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性愛に踏み出せない女の子のために 第7回WEB版 中編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第7回WEB版 中編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2022年9月15日発売号で第7回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第7回WEB版は、前編、中編、後編にわけて、「世界を深く体験すること」「愛と奇跡の感覚」「絶対性へ」についての話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

季刊エス79号に第7回が掲載 https://amzn.to/3Dzp9Mr
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
第4回は「季刊エス76号」https://amzn.to/3I6oa57
第5回は「季刊エス77号」https://amzn.to/3NRfjYD
第6回は「季刊エス78号」https://amzn.to/3xqkU0V
第7回は「季刊エス79号」https://amzn.to/3Dzp9Mr


宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。


中編
世界を深く体験するということ


──オーガズムの時には、忘我状態になったり、自己の防壁が壊れたりするわけですが、特に自意識について固執している人の場合、壊れることが素晴らしいと思えるんでしょうか?

宮台 そのままではダメ。でもリミッターを外せばOK。それが子供時代の「黒光りした戦闘状態で、同じ世界で一つになった体験があるか」というフュージョン問題です。「森のようちえん」はそれをセッティングします。その中で子供は自動的にフュージョンします。

前に話したように、ワークショップでは、その体験がある人には「同じ世界で一つになれていた昔の体験を思い出そう」と促します。あなたにはその体験があるので促されます。体験がないという人も、格闘技や激しい球技をやった体験を想起してもらえば大丈夫です。

人は出生後も「個体発生は系統発生を繰り返す」。例えば異国の子同士でも程なく仲良く遊べるようになる子供の能力は昔の人類に備わっていました。それは言葉がもっぱら掛け声のようなものだったから。記述より遂行、表現より表出、散文よりも詩に近かったのです。

復習ですが、ネアンデルタール種やデニソワ種を含めたホモ属は7万年前から歌を唄うようになりました。ところが4万年前からサピエンス種だけが歌の遺伝子FOX-P2の機能不全でストリームがぶつ切れになって語彙が生まれ、歌と区別された言葉ができたのですね。

歌と区別された言葉が出来ると情報量の大きい伝承が可能になり、サピエンス種だけが旧石器(打製)から新石器(磨製)に技術革新し、分業的組織も複雑化しました。それが氷河期が厳しかった4〜3万年前にサピエンス種だけを生き残らせることになったのです。

とはいえ、役人が文字言語を使って統治する大規模定住(文明=高度文化)までは、ほとんどの人には音声言語しかなかったので、散文言語より詩的言語が優位でした。文字と違って音声は近傍にしか届かず、韻律や挙措やピッチや抑揚での感染が機能を果たしたからです。

詩的言語とは、歌と区別された言葉を、歌のように使うこと。楽しい歌は周囲を楽しくします。でも「彼は楽しい」という言葉は必ずしも周囲を楽しくしない。でも詩人の言葉は歌と同じく周囲を感情的・身体的に巻き込みます。ミメーシス(感染的摸倣)と言います。

詩的言語とは、周囲の皆が「同じ世界で一つになる」ための言葉です。子供の言葉が詩的だとはそれ。そこでは意味内容より挙措やピッチや抑揚が重要です。掛け声のような言葉だとはそれ。大人になるにつれ、言葉の用法が、詩的なものから散文的なものになります。

性愛が劣化した若い人は言葉のこうした用法の違いをわきまえるべきです。性愛の時空で機能するのは散文的よりも詩的な言葉です。誌面版で詳しく話した「睦言(むつごと)」がそれ。記述による情報伝達つまり能動の表現ではなく、感情的・身体的な巻き込みを伴う中動の表出です。

言葉・法・損得勘定が優位の「社会の時空」と、言外・法外・損得外のシンクロが優位の「性愛の時空」は別のものだと話してきましたが、「社会の時空」では散文言語=ロゴスが優位し、「性愛の時空」では詩的言語=歌みたいな言葉が優位するとも言い換えられます。

人類は昔、皆が「同じ世界」に入るために言葉を使った。しかるに個体発生は系統発生を摸倣する。ゆえに子供は大人よりも「同じ世界」に入るための言葉が得意だ。ならば大人は子供時代に出来たことを想起し、目の前の子供らを摸倣して「性愛の時空」に入ればいい。

