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性愛に踏み出せない女の子のために 第6回WEB版 前編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第6回WEB版 前編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2022年6月15日発売号で第6回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第6回WEB版は、前編、後編にわけて、女風、斜めの関係の話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

季刊エス78号に第6回が掲載 https://amzn.to/3xqkU0V
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
第2回は「季刊エス74号」https://amzn.to/3u4UEb0
第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。

社会にしがみつく男
社会の外に立てる女


――コロナ禍になって、人と会う機会が減ったため、孤独を感じる人が増えました。そこで女風(女性用風俗)に通う女性が増えたと聞きます。女性の側から性愛について行動を起こしたというのは驚きました。

宮台 日本にはきついジェンダー差別があるので、男は「良い学校、良い会社、良い人生」を信じ込むことができますが、女は難しいです。女が仕事界隈(公の領域と呼ぶ人もいます)で達成を試みても、男の何倍もコストがかかります。

 でも日本やかつてのドイツのようにジェンダー差別がきつい国では、逆にそれが女に幸いに働く面もなくはありません。仕事界隈にマジガチに関わらずに、友人や恋愛や家族の関係(私の領域と呼ぶ人もいます)を大切にする傾向です。

 在宅死の4人に1人が孤独死ですが、その8割以上が男であるのが示唆的です。女は、総合職で地位や収入があっても「恋人や家族がいないのは寂しい」と感じがちですが、同じポジションの男は「俺はこれでいい」と思いがちです。
それが女風の一つの背景です。女は三〇代半ばあたりになると、私は本当の恋を知らずに終わるのか、性愛の享楽に無縁で終わるのかと思いがちです。そこには、性愛市場での市場価値が男より早く落ちるという通念も働いています。

 加えて、女が男より「言外・法外・損得外」に敏感なこともあります。大脳生理学者の大島清が代々木忠監督の協力で実施した実験では、性行為において男より女の方が変性意識状態に入りやすい。これにはゲノムの基盤があります。

 女はすぐに脳がα波で覆われるのに、男はそうならないという統計差です。代々木忠は「女の快楽は男よりずっと深い」と表現します。男の脳がすぐにα波に覆われるためにはドライオーガズムの施術などを通じた訓練が必要になります。
僕の言葉でいえば、女の性交は「フュージョン系」、男の性交は「コントロール系」なのです。ちなみに統計的には、性交に限らず万事において女の方が変性意識状態に入りやすいのです。「火事場の馬鹿力」は女の方が出やすいのですね。

 このゲノム的傾向は、無力な子供のそばにいるのが専ら女だったという何万年もの生活形式に結びついた、進化生物学的な達成だと考えられます。つまり集団生存確率を上げる文化的生活形式に有利なゲノムが残ったとする考え方です。

 ただし、僕の経験でも、代々木作品でも、性交で深くトランスした女を前にすると、男はコントロール感とは異質の大きな感動を覚えます。女から湧く力が感染する感覚です。僕はそれを「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」と表現します。

 その経験は、立ち会い出産で男が経験する感動によく似ます。赤子を助産師さんが取り上げた時、まるでスポットライトが当たったみたいに金色に輝いて見えます。僕は3回の出産に立ち会いましたが、いつも同じ体験をしてきました。

 立ち合い出産が拡がってきたのはここ20年。今も多くの男は体験していません。これを最初に体験した時、「女はこれを体験してきたのか!」「男はこの体験から見放されてきたのか!」と思いました。男は体験した方が良いでしょう。

 代々木ドキュメンタリーでは、性交を通じてトランスした女を前に、夫や恋人の男がひれ伏して泣きます。「妻(恋人)はこんなに凄い存在だったのか!」と。その時の女の眩しい輝きの目撃は、取り上げられた赤子の目撃と、よく似ます。

 人類史では、遊動段階のバンド(150人以下)はリアル血縁ですが、初期定住ではより大きなクラン(バンド集合)の虚構血縁(トーテミズム)になり、多くは誰もがそこに出自するという原母(オリジナル・マザー)の観念を抱きます。

 柳田国男は、農作物を産む大地の力に、赤子を産む母の力を重ねたのだとしましたが、赤子の輝きと同じ奇蹟感を、トランスする女の輝きが体験させてくれるのを見ると、「赤子を産む力」に加え「性交で飛ぶ力」もあるかもしれません。

 

