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性愛に踏み出せない女の子のために 第8回第一部 後編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第8回第一部 後編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。今回で第8回をむかえますが、二部に分けて、WEBで発表いたします。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第8回第一部は、前編、後編にわけて、「「性愛を描いた映画」「二項図式の重ね合わせ」についての話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


後編
すべてを捨ててこの人と逃げる
という性愛のあり方


──少女漫画を読んで「恋愛をしたい!」という気持ちになることが多いと言われてきましたが、今はそれがなくて、私も含めて女の子も少年漫画を読んでいます。ワクワクするものは時代によって変わってきていて、恋愛漫画に憧れる人は減りました。「私も恋愛したい。性愛関係に入りたい」と思うきっかけがないんですよね

宮台 印刷された恋愛表現の出発点は19世紀フランス恋愛文学です。恋愛表現の核は「真の愛か/偽の愛か」です。「真の愛」が憧れだったので、少女らが恋愛したがったのです。「真の愛」は、「自分にとって貴女は世界の全体だから取り替えられない」という<唯一性規範>と、「貴女が喜ぶなら何でもする(法も破る)」という<贈与規範>からなります。

「△△は世界の全体だ」との構えをロマン主義と言います。19世紀はロマン主義の時代です。「貴女は世界の全体だ」とするフランス流の恋愛ロマン主義と、「ドイツ民族は世界の全体だ」とするドイツ流の民族ロマン主義があります。産業革命で文学や美術や音楽の市場ができて、市場で訴求力のある口上が求められたからだというのが、芸術史の理解です。

恋愛に限ると、<唯一性規範>と<贈与規範>を含むものをロマン主義的恋愛romantic loveと呼びます。復習すると、ロマン主義的恋愛のルーツは12世紀の吟遊詩人。領主の既婚夫人を下級の既婚騎士が崇め奉ります。「12世紀ルネサンス」と呼ばれるイスラム文化の流入で、中世キリスト教社会が世俗化し、神への崇拝が貴夫人への崇拝に移転されたものです。

アガペー(神の愛)は、神が完全なので無条件で無尽蔵です。エロス(人の愛)は、人が不完全なので条件付きで限りがあります。ギリシャからキリスト教に継承された枠組です。この非対称性が、上流夫人と下級騎士の関係に移転され、<理想化>された夫人が崇められたのです。この言い方から分かる通り、性交の如き「達成」は一切求められませんでした。

14世紀のいわゆるルネサンス以降、これが宮廷愛に持ち込まれ「達成」が求められ始めます。そこで問題になったのが「貴女は世界の全て」です。口ではどうとでも言える。「真の心」はあるのか。そこで、水も食事も喉を通らず、痩せ衰えて死ぬことが「真の心」の証だとされます。でも、これでは「達成」が「非達成」を意味してしまう。<逆説化>です。

さて19世紀前半、活版印刷の普及で恋愛小説が流行します。でも「真の心」の証が病と死ではハードルが高い。そこで証が、権利義務の総体を決する「結婚」に移転された。読者の女たちは小説に現実が記されていると思い、小説を現実化し、その営みが小説に取り込まれます。<虚構と現実の自己言及化>です。ルーマン『情熱としての愛』が記す三段階図式です。

この「真の心」の証のための結婚=「恋愛のための結婚」が、程なく「結婚のための恋愛」に頽落します。20世紀に世界に拡がった「恋愛婚」はこの「結婚のために恋愛しなくちゃ」です。殆どの文化で結婚は気持ちと無関係なモノガミー(1対1)なので「結婚のための恋愛」もモノガミー化しますが、「あなたは世界の全て」という<唯一性規範>とは別物です。

どう別物かというと、結婚がそうであるように相互に相手への排他的な所有権を主張するようになったのです。結婚が人生の墓場であるように恋愛も互いに所有される不自由な墓場になりました。「コクってイエスが貰えれば恋愛感情が薄くてもカレシ・カノジョ関係になり、相手が他の誰かとデートすれば激昂する」という昨今のインチキ恋愛に繫がります。

復習すると、初期定住のクラン(氏族)段階が「続柄婚」。階層化した文明段階が「家柄婚」。婚姻相手は本人意志と無関係です。恋愛が非日常の婚外愛から始まったのはそのためです。先に話した通り、そこには「性愛は法(婚姻)を超えた非日常」という初期定住からの伝統も効いています。性愛は万年単位で「生き辛い日常からの逃避」だったのです。