「コントロールのための言葉からフュージョンのための言葉へ」とも言い換えられます。最近になるほど「ロリコン」が増えるのは、感情的に劣化した大人がコントロール厨になったから。子供の頃をリマインドできる大人は子供に好かれても、ロリコンになりません。

性愛ワークショップでは子供時代の体験の想起がポイントです。子供時代の体験を思い出せない人ほど、「それは現実にはあり得ない」という願望水準のリミッターが働きます。だから、大規模な性愛的劣化の手当てには、子供時代の成育環境の改善が有効なのです。

僕の子供時代みたいに、団地の子・農家の子・お店屋の子・医者の子・ヤクザの子らが、年齢と性別を超えて日が暮れてもドッチボールやゴム跳びや焚き火をし、よそんちで御飯を食べて風呂に入るといった「カテゴリーを超えてフュージョンする体験」が大切です。

単に昔に戻れというのではありません。①昔はあって今は失われたものに敏感になり、②失われたものの機能に注目し、③その機能を今あるリソースをどう組み合わせれば再構築できるかを考えるのです。こうした構えを「システム理論の機能的思考」と言います。

──「社会の外に出る」「自分がなくなる」という感覚を体験してみたいと思うかどうかもありますね。

宮台 人類史をみると、定住化して大きくなった集団には必ず祭りがある。①定住を支える農耕に必要な計画や集団作業のため、②収穫物の保全・配分・継承の紛争処理のため、さして親しくない者との法の共有が必要ですが、法生活が不自然なので祭りがあるのです。

祭りとは「ケ(気=力)→ケガレ(気枯れ=力の枯渇)→ハレ(晴れ=力の再充填)→…」という循環における「ハレ=力の再充填」です。祭りでは法のタブーとノンタブーが反転し(無礼講)、定住以前の「言外・法外・損得外のシンクロ」が取り戻されるのです。

祭りは社会の外に出る営み。社会とは言語・法・損得勘定が優位する時空なので、定住以前に社会はない。しかるに、祭りがない定住社会は元々一つもない。そこから判るのは、「社会の外に出る=社会が定めた自分がなくなる」のは普遍的=ゲノム的欲求であることです。

ところが、資本増殖に必要な計算可能化が、共同体の文脈に縛られた生活世界を、マニュアル通り役割を演じられれば誰でもOKという文脈自由なシステム世界に置換。汎システム化で祭り(無礼講)に必要な共同体が消え、やがて社会の外で一つになる性愛も消えた。

これは過去40年の展開で、この短期間で僕らのゲノムが変わることはない。それはキャンプ実践で焚き火をすると誰もがフュージョンする事実が示します。とすれば問題は社会の都合による文化的上書きです。実存的には「願望すると辛いから願望を折り畳む」訳です。

──前回にメタバースの話題になりましたが、「自分の肉体をどうとらえるか?」という身体性の問題は、今が分岐点のようにも感じます。もっと以前だったら、みんな子供の頃に男女混じって遊んでいた記憶があるけれど、どんどん少なくなるだろうし、一方ではメタバースが浸透してきて、「肉体なんてどうでも良いか」と思うようになるかもしれない。「この先、人間の実体験ってそんなに必要ですか?」と思う人たちが出てきていますよね。

宮台 それは「良い社会」とか「良い人生」とは何かという価値観の問題です。抽象的にはアリストテレス『ニコマコス倫理学』の「処罰があるから人を殺さない社会と、殺したくないから人を殺さない社会と、どちらが良いか」という問いと同じ構造です。敷衍します。

神山健治らの『攻殻機動隊SAC2045』シーズン2が示す通り、万人が各人向けにカスタマイズされた「一人に一つのメタバース」に収容され、エネルギーや資源を含めた全体調整を「神の座」に座る超エリートが水面下でおこなう、という社会が、既に構想されています。

このシーズン2は、様々な経緯ゆえにもはやその構想に従うしかなくなった社会で、しかし「神の座」に座る超エリート(シマムラタカシ)を、その構想に従うしかないにせよ違和感を抱く者(草薙素子)が、監視し続けるというビジョンを示します。優れた洞察です。

洞察が優れるのは、今の技術水準におけるメタバースの身体性の乏しさが、どのみち技術的に克服されることを前提にするからです。現段階でもトレッドミル的デバイスでの全力疾走や、痛みを含めた触覚を与えるボディスーツが開発され、実用化されつつあります。