女風は「物格化」ではない。
「人格化」を買う女たち


──女性は社会を客観視して、外に立ちやすいものなのですね。

宮台  「もっともっと」となりがちな「ゲスのドラッグ」と一度の体験で世界観が不可逆に変わる「神のドラッグ」の話を前回したけど、「産む体験」や「飛ぶ体験」で社会の外に立つ営みは一度だけで社会に距離をとらせる力があります。

 女が性愛で「飛ぶ」のをエクスタシーと言います。ラテン語のエク・スタシス(外に立つ)が語源です。忘我と訳すように「自分の」外に立つことだと解されていますが、自分の輪郭を含めた「社会」の外に立つことだと解すべきです。

 「社会」は、定住で始まる「言葉・法・損得勘定」に閉ざされた界隈です。閉ざされたままだと力を失うので、「言外・法外・損得外」でシンクロする=「同じ世界」で「一つになる」ことで力を回復すべく、長く祭りをしてきました。

 「社会」にとっての「言外・法外・損得外」でのシンクロが、祭りだとすると、「ひと」にとっての「言外・法外・損得外」でのシンクロが、性愛だと言えます。「社会」の祭りが年に数回ですが、「ひと」の性愛はずっと多くあり得ます。

 でも、市場と行政からなるシステム世界が拡がり、共同体の営みからなる生活世界が縮むにつれ、「社会」から祭りが消えます。祭りと呼ばれるものはあれ、法的タブーを軒並み現実化する無礼講としての「真の祭り」は既にありません。

 前に話した通り、日本では80年代の「新住民化」で祭りが消えましたが、「ひと」にとって祭りと等価な機能を果たす性愛は、残っていました。ところが、90年代後半から性愛からの退却が進み、「真の性愛」も消えつつあるのですね。

 頓馬な社会学者は、文化は恣意的だとする構築主義を唱え、「真の」という物言いを嫌いますが、僕は、存在論的な持続可能性を欠けばその文化をもつ社会が消えるので、万年のオーダーで続いてきた祭りや性愛を「真の」と形容します。

 これは80年代にイヴァン・イリッチが提唱した生態学的社会学の立場です。彼は、男の界隈だったシステム世界(市場と行政)に女が絡め取られる動きを、「平等化」だとして無自覚に礼賛する立場を、社会の存続を危うくするとします。

 そこでも頓馬な社会学者が、平等化を目指すフェミニズムに敵対するとして批判しましたが、フェミニズムを平等化運動に帰着させるのが間違いで、「平等化を阻むものを含め」カテゴリーとステレオタイプを疑うのがフェミニズムです。

 イリッチは女と男を「同じ人間」と括る平等化運動におけるカテゴリー化が、女と男を同じ物差しで測ることで差別を助長する逆説に注目し、女もいろいろ、男もいろいろというコスモロジー(宇宙観)の多様性を尊重せよと言いました。

 「同じ人間」というカテゴリーを使う平等化運動は、「女の男化」を目指しがちですが、百歩譲って「同じ人間」というカテゴリー化を許すにせよ、「男の女化」を目指すべきだとします。今日の社会の持続可能性のなさを思えば合理的です。

 それは、女が人間カテゴリーの「中心」ならぬ「周辺」に位置づけられてきたので、相対的にシステム世界に汚染されずに生活世界の価値を保つ機能を与えられてきたからです。性別役割分業で女に配当される「ケア役割」が典型です。

 「男の女化」は、そこでは「男にもケア役割をさせろ」とパラフレーズできます。合理的主張です。それを踏まえて島田雅彦は小説『パンとサーカス』で、女がケア役割を逆手にとって男(の育ち)を徹底コントロールせよと言います。

 いずれにせよ、女は、社会で周辺化されてきたことで、「この社会はクソだ」と認識しやすいのです。だから「クソ社会に適応し過ぎた自分は変だ」「適応し過ぎた自分は本来知りえたはずの大切な何かを知らないままだ」と気付きやすい。

 それが女風の一つの背景です。とはいえ、女風ユーザーの動機は、「自分は真の愛の『ゆだね』と『明け渡し』を知らないままだ」という深いものから、「自分はまだ中イキを知らない」という浅いものまで、ピンからキリまであります。

 それでも女風は良いことです。女風は買春ですが、買春が本来どんな可能性の幅を持つのかを考える上で良い材料だからです。例えば、クソフェミは買春を、相手を物格化するものだとして、人身売買の如きものとして概念化しがちです。