この歴史は、あなたが仰ったような、昔は当然だった「恋愛したい!」気持ちを、理解するのに重要です。注目点は、しきたりを含む法生活が厳格なほど、社会から逃げる法外の性愛が享楽になること。フロイトが「法に従わせる超自我が法外の享楽をも与える」とした二重性もそれです。さて、逃避(駆け落ち)ran awayというキーワードが出て来ました。

何回も語りましたが、性愛の営みを「リア充」と呼ぶ、性愛が困難な今世紀の若年世代の語法は、性愛が逃避であるという万年単位の伝統を毀損します。実際、社会ないし日常で「良し」とされるものを愛でる属性主義が、性愛を汚しています。「社会の外」にあった性愛が、「社会の中」にある結婚と同じ図式に頽落しました。これは無意識を抑圧します。

社会(の代理人)に抑圧されて「Aは快/notAは不快」と意識する際、無意識は逆に「Aは不快/notAは快」の隠喩的二項図式を蓄積します。前編で話した通り、定住以降の祝祭と性愛には、抑圧された無意識を解放する機能がありました。それで生き辛い社会を辛うじて耐えられたのです。祝祭も性愛も法内に登録された若い世代が、生き辛くて当然です。

実際、少し前まで「恋愛したい!」が当然だったのは、性愛が逃避だと意識されていたからです。そう意識できなくなったのは、「言葉・法・損得」に閉ざされる、80年代を通じた「新住民化」のせいです。公園遊具撤去や、屋上や校庭のロックアウトや、焚火や秘密基地の禁止や、よそんちでの御飯や風呂の禁止によって象徴される、安全・便利・快適化です。

これは、60年代の「団地化」で、教室に団地の子しかいないような環境で育った子が、80年代には親になったからです。ちなみに、僕は団地で生まれ育った第一世代ですが、小さな団地だったので、教室には団地・農家・お店屋・医者・ヤクザの子らがいて、出身家庭・性別・年齢のカテゴリーを超えて「黒光りした戦闘状態」で団子になって外遊びしました。

それが失われたのが80年代の「新住民化」です。そこで育った子が成人する90年代後半から「性的退却」を含む関係の希薄化──過剰さによるKYを恐れてキャラを演じる──が拡がります。直前までのチーマーやコギャルが嘘だったみたいに、全力で視線を避ける「微熱のない街」になります。それで、あなたが言う「恋愛したい!」が消え始めたのです。

つまり「恋愛したい!」が消えたのは、「社会の外」の緩衝帯である祝祭と性愛が、若い人から見えなくなったからです。90年代後半に成人する世代が中高生だった90年代前半から「登校拒否」(90年代後半に不登校と改称)が問題になり、彼らが社会に出る21世紀から「引きこもり」が問題になったことは、性的退却と生き辛い化のシンクロを示しています。

流れを少女漫画の変遷で跡付けられます。『サブカルチャー神話解体』から抜粋します。革命期や平安期の波瀾万丈の物語ではなく、少女らが日常で憧れる非日常として恋愛が描かれ始めたのは、73年の乙女ちっくから。当初は恋愛が苦手な主人公でしたが、77年からは、乙女ちっくで始まったカワイイカルチャーの延長上で、恋愛する主人公が描かれます。

77年からの変化は、カワイイカルチャーの「ロマッチック」から「キュート」へ、「サンリオ」から「ディズニー」へ、「繭ごもり」から「カワイイで武装した踏み出し」への移行で跡付けられます。実は、デートカルチャーの始点でもあるこの77年から、性的退却が始まる96年まで、漫画・映画・歌謡曲などで「逃避行」「駆け落ち」がキーワードになりました。

「恋愛したい!」の時代には、いざとなればran away(駆け落ち)する覚悟があることが「真の愛」とされました。この「真の愛か/偽の愛か」というコードゆえに少女らが「恋愛したい!」と思ったのです。「全てを捨てて逃げる覚悟」ができる相手が現れるかどうかが、「真の恋愛」ができるかどうかと同じ意味を持つ。実にわくわくする枠組でしょう?

