空=社会では「言葉=快/言葉の外=不快」です。その逆転図式「言葉の外=快/言葉=不快」が相手にどれだけ刻まれているかを見ます。法や損得についても同じです。逆転図式が刻まれた相手には、「言葉ってクソだよね」「社会ってクソだよね」が一瞬で通じます。

相手がそうだと判った途端、その人は突然僕の関心の領域に入ってきます。「言外=快/言葉=不快」「法外=快/法=不快」「損得外(贈与・過剰)=快/損得(交換・バランス)=不快」という逆転図式を確認したら、相手が数多の事象をこれら二項図式にどう重ね合せているかを見ます。性愛の時空が算入されていなければ、それを少しずつ繰り込んでいきます。

こうした営みにカテゴリーやキャラは関係ありません。年齢・宗教・国籍を越えます。さもなければ異文化圏の国際結婚などありません。と話す僕の言葉もまさに「言葉」です。ただし「言葉の外を開く扉としての言葉」です。イエスが使ったのもそんな言葉です。扉をくぐったら、めくるめくシンクロがある。「そこから先」は「言葉がいらない世界」です。

──その人がそれまで、言葉、社会、法で型にはめていた自分の人生を揺るがす、一度リセットすることでもあるんですね。

宮台 復習すると、僕らが言葉・法・損得に従うべき社会を作ったのは定住したからです。定住は農耕の生産力が支えます。農耕はルールが必要です。集団作業のルール・種播きから収穫までの計画のルール・収穫物の保全や配分や継承のルール。だから「言葉で語られた法に損得で従う」形になります。でも人から「力」を奪う不自然な生活形式(法生活)です。

だから一部の人は拒絶して外に出て定住民から差別される非定住民になります。不自然な法生活に従う定住民は「力」が失われていくので、祝祭で「力」を回復します。そこには非定住民=被差別民が「力」を与える存在として召還されます。「力」の湧き出す時空=聖。「力」を使って減る時空=俗。祝祭時には被差別民が聖なる存在になります(網野喜彦)。

非定住民が特に嫌うのが所有の概念。所有とは使用・収益・処分権です。「使っていなくても自分(達)のもの」という構え。余剰収穫物の保全のためです。収穫物の継承の枠組が結婚。永続規範を伴います。初期定住の続柄婚から文明段階の家柄婚まで好き嫌いは関係ない。結婚自体が「今は性交していなくても自分のもの」という所有概念の応用なのです。

南サーミ人アマンダ・ケンネル監督の『サーミの血』というスウェーデン映画があります。サーミ人はラップランド人と呼ばれていました。彼らは文明世界に入っても、空き家があったら住み、他人の家の食事に呼ばれて空部屋があったら「ここに泊まっていい?」と泊まり続け、他人の夫だろうが彼氏だろうが「いま空いてるから寝てもいいよね?」となる。

これは定住民にとってクリティカル(危機的)です。だから差別されてきた。主人公の少女は器械体操のような定型は苦手です。でも火を囲んで踊るのは得意です。要は「力」を湧き出させて共有する身体性が秀でます。それが祝祭時に彼らが召還される理由です。彼らは祝祭時に舞踊や性愛や奉納芝居を通じて定住民に定住以前の「力」を思い出させます。

差別される非定住民が祝祭時に召還されて持ち込むのが、平時のタブーの外に出る「芝居の眩暈」と「性愛の眩暈」。祝祭の空間化以降は盛り場の奥に「芝居町」と更に奥に「色町」が設定されて悪所と呼ばれます。普段は眩暈は悪ですが、巡り来る祝祭や時々出かける盛り場で、人々は生き辛い社会(言葉・法・損得の界隈)の外に出て「力」を回復します。

「力」の回復は、平時の社会を支える「法=快/法外=不快」の意識(超自我)が溜め込む無意識の反転図式「法外=快/法=不快」の、享楽を伴う解放によって為されます。ラカンが晩年に気付いた通り、精神分析の枠組と人類学の枠組は互いを補完します。人類学しか知らないとか、精神分析しか知らないとかだと、現実が持つ意味を理解できないのです。