 ところが女風を見ると、むしろ通常の性愛関係こそ物格化に塗れているので、カネを支払った性愛関係で人格化を回復している、という逆説を見出せます。であれば、買春にも「良い買春」と「悪い買春」があるのだと考えるべきです。

 女風セラピストには物格化されない真の性愛を伝えられる優秀な人が多いです。でもそれが評判になると、似非セラピストも多数出てきます。実際SNSでは、「中イキさせます」という看板のインチキセラピストが多数出現しています。

 中イキは、潮吹きに似て、練習すれば多くの男にできます。問題は「何のためにそれをするか」。「同じ世界」で「一つになる」こと。コントロールする・されるの能動受動ならぬ、フュージョンという中動。これを目的とすべきです。

 「同じ世界」で「一つになる」ことで「フュージョン」することが目的だから、手段は性交に限られません。一緒に散歩する。一緒にボートに乗る。映画を見るとき予告編の時間に目を見て話す。そんな営みからすべてが始まるのです。

 でも性交は大事です。散歩であれ何であれ「同じ世界」で「一つになる」と変性意識状態に入りますが、性交では変性意識状態が深くなり得るので、日常で失われた力の流れを感じられて、日常というものの位置づけが変わるからです。

 日常で失われた力の流れを感じることで日常というものの位置づけが変わるのは、祭りと同じ機能です。真の祭りが失われた現在、真の性交から見放されれば、「生きづらさ=日常での力の枯渇」から回復する大切な機会を失います。

 偽の祭りはレクリエーションですが、真の祭りは日常というものの位置づけを変えます。同じく、偽の性交はレクリエーションですが、真の性交は日常というものの位置づけを変えます。女の側も、中イキしたいだけではダメなのです。

――女性たちは女風のセラピストを語り合うコミュニティを持っているそうですが、女性の中でも、「同じ世界に入れる」と感じる人もいれば、  単に形だけセックスをしたいと思う人もいるんですかね…。

宮台 「悪貨が良貨を駆逐する」ので、女風も今のクオリティを保てるとは思えません。一方でインチキセラピストが増殖し、他方で願望水準の低い女だらけになっていくでしょう。だから、女風を使う女の側にも正しい構えが必要です。
 

沈みかけた社会に
本当に適応して良いのか?


――それにしても、コロナ禍になった今、関係性を考える人が増えたというのは印象深いです。

宮台 「社会はどうも終わっているらしい。輝かしい未来はないらしい」と感じていることが大きいです。「社会に過剰適応したところで、社会そのものがダメになるのだから、そこに人生を預けてもムダだ」と思うようになったのです。

 周辺化された女に似た立場に、男も陥りつつあるのです。中心化された男のようになったところで希望が持てないなと感じる女も、増えているのです。「ならば性愛」と思える分、女は男より有利です。男にはこのオルタナティヴがない。

――男は行き場をなくして映画『ニトラム』のように銃を乱射したり…。

宮台 米国の無差別銃乱射事件の犯人は全員男。日本でも無差別殺傷事件の犯人も全員男。「キレる少年」が話題になった90年後半代も9割が男。孤独死も8割超が男。男は「社会」に居場所がなくなれば終了。だから病みやすいのです。

――女性も病まないわけではないし、そういう方向にいく可能性がないわけではないと思うんです。私自身これまでは、この社会のルールは絶対的なものだと思ってきました。みんなも社会を相対化出来ないということはありませんか?

宮台 「言葉と法と損得」の界隈が社会。その外に「言外・法外・損得外」の真の性愛があります。前者はコントロールの時空。後者はフュージョンの時空。男は女より性愛に閉ざされ、性愛をもコントロールの時空として生きがちです。

 だから、女は「社会がダメてでも性愛で」と思いやすいのに、男は思いにくい。男は「社会」と「自然(星や海や森)」の二つしかないけど、女は「社会」と「自然」の間に「性愛」があり、「社会」にいながら「社会」を相対化しやすいです。

――確かに男女差はあるように感じます。

宮台 コロナ禍で検査も病床確保もできない日本が、東アジアの圧倒的負け組だった事実が露呈し、五輪が過ぎた2021年の秋以降、本屋やテレビから「日本すげえ」系が消え、やっと「日本はもうダメらしい」という観測が拡がりました。

 ダメ意識を「日本すげえ」で埋め合わせるウヨ豚の、滑稽さが丸出しになり、2005年に孤独死が話題になり始めた頃の、3倍もの孤独死──8割が男──が拡がっている今、男は一層激しく「沈みかけた船の座席争い」に淫しています。