御存知の通り、テスラやスペースXで有名なイーロン・マスクが、脳内電極刺激で視聴覚以外の触覚・味覚・嗅覚を再現する研究に巨額投資していて、やがて現実化されます。黒光りした戦闘状態で「同じ世界で一つになる」営みがメタバース内で可能になるのです。

購買は投票(Buying is voting)。人々の購買が帰趨を決めます。だからこれからは購買=投票を巡る競争になります。一つはユニバース(リアル)とメタバースの間での身体性の享楽を巡る競争。もう一つはメタバースとメタバースの間での身体性の享楽を巡る競争。

いずれの競争にも同じ前提があります。技術進化の速度と、人々が身体性の享楽を忘れる速度との関係次第で、どの程度の身体性の享楽が需要されるのかが、経路依存的に決まることです。人々の忘却速度の方が速ければ、競争で残る身体性はショボイものになります。

僕の価値観は明確です。いずれの競争においても高い身体性の享楽が残る方が良い。加えてメタバースよりユニバースに高い身体性の享楽が残る方が良い。「神の座」に全て委ねるのは、危険はもとより、世界が「神の座」次第になるという倫理的問題を孕むからです。

倫理的問題は、世界はこの人が作ったという観念に人々が耐えられないのに、それでいいのかということです。この社会はこの人が創ったという英雄譚は至るところにあっても、世界(総ゆる全体)をこの人が創ったという創造譚はどこにもない。二つ理由があります。

第一は、世界創造者は世界外にいる必要があること。人は世界内にいるので世界を創れません。第二は、社会学者ルーマンの指摘。創造者次第で世界はどうにでもなるが、この世界の偶発性が人ならぬ超越的存在に帰属しないと、人は耐えられないという問題です。

将来、メタバースに入った人々から、それがメタバースだという記憶を消し、メタバース外に出られなくすれば人が世界の創造者になれます。メタバースに入った創造者から創造の記憶を消すこともできる。としても、特定の人が世界を創ったという事実は消えません。

確認すると、技術が進めばメタバースでも身体性を育めます。でもメタバースであれユニバースであれ身体性を育むことへのニーズがいつまでどれだけ残るのか。ニーズが消えれば、ユニバース同様、メタバースでも身体性なき時空が拡がります。それでいいのかです。

メタバースの技術進化の速度を超えて、日本や米国で身体性の劣化が進んでいます。日本はヒラメ・キョロメだらけで規範がないからです。米国は建国事情もあって家族ユニットが小さいぶん社会を戦場だと考えがちで、社会を保守しようという構えが弱いからです。

そんな米国だから、社会のプラットフォームをテックに置き換えるGAFAMが席巻します。民主政に依存した〈制度による社会変革〉より、「購買は投票」によって民主政をキャンセルした〈テックによる社会変革〉を重視します。「新反動主義者」の考え方です。

欧州の多くには地域の共同性を重視する規範があり、古くからラテンではスローフードのような食の共同体自治運動や、ゲルマンでは森のようちえんのような身体性回復運動が拡がり、現在EUはデジタル規制法(DMA)でGAFAMに包括規制をかける動きです。

日本には規範がない。ゆえに共同性や身体性を保全する運動がない。ゆえに高速度でGAFAMに席巻されます。僕が、性愛や親業のワークショップやキャンプ実践や森のようちえんにコミットするのは、この流れに抗って「社会という荒野を仲間と生きる」ためです。

踏まえるべきは、社会の全成員の感情劣化や身体性劣化が進めば、それらを劣化として認識する成員がいなくなることです。だから、マクロな流れに抗ってミクロを保全する営みもウカウカしていられません。ミクロな継承線さえ寸断されてマクロに飲み込まれます。

実際、出自と年齢と性別を超えて日暮れ後もドッチボールやゴム跳びや焚き火をし、よそんちで御飯を食べて風呂に入る「カテゴリーを超えてフュージョンする体験」を記憶する人は50歳未満にはいません。記憶なき人々が制度やメタバースをデザインしているのです。