今回は「同じ世界」とは何かという切口から、前に話したことと同じ話をしました。まとめると、「法=快/法外=不快」の意識を要求される社会を生きる人は、社会的成功の如何に拘わらず、生き辛さの思いと共に「法外=快/法=不快」という無意識の二項図式を抱き、祝祭や性愛に於いてこの二項図式が同期するので、複数の人が「同じ世界」に入ります。

 

自己肯定感のかげりと
ヤバい自分になること

──無意識にある二項図式の「良い/悪い」が一致するような人は、同じように世界を体験していると言える。しかし、社会は法や言葉で人を従わせているから、表層でそれに固定されてしまう。イエスのような人はそこに揺さぶりをかける。ここで気になるのは、今のままの自分でいては不十分で、変わることにポイントがあるのかもしれないということです。

宮台 コーチングで似た問題があります。なのでバンデューラを紹介します。今の企業研修化されたコーチングは「あなたは自分に否定的感情を持つから生き辛くて力が出ない。今のあなたで十分だ」とします。この「自己肯定しましょう」という働きかけを「(セルフ)アファメーション」と言います。通俗化したこの図式に含まれた正しい部分を確認します。

何かをする時は自己像(セルフイメージ)が前提になります。自分は人気者という自己像があればリーダーシップを執る営みに出やすくなり、自分はモテるという自己像があれば性愛的な誘惑の営みに出やすくなります。自分は好かれないという自己像を持てばこれらの営みのハードルが上がります。ちなみに自己像はそれまでの人生経験から構成されます。

自己像が変わる経験を新たにすればハードルの高さが変わります。これを人為的な設定の中で効果的におこなう実践がアウァアネストレーニングです。正確にはハードルの高低のみならず質を問題にします。だから自己像と言わずに自己の「ゲシュタルト、フレーム、スクリプト、神経言語プログラム」等と呼びます。ここではストーリー(物語)と呼びましょう。

つまり自己が物語化されているということ。「自分は数多の経験を経てこんな人間だと判った」という物語です。最初にそれが問題化されたのが硫黄島決戦の反省です。眼前に現れた日本兵を6割の米兵が即座に撃てなかった。これは日常生活を通じて作られた自己物語が縛りになっているからだとして、それを書き換える「地獄の特訓」が編み出されました。

スタンリー・キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』が海兵隊のそれを描きます。口汚い罵倒で自己物語の攻性防壁を破壊、やったことがない営みをやらせる。ところが敗色濃厚になった70年代から帰還兵による凶悪犯罪の蔓延が米国を震撼させます。マーチン・スコセッシ監督『タクシー・ドライバー』など70年代の米国ニューシネマが描いています。

これは、ベトナムのジャングルでの戦闘に向けて(または戦闘よって)書き換えられた自己物語のフレームを、抱えたまま社会に戻ったからだして、自己物語を書き戻すエクササイズが官民の協働ないし競争で開発されました。それが企業エグゼクティヴ向けエクササイズに拡げられたものが70年代後半からのアウェアネス(=自己啓発)トレーニングです。

拡がった理由は合理的だからです。エリート(の卵)は意志力を要求されがちです。でも人は弱い。病気や偶発事で意志力を挫かれがちです。ならば意志力を頼らないのが良い。意志力がなぜ要求されてきたか。欲望を禁圧するためです。ならば欲望自体を書き換えればいい。人に行動を促す欲望は自己物語を前提とします。だから自己物語を書き換えます。

自己物語の書き換えは世界観の書き換えを伴います。自己像が変わると世界像が変わります。それが問題を孕みます。90年代に入ると、エクササイズがカルト宗教に使われたり、エクササイズの提供組織の勧誘自体に使われる事実が「洗脳だ」として批判されます。そこで個人向けの提供から企業向け研修の提供へと衣替えしました。それがコーチングです。