僕の初交は大学でできた恋人が相手ですが、ピロートークであれ「一緒に全てを捨てて逃げられるか」と問い合い、極く自然にイエスと答え合いました。18世紀初頭からの世話物の伝統が流れていたのです。77年からのデートカルチャー=「性と舞台装置の時代」は、ナンパ・コンパ・紹介の「軽さ」から一緒にran awayする「重さ」までのスペクトラムでした。

87年にはゲイの恋愛映画『モーリス』が大ヒットします。これも、同性愛や階級差という困難を乗り越えるべく社会を捨てる恋愛を描いていました。同性愛差別であれ家柄差別であれ、社会が立ちはだかった時に全てを捨てて一緒に逃げられるかで「真の愛か/偽の愛か」が分かるという話です。ただし同時代の「性の自己関与化」との関連が問題になります。

87年から、男の視線を無視して扇子踊りする「お立ち台ディスコブーム」、自分が一皮剥けて輝くための『an・an』発の「読者ヌードブーム」、横浜国大の現役生だった黒木香発の「素人大学生AVブーム」など「性の自己関与化」が始まり、92年からの援交ブームに繋がる。これらは「真の愛」への高い願望水準ゆえの、期待外れの結果だと考えられます。

80年から大学生や専門学生が働く「ニュー風俗」(ノーパン喫茶・のぞき部屋・デークラ…)がブームになり、85年から世界初の出会い系であるテレクラに中高生から主婦まで参入し、80年代を通じて高校生の性体験率が倍増しますが、「待ち合わせてマクドでテイクアウトしてラブホでエッチして終了」という展開に不満を抱く若い女たちの声を多数聞きました。

象徴的なのが86年のトップアイドル岡田有希子の自殺に影響された中高生女子2人組での連続投身自殺。85年から11年間ナンパ師だった僕は、親子ほど離れた俳優に恋する他なかった岡田有希子の「恋愛の不毛」に共感する若い女たちの述懐も多数聞きました。その流れで、92年に高校生援交の拡大に気付いて「とうとうそうなっちゃったか…」と思いました。

92年から96年までの高校生援交は「金のない不良少女」ならぬ「裕福な成績優秀者」(普通クラスならぬ進学クラスの、皆が憧れる子)が主導しました。カッコ悪い子ではなくカッコ良い子がやったからこそ爆発的に拡がったのです。彼女らの多くが「金を貰わないとセックスなんてやってられない」とグチりました。ここにも高い願望水準を見てとれます。

──映画『モーリス』は一九八七年の作品ですが、女性たちに大きな影響を与えたと聞きます。異性愛ではそういう物語が消費され過ぎて、純粋に観ることが出来ず、同性愛を描いた本作に多くの女性は感動したと。

宮台 観客は異性愛が大半で、「真の愛」を異性愛で描くと、それが得られない自分に刺さり過ぎます。恋愛が一般的でない時代には「恋愛したい!」を触媒しても、恋愛経験を重ねた人が増えると、願望水準の高い人には異性愛の「真の愛」の描写がキツくなる。昨今のBLはこれに似ますが、願望水準が下がって「絵空事の代理体験」に頽落しています。

──男女関係だと男は女をコントロールしてきたり、嫌な面が浮かぶけど、男同士だと対等の関係に見える。そういう風に対等な関係を望むなら、BLを応用して異性愛をすれば良いのに、と思うんですが、なぜかそうはならないんです。

宮台 単純で、いま話した通り「現実にあり得ない」と思うからです。なぜそう思うのか。80年代に入るまでは普通にあり得た「カテゴリーを越えてフュージョンする子供時代」を経験しなかったという意味で「育ちが悪い」からです。性愛で「カテゴリーを超えたフュージョン」があるかどうかは、「教師と生徒の性愛」が現実的かどうかに如実に表れます。

性的退却が始まる96年まで「教師と生徒の恋愛」が普通でした。93年にはドロドロの教師生徒恋愛を描く野島伸司脚本『高校教師』が大ヒットしました。援交で取材したある新宿の女子高では多くの生徒が知る状況で国語教師が五人の生徒と曜日替りで性交していました。僕が東大で知り合った子たちにも高校時代に教師と恋愛関係にあった子が三人いました。