カテゴリーにステレオタイプを貼り付けて差別する「ウヨ豚」や「クソフェミ」や、言外・法外・損得外を消去したがる社会の奴隷たる「クズ」は、ますます量産されます。性愛についての願望水準が著しく低い若い人々の蔓延は、そうした流れの一画をなします。

経済指標の垂直降下ばかり注目されますが、社会と人の劣化に注目すべきです。そこに注目するなら、感情の働きや身体性を保全するミクロな営みを加速すべきです。どこから手を着けるか。女を中心に若い人の一部が不全感を覚える性愛が、最後の砦になりそうです。

僕は様々な伝承実践をしていますが、中でも性愛を重視するのはそうした理由です。だからこの連載もします。僕は私的な性愛においても絶えず伝承実践を意識します。豊かな性愛を生きられる女は、子育てにおいても感情と身体性が豊かな子を育てるだろうからです。

──先日、チームラボ代表の猪子さんが、「自分は子供時代に森で遊んでいた経験があり、それを踏まえてCG映像であっても、子供が体験し、高低差のある立体的な場で身体を動かす世界を作ろうとした」と話していました。そういう道筋を持つ人と、身体性を欠いた想像世界をもっとリアルに感じたいと思って膨らませるタイプと、クリエイターも二つに分かれる気がします。

宮台 その意味でテック全般を敵視してはいけない。チームラボの施設は当初はショボかったけど、お台場にミュージアムを作って以降は凄い。「ここから出たくない!」と叫ぶ子供もいる。そこには猪子さん自身と彼がリクルーティングしている社員の身体性があります。

Googleの人事採用も身体性を重視しているようです。僕のゼミに参加したGoogle社員は、前職はプロサーファー。ゼミ参加を希望したけど本社に戻った男はケンブリッジ大の人類学フィールドワーカー。世界を深く体験した者をテックデザイナーに採用するのでしょう。

昨年(2021年)にメタ社(旧フェイスブック)がメタバース参入をぶち上げた際、メタ社のメタバースを地獄だとアピールしたのが、ポケモンGOやピクミンブルームで有名なナイアンティック社のジョン・ハンケCEO。彼が批判したのも身体性をめぐる問題です。

ナイアンティックが任天堂を通じて提供してきたのが、ユニバース(リアル)での出会いを触媒するAR(拡張現実)です。そのナイアンティックも2022年現在は経営難です。つまり、ゲーム市場では既に身体性へのニーズがマイナー化している可能性があるのです。

現在は、身体性をめぐって、ユニバースとメタバースの間でも、メタバースとメタバースの間でも、シビアな綱引きがあります。その意味で、ここ数年が正念場だという意識が僕にはあります。どんな道であれ、身体性をめぐる伝承線を確保したいと僕は思っています。

──その道筋の伝承線は大事ですね。一方では頭で考えた想像だけのクリエイトを伝承する人たちもいるでしょうけれど。

宮台 それはもはや仕方ないです。「メタバースだけで良い」と決めた人はそれで良いし、「自分はアセクシュアル(性愛と無関心)だ」と決めた人はセックスしなくて良い。僕のエネルギーは限られています。彼らを引き戻すためにエネルギーを使いたくありません。

僕が照準するのは、まだ決めていない人々です。自分はメタバースだけで良いとか、自分に性愛はなくて良いと決める際に、苦難を回避したがる自己防衛の意識に由来する、認知的整合化が働いている可能性を指摘するのは、彼らをそちらに踏み切らせないためです。

今回の誌面版で性愛の具体的手順を詳しく話したのも、性愛を通じた言外・法外・損得外のシンクロが、感情や身体の働かせ方の一定のパターンを組み合わせれば誰にでも可能であることを示したいからです。それは四半世紀前に途切れた伝承線を復活させる試みです。

時代の追い風もあって僕が80年代半ばから十年余りナンパ師をしていたことで、いろんな女や、全国の地域を見てきたこと、その頃の自分の営みに幾つか反省点があることなど、僕にしか伝えられないことが多数あります。だから伝承を神からの召命だと感じています。

他方で僕は3歳からゲームセンターに連れていかれ、小学時代から最近まで小遣いをひたすらアーケードゲームに注ぎ込んできたゲーマーです。セガ体感ゲームの時代には研究開発部長の話まで伺っています。メタバースについて語るのも僕の使命だと感じています。

 

後編につづく