アウァアネストレーニング(ATと略)とコーチングの違いは二つ。第1は、1対nから1対1が主になったこと。第2は、個人ならぬ企業が主なクライアントになったこと。これが安全なのは、社会的に承認された企業目的の枠内で研修するからです。仏教由来のマインドフルネスやアドラー個人心理学のブームも、公認された企業研修に由来しています。

安全化と引き換えに僕がいう「週末のシャワー問題」が生じます。企業がこれらを用いるのは組織パフォーマンスを上げるため。だから自分がその組織にいる事実を疑わないというスコトーマ(盲点)を伴いがちです。ブラック企業が毀損されがちな「力(やる気)」を回復する「週末のシャワー」に用いれば、ブラックぶりを温存する機能を果たします。

そこではマインドフルネスでもアドラー心理学でもコーチングでも、アドラーが言う最終目標の簒奪がなされ、課題の分離の失敗が生じます。母親の目標を自分の目標だと思い込むように、企業の目標を自分の目標だと思い込みます。母親や企業からすると子供や社員を「家畜」や「社畜」に留め置くための、効果的なコントロール手法として機能するのです。

それを主題化したのがマット・デイモン主演『ジェイソン・ボーン』シリーズ3作品やデビッド・フィンチャー監督『ファイトクラブ』。問題を深く理解するには必見です。深く理解したらコーチングを眺めましょう。自己肯定感(アファメーション)を重視するのははおかしくないですか? それを問題視したのが70年代のアルバート・バンデューラです。

日本でこれを俗流コーチングが孕みがちな問題として明確化したのが苫米地英人氏。恐らくATへの反省に由来します。カルト宗教が最終目標を簒奪するのも問題ですが、安全化と称して社会的に承認された企業が最終目標を簒奪するのも問題です。「自己肯定感が高まれば、あなたは自動的に力が出て、目標を達成できる」という図式には問題があるのです。

自己物語(自己像)にはそれを支える社会環境的な前提があります。家族環境や会社環境や友人環境や性愛環境を含みます。自己像を肯定すると自己像を支える(=必要条件となる)それらセッティングが自動的に肯定されます。家族環境や会社環境や友人環境や性愛環境が肯定されるのです。これは論理的問題なので、自己肯定によっては解決できません。

これを解決できるのは、そこそこ自己肯定できるのに何か違うと感じる「自己肯定のかげり」を通じてです。先ほどのイエスの話法はそれを呼び出す(思い出させる)ものです。あなた方は律法に従って善きおこないをしてきた。それを褒められてそれで良いと思ってきた。だがなぜ律法を意識しないと善きおこないができないのか。そう思ったことがある筈だと。

肯定的自己像を支える社会環境のイメージをコンフォートゾーンと言います。転校転勤して慣れるとコンフォートゾーンが変わり、その過程で生産性が上がります。20世紀初頭に提唱されたヤーキーズ&ドットソンの法則です。経験を重ねるにつれ、コンフォートゾーンに変わる当初は慣れない環境を90年代にノエル・ティシーがラーニングゾーンと名付けます。

ティシーの前提は70年代のバンデューラの社会的学習理論。社会的に与えられる報償予期(結果予期)と試行錯誤を恐れない自己信頼(効力予期)が学習動機の強さを左右するとし、後者をセルフエフィカシー(自己効力感)と呼びます。これは50年代の社会学者マートンの予期的社会化概念(予期された未来に適応しようとする構え)を前提としています。

これらは実証研究ですが、60年代に社会システム理論家ルーマンが概念史研究から二つの尊厳(持続的自己肯定)を区別します。第1は自由な試行錯誤が培う自己信頼。第2は崇高な集団への所属が与える自己価値。彼は概念史から前者を連合国的なもの、後者を枢軸国的なものとし、近代に相応しいのは前者のみとします。これが自己効力感に相当します。