これは今は権力関係みたいに言われますが、当時はそう誤解しがちな社会から外に「逃げる」という意味合いが「教師と生徒の恋愛」にありました。これがセクハラの類いだと見なされるようになったのは96年から。96年に、セクハラの言葉が人口に膾炙し、ストーカーの報告が激増し、18歳未満の性交を禁止する条例改正が岐阜県を皮切りに全国化します。

これが性的退却の開始時期にシンクロするので、条例改正の拡大やそれを受けた後の日本会議に繋がる団体による97年からの性教育批判が、性的退却の原因だとする向きがありますが、誤解です。性愛界隈でもオタク界隈でもその他の界隈でも、過剰さを「イタイ」として忌避する動きが蔓延。KYを気にしてキャラを演じる「関係の表層化」が拡がったのです。

誤解は、原因と結果の取り違え。60年代「団地化」と80年代「新住民化」を経て90年代後半になると、親世代も若い世代も「社会=言葉・法・損得」に閉ざされるようになります。その流れで性愛に「社会の外」を見る構えがなくなった。「教師と生徒の恋愛」の禁圧は、性愛にフュージョンならぬコントロールを専ら見出す「社会への閉ざされ」の一帰結です。

「社会=言葉・法・損得」=コントロールの界隈。「社会の外=言外・法外・損得外」=フュージョンの界隈。コントロールonlyだと力を失って生き辛くなるから、時にそこから逃げてフュージョンするのが、祝祭と性愛の営みでした。教師と生徒は「社会」が与えるカテゴリー(言葉と法)。「社会の外」に出ると、高校であれば恋愛も性交も可能な男と女です。

「社会」では教師と生徒。でも「社会の外」に出ると男と女。その落差に価値を認める構えが芸能や芸術の表現に留まらず、思春期以降の女子にも普通にあった。ちなみに僕と同世代の友人に、交際が親バレして結婚した教員が何人かいます。「教師と生徒の恋愛」が自由自在だったと言えば言い過ぎで、「超えられるハードルがあった」が正しい言い方です。

──それで思うのは、例えば、教師と恋愛している女の子がいるとして、その子が友だちに相談すると、友だちは「それはおかしい。あなたは先生に弄ばれている」と言いがちですよね。その友だちの発言は「社会の中での、強い者と弱い者の関係において被害に遭っている」という言い方だと思います。本人は社会の外にいるつもりで、友だちの考えとは違うとしても、友だちは社会に準じて発言してくるから、それに負けそうになる。「あれ? 私…悪い目に遭っているの…?」と思ってしまう。こういう風に社会からの揺り戻しがすごく強い気がします。

宮台 社内恋愛禁止も同じです。社内には階級のみならず職掌もある。カテゴリーにこだわれば完全に対等な関係はない。それでも「性愛は社会を超える」という共通感覚があって、「権力を背景に弄ばれている」と一方的に塗り込める営みはありませんでした。今は人々が劣化して、あなたがそうであるように、社内で性愛的に誘われることがなくなったのです。

詳しく言えば、「教師と生徒の恋愛」も「社内恋愛」も、はじめは友人から「弄ばれてるんじゃないの?」と疑念が示されることはありましたが、本当の姿が分かって貰えてからは「だったら応援するよ」となったものです。そんな時代には、本当の事情も聞かずに、飽くまで社会に準じて発言してくるような人は、躊躇なく友人リストから除外しました。

──そこでも本物かどうかが問われるわけですね。もちろん実際に立場を利用して、社会的な関係で迫ってくる人もいるだろうし、ギリギリのことではあるわけですね。

 

「社会の外」が想像出来ない時代

宮台 四半世紀も映画批評をしていれば分かるし、定点観測的に学生らに尋ねても分かりますが、今は「社会の外」という概念が僕らとは違います。僕らにとっては「社会の外」には性愛と無礼講的祝祭という「緩衝帯」があり、それは自分ら次第で作れる時空でした。でも今の若い人には緩衝帯がないので、「社会の外」がいきなり恐怖の対象になるのです

イウリ・ジェルバーゼ監督『ピンク・クラウド』(2020年)という映画が今春公開です。コロナ禍前に撮られたのですが、ピンクの雲が出ている時に外に出ると死ぬので全世界の街がロックダウン状態という設定。コロナ禍を予言したと話題です。でも注目すべきはそこではない。「緩衝帯抜きの未規定な外部」の蔓延が隠喩されていると見るべきです。