その上で彼は自己信頼と試行錯誤のループ仮説を提唱します。与えられた自己信頼の範囲で試行錯誤し、それが成功すると自己信頼が増してより難度が高い試行錯誤に乗り出し、それが成功すると…という自己強化モデルです。僕の94年の『制服少女たちの選択』に詳説しました。65年に提唱されたこのモデルは自己効力感の増進と減衰の機制を記しています。

僕が推奨するコーチングはこれら全てを踏まえます。俗流コーチングは、自己肯定・を支える社会的設定(現実的なコンフォートゾーン)・を強化する最終目標を立てます。かくてクライアントは会社に操縦されます。真のコーチングは、自己肯定のかげり・をもたらす社会的設定・の外にある「想像のコンフォートゾーン」・をもたらす筈の最終目標を立てます。

そこに社会学で伝統的な期待水準と願望水準の区別を持ち込みます。期待水準は現実的なコンフォートゾーンに、願望水準は想像のコンフォートゾーンに関わります。でも人は適応圧力に負けて期待水準を超えた願望を切り縮める。切り縮めの記憶は人を傷つけるので願望がなかったことにされます。僕のセッションは願望を「思い出す」ことから始めます。

素敵な性愛を体験したいけど苦手意識で悩む人に対し、「あなたはそのままで素晴らしい」と肯定したら、望みが高い性愛に乗り出せますか。完全に無理。だから「あなたの自己肯定とそれに伴う現状肯定は、自己防衛機制による認知的整合化だ」と伝え、折り畳まれた願望を一定の技術で「思い出させ」、想像のコンフォートゾーンで最終目標を設定させます。

──そのままを肯定されたら、行動に移さず、変わらないですね。

宮台 ルーマンのモデルが示す通り、想像のコンフォートゾーンに乗り出す試行錯誤は一定の自己肯定感がないと、無理ではないが難しい。無理ではないのは、精神分析のラポール(父に寄せるような愛)が強いと、乗り出せという指示に従うからです。でもラポールの対象が「偽のグル」ならどうしますか。だから最低限の自己肯定の「思い出し」から始めます。

セッションのファシリテーション(座回し)は経験的学習で効果的になってきましたが、元になる枠組は独りよがりを避けるための激しい学的研鑽で構築されました。『こども性教育』の実践には、「男は敵!」的な「言葉の自動機械」(クソフェミ)から、「専門家でもないくせに」の類のこれまた専門家という言葉に自動機械的に反応する頓馬が湧きました。

これは無教養に由来します。原発百%安全神話や全量再処理神話や原発最安コスト神話を吹聴してきたのはアカデミズムの専門家。だからフクイチ事故後の僕が関わったワークショップではデンマークのコンセンサス会議の形を取りました。学会勢力に拘わらず異なる立場の専門家が集まる専門家パネルを傍聴した市民が市民パネルで全てを決める枠組です。

戦間期に社会学者・社会哲学者マンハイムが専門家と知識人を峻別した業績も大切です。彼は「浮動するインテリゲンチャ」の概念で、権益まみれの所属集団から離れて全体性に近づける存在だけが知識人だとします。原子力ムラやそれと一体化した国からの研究費や、それに結合した大学内地位に依存する専門家の醜態は、誰もが夙に観察してきたことです。

マンハイムが踏まえる通り、全体性はどこまでも不可視で未規定です。だから「この人は専門家ならぬ知識人だから」とカテゴリーに反応するのでは、ウヨブタやクソフェミと同断の「言葉の自動機械」に頽落します。だから、「権威に思考停止で任せて後からブー垂れる」のでなく「引き受けて自分達で考える」集合知の形成(=知識社会化)が不可欠です。

ルーマンが喝破した通り、専門家は「アカデミックポジションを得るべく過去10年の『業績』を参照して学会主流に媚びた実証的モノグラフを積んだ類」であり得ます。そうした類に騙されないよう、友達の助けを借りて「専門家がどんな理路を踏んだのか」を自ら理解する必要があります。「こんな業績があります!」の類になびくのは愚民への道なのです。

特に日本では過去四半世紀、性的退却のみならず「KYを恐れてキャラを演じる営み」が加速したので、多くの若者に「何でも話せる友達」「間違いを直ぐに指摘する友達」がいなくなり(統計は『経営リーダーのための社会システム論』参照)、見たいものだけを見る「言葉の自動機械」が増えました。そこでも真の友達がいるかどうかが鬼門になります。

僕が若い人達のコミュニケーション・モードの変化に気付いた90年代半ばから、この連載がそうであるように、学的業績を下敷きにしつつそれに触れることが難しい「あまりいろんな友達がいない人達」に最低限の難度で語るようにしたのは、そうした社会の変化がもたらした問題を補おうという「社会学的啓蒙」(ルーマン)のプログラムに従うものです。

17〜18世紀の「啓蒙の時代」に言う啓蒙(理性的啓蒙)が、理性に従うがゆえに流れさずに民主政を主体的に回せる公民を、作るプログラムだとすれば、社会学的啓蒙は、自分は理性に従うと信じながらその時々の自明性の檻に閉ざされがちな人々に、自分達が本当はどんな文脈に置かれているのかを学問ベースで認識させ、選択肢を増やすプログラムです。

──だから、確かにそうかもしれないな、と耳が痛い話でも納得させられます。

宮台 良かった。ならば、学問で背景を説明できる性的退却の流れに適応せずに素敵な性愛を追求する営みが、現実的なコンフォートゾーンならぬ想像のコンフォートゾーンを必要とすることを理解した筈です。それって「ヤバい自分になる」ことを願望せよってこと。まず今のままでは素敵な性愛が遠いのが分かったでしょう。それが「自己肯定のかげり」。

性愛はリスキーだから身を守るべく退却するけど、何か違うと感じる。肉食系女子のようにいろんな男を相手にいろんなプレイに乗り出しながら、何か違うと感じる。かつて願望した素敵な性愛はどこに行ったのだろう。でもそれを思うと不全感で傷付くから「こんなものだ」と思おうとする。分かります。そう思おうとする理由も学問で説明できるのです。

願望していた筈の素敵な性愛を手元に引き寄せるには、所詮は期待水準に縛られた「現実的なコンフォートゾーン」の外に出て、願望水準を解放する「想像のコンフォートゾーン」に相応しいヤバイ最終目標を思念し、思念の強さゆえに最終目標からの強い引力が働く(プライミングされる)状態が必要です。そうすれば、新しいゲームが始められます。

それはどんなゲームか。その具体像ついては、「同じ世界で一つになる」「二人が一つのアメーバになる」という既に体験がある人にだけ辛うじて分かる詩的な言い方と、今とは違ったかつての生活形式の話に留めてきました。だから「同じ世界って何」という質問が出て当然です。でも、充分な準備がないと「ヤバイ自分」の実践例を荒唐無稽だと感じます。

だから「ヤバイ自分」の生々しい実践例は第9回に話します。今はまだ「同じ世界」を理解するための準備段階です。あなたや読者は「同じ世界」という言葉に魅惑され始めました。それを手にしてみたいと思うようになったから「同じ世界」とはどういうものですか、どうしたら「同じ世界」に行けますか、という疑問を新たに抱くようになりました。

あなた方にとって「同じ世界」は、現実的なコンフォートゾーンの延長上にはなく、想像のコンフォートゾーンにしかありません。今の延長上に素敵な恋愛がありそうもないことは分かった。今から見たら「ヤバイ自分」にならなきゃいけないようだ。散歩で息が合うどうのこうのは単なる入口のようだ。その先にどんな営みがあるんだろうというわけです。

それを第9回で話す前に、ここではあり得る誤解を消去法で潰します。第1に「ヤバイ自分」とはいえ「法外を生きる犯罪者になる」という話ではない。「現実的なコンフォートゾーンの中にあるちょっと良い自分」でもない。「ヤバい自分」を方向付ける手掛かりが「自己肯定のかげり」の質。それを探るのに有効な、性愛においてすぐ使える方法が少なくとも二つあります。