それを引き取ると、今の若い人々にとって「社会の外」は、「得体の知れないクラウド」なのです。陰謀説好きのトランピストにこの数年流行したプラトン流の「地球平面説」も象徴的です。「地面の円盤プレートの外は、得体の知れない奈落があるだけ」という世界観。通常性に覆われたスフィア(圏)の外は、未規定な地獄。それが今時の「内と外」なのです。

祝祭が禁じられたり性愛が憚られたりするコロナ禍は、奇しくもそれを加速しただけです。本当に気の毒です。そんな世界観を生きた人々は人類史上いないのです。定住以降、法生活の必要から「社会=言葉・法・損得の時空」ができたけど、そこに閉ざされると生き辛いので、必ず「社会の外=言外・法外・損得外の時空」として祝祭と性愛が保証されました。

イスラム教のように法生活が厳格な社会もありますが、経済人類学者の栗本慎一郎がカール・ポランニを引いて説いた通り、内圧を高めて祝祭と性愛を爆発させる機能を果たしてきました。ムスリムの中田孝氏は僕に、ラマダン(断食月)は苦行だと思われがちだが、実際には日没後やラマダン明けの宴の享楽があるから耐えられるのだとおっしゃいました。

ピースボートに乗船してイスラム圈を回った時、ヒジャブ(女が頭や身体を覆う黒布)はさぞ辛いでしょうとイスラム教徒に尋ねたら、「日常は辛いけど、ヒジャブの下にエロチックな下着をつければベッドタイムでは享楽が爆発します。オンとオフの落差ですよ」と教えていただけました。思えば、死後の享楽世界を説く教義にも形式がシンクロしています。

祝祭好きの僕が全国の祭りを回っていた時、七年周期で巡る諏訪の御柱祭りを見た後、現地の方に「これからの六年、辛いですね」と尋ねたら、「いいえ、祭りに向けて一年一年内圧が高まり、七年目で爆発するのです。むしろこれで良いのです」とおっしゃいました。性的禁圧と祝祭的爆発のオンとオフは、少し前まで東海地方にも強烈に残っていました。

これらに比べると、日本の若い人は気の毒です。オンとオフの切替えがなく、「社会=言葉・法・損得の時空」への閉ざされが永続します。あるのは、安全・便利・快適な社会に登録されたインチキ祝祭とインチキ性愛だけ。性愛の営みを「リア充」と呼ぶ始末。「ここではないどこか」を開示する時間軸がない。「ここ」だけがある。生き辛くなって当然です。

なので、今世紀はパラレルワールドのブームです。学問界隈では量子力学の「多世界論」、宇宙物理学の「多宇宙論」、人類学の「多自然論」などがあり、界隈毎に違ったパラレルワールドのイメージですが、これが同時にブームになるのは、「ここ」しかないという諦めのせいだと思います。というのも、今世紀のSFは「転生もの」のオンパレードだからです。

地球平面説の円盤プレートに擬えれば、「円盤の外はないけど、円盤は幾つもあるよ」と描く訳です。パラレクワールドのブームと転生もののブームが並行する意味が分かるでしょう。僕に言わせれば「ここ」に閉ざされた挙句の貧弱過ぎる想像力。緩衝帯はどうした?緩衝帯では、「ここではないどこか」が、一時でもリアルな手触りを伴って体験できるのに。

──エンタメの分野でも転生ものが長らく流行しています。社会の外をイメージ出来ない場合は、別の世界に行く。別の社会はルールが違って、そこに転生すると自分にとって都合が良い。社会が都合良く変わってくれれば良いという願望かもしれません。

宮台 それって頓馬です。そんな空想に浸っている限り、良い祝祭も良い性愛も不可能なままです。80年代以降、社会から広汎に祝祭と性愛が消去される動きがあるとはいえ、90年代半ばまでは一部の人が何とか工夫して局域的にせよ法外の祝祭と性愛を回復しようとしていました。90年代半ばまでの、クラブ然り、スワッピング然り。今だって工夫次第です。

──転生ものがエンタメの主流になっているということは、この社会はつらいと感じてはいるんですよね。でも、想像の世界でも、社会から出ることは考えにくい。

 