あなたがどんな性愛的コンテンツで興奮するかと、あなたがマスターベーションでどんな性夢を想像するかです。自分事にせずに済む設定だから読んでいるBLでも、自分事にせずに済むような荒唐無稽な設定の性夢でも構いません。性愛経験があれば「あの時こうだったらもっと興奮したのに」という荒唐無稽な空想でもいい。それらが無意識を表します。

85年から十余年のナンパ師時代、僕は相手が自慰する際の空想を聞きだし、総ゆるリソースを用いてそれを現実化する営みをしてきました。「現実化なんて無理よ」「そんなことない、できるさ」「嘘に決まってる」「そう言うってことは現実化できたら嬉しいんでしょ」「そうだけど」「ならば僕について来て」という入口です。これを第9回の予告篇とします。

ただし、こうした実践の果てに、ある大学生女子の自殺を機に深い鬱に落ちたことを話しました。理由のサワリも話しました。つまり、これは入口でしかない。適切な出口がないと、慣れによる感覚鈍磨とウェーバー&フェヒナーの法則との合作で、砂を噛むような事実の繰り返しになります。この適切な出口についても第9回で詳しく話すことにします。

次に「ヤバい自分」に向かおうとする場合にあり得る第2の誤解を除きます。多くのコーチングは最終目標について、「自分のありたい姿」を臨場感を伴って思念をせよと説きますが、とりわけ性愛への乗り出しと世直しへの乗り出しを力付ける(キリスト教の言い方では「強める」)方法として評定すると、不完全です。「自分の」という枠付けが問題です。

斎藤環氏の言葉を借りれば、「関係性よりもキャラ」が焦点化されがちだからです。所詮は意識高い系の空想に堕しがちなのです。そうではなく、自分だけでなく恋人が、自分だけでなく仲間達が、世界をどう感じながら生きるのか、という他者達への「なりきり」を経た「自分達のありたい姿」の想像が必要です。これが先の適切な出口にも関係しています。

でも、「自分≒キャラ」ではなく「自分達≒関係性」を想像するのは難題です。関係性への想像力を与える経験が、話した通り若い世代ほど奪われているからです。この経験には「自分と他者の関係」の直接経験のみならず「他者と他者の関係」の間接経験(目撃・告白)が含まれます。だから第一部で話した「プレトーク付きコンテンツ体験」が使えます。

とはいえ、既に関係性を触知するリテラシーが奪われているので、一人で見ても難しい。第一部の『ラストタンゴ・イン・パリ』も、社会の全てを捨てる駆け落ちや逃避行がリアルに想像できない若い人達は、事前に一定の示唆があって初めて「変態男女のヤりまくりに見えて、実際は違うのだな」と判ります。それを繰り返して関係性の想像力が増します。

やがて「この人と全てを捨ててどこかで新しい生活を始める」の類の、関係性を焦点化した、想像のコンフォートゾーンに結合した最終目標を立てられるようになり、「ヤバイ自分」とは「感情か゛劣化した昨今の他者達には想像できない関係性を生きられる自分だ」と判ります。実際それが第一部で話した90年代半ばまでよくあった教師生徒恋愛のモードです。

それが分からないまま93年に大ヒットしたドラマ『高校教師』を見れば、制服フェチ(スクールガールフェチ)の教員と、教師との恋愛を自慰的に関係妄想する生徒との、「二人オナニー」(『サブカルチャー神話解体』93年)として受け取られる可能性があります。スワッピングを描いて話題の『夫婦円満レシピ~交換しない?一晩だけ~』も同様に受け取られる可能性があります。

何かが違うという不全感を直視し、「現実」の延長上では解決できないこと──タナボタがあり得ないこと──を認識し、折り畳まれた願望を性夢の自己分析も使って再生し、願望の現実性を補完するコンテンツ代理体験を経て、「劣化した友人達には想像できない素敵な恋愛」──飽くまで関係性──を最終目標として思念しよう。今回言えるのはそこまでです。

 
中編につづく