避難所を持つこと
体を動かすこと

宮台 日常がツマラナイと感じた時、「逃げ場」として祝祭や性愛があったと話しました。日常は「しらふ」ですが、祝祭や性愛は「眩暈」。祝祭や祝祭時の性的無礼講は時間的に定期でめぐりますが、文明化=統治の広域化に伴い「眩暈」の非日常が空間化されます。典型が宿場町。「盛り場」があり、奥に「芝居町」があり、更に奥に「色町」がある形です。

芝居も色も「眩暈」なので、芝居町と色町を「悪所」と言います。江戸幕府は初期から「悪所」を集約します。芝居町は木挽町・堺町・浅草猿若町。色町は浅草吉原(当初は人形町の旧吉原)。宿場町では盛り場に伴う芝居町と色町が「逃げ場」。江戸では集約された芝居町と色町が「逃げ場」。いずれにせよ盛り場は、定期の祝祭を代替する「逃げ場」です。

芝居町や色町を含めて盛り場は不思議です。そこに行けば、自分のことは誰も知らないのに、馴染んだ作法と形式がある。社会学者の磯村英一は、60年代までの日本の都会を観察し、流動性が低いホーム=第一空間、流動性が高い職場=第二空間に対し、流動性が高いのにホームのように馴染める盛り場(芝居町・色町を含む)=第三空間を描き出しました。

第三空間は寄る辺なき人に感情的安全を与えます。今の都市にそうした第三空間がありますか。東京のホットスポットは、浅草(戦間期前期)→銀座(戦間期後期から戦後)→新宿(60年代)→原宿(70年代後半~80年代)→渋谷(90年代前半)と移動しましたが、全てに第三空間としての彩りがありました。90年代後半にそうしたスポットが全滅します。

映画評論家淀川長治が言うように映画館も「逃げ場」でした。入替制じゃなかったので朝から晩まで煙草を吸いながら入り浸る人もいました。94年に取材・MC・一部台本に参加したETV特集『シブヤ・音楽・世紀末』に登場するクラブも「逃げ場」でした。子供の頃からそれを知っているから、大人になると窮屈になる一方でその「逃げ場」を使えたのです。

都会に「逃げ場」があった時代。都会のいろんな場所で視線が合った時代。視線が合うところからナンパが始まった時代。特定の場所にいるだけで仲間感覚が得られた時代……。それを僕は「微熱のある街」と呼びます。ところが、80年代に郊外が「新住民化」し、それでも都市がアジールだったのが、少し遅れて90年代後半から都市さえも微熱を失いました。

公園のブランコで跳んじゃダメ。焚き火しちゃダメ。花火の横打ちはダメ。秘密基地はダメ。蝋石の落書きはダメ。よそんちで御飯を食べたり風呂に入ったりはダメ。知らない人と喋っちゃダメ。年齢や性別や出身家庭のカテゴリーを超えて「団子になって」遊ばなくなった。そんな子が長じて街に「第三空間」を作れる筈もない。だから都市が冷えました。

今の「逃げ場」はどこか。先に話した90年代からの「登校拒否→不登校→引きこもり」の流れで、「逃げ場」はせいぜい学校の保健室くらいになりました。なぜ引きこもるのか。精神科医はいろいろ言いますが、社会学者の僕に言わせれば、家の外に「逃げ場」がなくなったからです。一つ屋根の下で自室に逃げるのは最悪ですが、そうなってしまったのです。

──私も小学生の頃は、秘密基地を作っていました。建物がなくなって木がぼうぼうのところに、ものを集めて、友だちと遊んでいたんです。おばあちゃんの家で焚火をやって、すごく感動したことも覚えています。やってはいけないことをやれる環境があるというのが嬉しかったのかもしれません。編集部にバイトに来ている女性たちも、子供の頃は野外で男の子と遊んでいた経験がある人が多かったです。

宮台 それなら簡単です。あなたにも申し上げた通り、「真の恋愛」がしたければ、記憶の中にある子供の頃に戻れば良いだけです。前編で『ラストタンゴ・イン・パリ』に即して話したように「性愛は子供に戻るための時空」です。言外・法外・損得外で自由に遊べた子供時代を覚えていれば、「真の恋愛」は難しくない。それが分かれば、前進あるのみです。

じゃあ、カテゴリーを超えて言外・法外・損得外でフュージョンした記憶がない子が量産されるのをどうするか。修学前の「森のようちえん」プロジェクトや、修学後の「森のキャンプ実践」プロジェクトに、僕が関わるのは、「カテゴリーを超えて言外・法外・損得外でフュージョンした記憶」を刻んで貰うためです。でも、いったい誰が参加できるのでしょう。

90年代前半、当時の文部官僚寺脇健氏に協力して体験学習(総合的学習)を推進しましたが、①資質ある教員が既に少なかったこと、②長時間勤務を問題にした日米構造協議もあって「ゆとり」の意味が週休二日とカリキュラム軽減に変質したことで、実質を失いました。それゆえ、マクロではなく、ミクロからの変革を拡大するしかないと思っています。

これを古くは『風の谷のナウシカ』から「風の谷戦略」と呼び、この数年は「社会という荒野を仲間と生きる戦略」と呼びます。でも、固定した地域でやれば他の地域が放置されるし、送り迎えの時間的・金銭的余裕がある家庭の子だけが参加します。この欠点を塞ぐために各地を移動しながらの「旅芸人戦略」を参加費を抑えて展開することを考えています。

──今回のお話で共通していると思ったのは、「自我がなくなる」ということです。例えば、『ラスト・タンゴ・イン・パリ』で、自分の身の上を話さないとか、自分が誰でもない場所を避難所として設けるとか。社会との関係で自我がある場合に、それを忘れる、それがなくなる感覚。宮台さんも何回かお話してくださいましたが、その感覚に触れられる映画はロールモデルとしてありませんか?

宮台 『ラストタンゴ~』以外にも多数あります。洋画ではテレンス・マリック監督『シン・レッド・ライン』(1999年)、邦画では山本政志監督『ロビンソンの庭』(1987年)が強力です。でも、これらは『ラストタンゴ~』を含めて、鑑賞前のプレトークで「どこに注目するか」を伝えないと、いきなり一人で見ても難しいだろうと思います。

プレトーク付きの映画鑑賞会は既にやっています。僕に尋ねて参加して下さい。別にお薦めしたいのは今から武術をやること。他のスポーツと違って武術はいつからでも始められます。危険を感じながらの営みであることも武術の特徴です。危険を感じる営みではクライミングやサーフィンを含めて自我が消えます。自我があれば反応が遅れて大ケガします。

また、武術をやるだけで「リアル≒ユニバース」と「VR≒メタバース」の決定的違いを理解できます。VRで武術やクライミングやサーフィンをしても享楽がありません。運次第では死ぬかもしれないからこそ、武術やクライミングやサーフィンの享楽があります。それを知らない頓馬が、メタバースがユニバースを代替できるなどと妄言するのです。

──実際に体を動かすほうが良いんですね。なかなか映画で見たりすることは出来ないですか…。

宮台 というより、一人でやるというのがまずいのです。プレトーク付き映画鑑賞会(+ポストディスカッション)も、複数の人が一緒だから学びになります。武術も、師範から伝授されるから学びになるのです。映画であれ武術であれ、自我が消えるとは──能動から中動にシフトするとは──どういうことかを学ぶのは、一人だけでは難しいと思います。

 

社会の外に一緒に出られる
人を見つける

宮台 映画は情報量が限られます。だから文脈を補うためにプレトークやポストディスカッションをします。観客は、記憶のアーカイブを文脈として持つので、映画に含まれた情報よりも多くの情報を体験します。だから、ソシュール流のシニフィアン・シニフィエの二項図式に、解読装置を加えた三項図式が適切です(J・ホフマイヤー『生命記号論』参照)。

プレトークやポストディスカッションは、解読装置としてのあなたの性能を上げる実践です。それが必要なのは、映画の情報量が限られるからです。その点、映画にロールモデルを探すより、現実にロールモデルを直接探す方が適切です。なぜなら、現実の相手には継続して接触できるからです。誤解していても、現実の相手ならば正してくれるでしょう?

では、どんな相手を探すか。まず、この社会はツマラナイと思っている人を探す。不遇だからツマラナイのではなく、恵まれていそうなのにツマラナイと感じている人を見つける。そういう人は、もっと都合が良い社会を望むよりも、社会の外に出ることを望むからです。これを僕は「<内在系>よりも<超越系>を探せ」と表現してきたけど、覚えていますか?

別の言い方をすると、「この社会で自分はそれなりにポジションを取った勝ち組だから、これで良い」みたいな人は、例外なく「言外・法外・損得外」で「同じ世界で一つになる」力がない。そんな人は、マッチングアプリでは良き属性を持つ人として現れても、あなたをコントロールしたがるだけで、フュージョンして二人が一つのアメーバになれません。

関連して次に、自己肯定感に満ちた人を避ける。自己肯定感が低過ぎる人は「埋め合わせ」のためにあなたを使うのでダメですが、自己肯定感に満ちた人は「ここではないどこか=社会の外」に出ようとしないからダメ。「自己肯定感に翳りがあるけど、そんな自己の外に出る力に自信がある人」を探す。コーチングでは「自己肯定感より自己効力感」と言います。

自己肯定感は必ずそれを支える社会的セッティングの肯定を含みます。だから自己肯定感が高過ぎる人は例外なく「ここ」を肯定してしまいます。その人が社会変革の必要を訴えていても同じ。「社会が良くなれば人は幸せになる」と思っているからです。「社会がどうあれ結局ツマンナイ。だから社会から遠くに一緒に逃げようよ」といざなう人を探します。

社会的通念の枠内で、自分を粉飾決算的に物語化して良く見せようとし、相手にどう見えているのかを気にしている人は、所詮は「クズ=言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシーン」です。前編で挙げた二項図式を思い出して下さい。相手にこの二項図式の重ね合わせがあって、あなたを「子供の幸せ」に連れていこうとしていれば、その相手は本物です。

大人/子供
うそ/正直
社会/性愛
正気/眩暈
自我/忘我
快楽/享楽
相対/絶対
言語/言外
法内/法外
損得/損得外
不自由/自由
孤独/非孤独
なりすまし/なりきり

──メディアが持ち上げるハイスペック男というのは、社会的な成功者ですよね。ここに惑わされない方が良いんでしょうね。確かに私も、「俺、仕事出来るんだぜ!」みたいな人はあまり好きではありません。それしかないのかな…と感じてしまって。

宮台 あなたはそういう男を「ツマラナイ奴」だと感じているのだから、めちゃめちゃ見込みがありますよ。ならば、なぜ「ツマラナイ奴」と感じるのかを深めるのです。そのための材料を長く語ってきました。要は、「社会に適応して、うまくポジションを取ったぜ」という類の自己肯定感に閉ざされている男は、例外なく「ツマラナイ奴」だということです。

──なるほど。そういう人の話を聞いていると、「それが良いでしょ?」みたいな雰囲気を出してくるのですが、うまく合わせられなくて。

宮台 そこが本質です。「真の恋愛」の価値からいえば「俺は成功者だ」なんてことはどうでもいい。前に言ったけど、「性愛の時空」と「社会の時空」は別ものです。「性愛の時空」に「俺は社会でスゴイぜ」なんて話を持ち込んだら、パワハラに近い「イケズ」です。他方、「社会の時空」に「性愛の時空」を不用意に持ち込んだら、「猥褻」になります。

人々の感情が劣化した今は、「社会の時空」に「性愛の時空」を持ち込んだら「猥褻になっちゃう」という面だけ理解され、「性愛の時空」に「社会の時空」を持ち込んだら「イケズになっちゃう」という面が忘れられました。マッチングアプリの属性主義が象徴的ですね。性愛に社会を持ち込むことは、色町あるいは花柳会では端的にイケズだったのです。

明治期までは文豪や政治家が太夫や花魁を娶ることは最高の栄誉でした。そこでも文豪や政治家が「俺はスゴイ文豪だ!政治家だ!」の類の意識を取り外せるがポイントでした。それを感じた花魁が「この人はスゴイ」と思ったのです。「俺がスゴイと言われても所詮は仕事のなりすましで、それを誉められても嬉しくない」と語れる人かどうかが問題でした。

──確かにそのほうが興味を引かれます。今回は映画作品などを皮切りに、ロールモデルとなること、社会の外についてお話いただきましたが、引き続き、その社会の外にも通じる、「同じ世界」とは何を指すのかについて、読者からも知りたいという声が多かったので、お話できればと思います。このあとの話題はWEB版第二部に掲載されますので、引き続きよろしくお願いします。

 

性愛に踏み出せない女の子のために
※本書に続く話題は、引き続きWEBの第二部として掲載します。あわせてお読みください。