 それまで中心化されてきた男が、船の沈没でさらにヒラメ・キョロメの座席争いに淫する一方、それまで周辺化されてきた分、オルタナティヴな生き方を模索する女が出て来た──それが昨年から話題になった女風が与える印象です。

――女性は社会的地位にしがみつきたいと思うことは少ないかもしれませんね。私たちのように漫画やアニメを好む女性としてシンプルに考えても、自分の地位よりは、人同士の関係性に重きを置くと感じます。

宮台 ゲノム的要因と文化的要因の重ね合わせでしょう。男が読む漫画は「地位上昇」モチーフが優位で、女は「関係性」モチーフが優位です。漫画は成人前のロールモデルを与えるので、成人した女の反省図式にも影響を与えています。

――男性が動かないのは不思議ですが、触れてきた物語も違うからでしょうか。

宮台 男が成人前に触れるメディアにまともな性愛ロールモデルがなく、性愛が苦手な男の性愛ロールモデルと言えば、何も知らないので自由にできる少女という「ロリコン」です。男の二本柱が「地位上昇」と「ロリコン」なんです。

 裁判での意見証人や国会での参考人質疑などの僕の政治活動歴から明らかなようにエロ漫画の表現規制には反対ですが、それとは独立したロジックで、男向けエロ漫画の「貧しさ」が致命的であることを、折に触れて語ってきました。

 殺す・刺すなど身体のダメージと違い、表現で傷付くといった不快感は(カテゴリーに当て嵌まる人の尊厳を奪うヘイト表現を除けば)直ちには公共性がない以上、法の問題ではなく道徳の問題です。「法と道徳の分離」と言います。

 社会にはいろんな人々が生きていて、複数の道徳があります。だから、特定の道徳に従った法は作れません。それが法と道徳を分離する理由で、道徳を広めたい人は、法に訴えるのでなく、表現を通じて折伏するのが、近代の原則です。

 話は変わって、女風と機能的に似るのがかつてのヒモです。90年代半ばまで地方都市にもかなりいたのを確認しています。総合職の銀行や役所勤めの女が、収入のない大学生や大学院生を「ツバメ」としてマンションに囲っていました。

 ヒモには共通の属性があります。力関係が「女の方が強い」こと。「マチズモ(家父長制的感覚)がない」こと。カネの流れは逆ですが、女風も同じ特徴です。女の要求を隅々まで受け止めて、ホームベースを提供する機能が、等価です。

──そういう男性はコントロール系ではないから、人と良い関係性を築けそうです。
 

社会がダメになっていくほど、
性愛による救済は重要になる

─――80年代までは、「企業戦士」「受験戦争」という言葉があり、ゼロ年代以降は「多様性」「ゆとり」と言われて、社会はゆるやかになっているように見えるのに、今の方がずっとストレスフルで社会化されているのが不思議だと感じています。

宮台 その逆説は簡単に説明出来ます。受験勉強の厳しさは、僕の世代が一番激しかった。当時東京大学に入るためには、「2万語の英単語を覚えなければいけない」と言われていて、僕は2万語を覚えました。でも、今は3300語です。

 数学も微分方程式からn×m行列計算まで高度なことを教わりました。受験時の勉強時間は今の学生よりずっと長く、「四当五落」=「5時間寝たら負け」と言われました。要求される知識量を比べただけでも、今はずっと緩いのですよ。

 でも精神的には今の方がきつい。理由は「外が消えたから」。二つあります。一つ目のキーワードは「斜めの関係」。80年代まで、子供には親や教員以外の大人との交流があり、親が何を言ったにせよ、いろんな人生があると思えたのです。

 もう一つは「早朝ソープ」。僕の麻布高校の部活では、後輩がうちひしがれていたら、先輩が早朝ソープに連れていってくれた。「オンとオフ」といっても良いけど、学歴を自慢する世界と、それをバカにする世界の、両方を知れたのです。

 90年代前半のストリート雑誌「Tokyo Street News!」のインタビュー記事「渋谷センター街を歩いている女子高生100人に聞きました」で、「声をかけてくる男子高校生で一番ウザい学校はどこですか?」という答えが、麻布でした。

 女子高生が答えた理由は「僕、麻布だけど」と声をかけるから(苦笑)。前に話したけど、ナンパ界隈では80年代末に女が急に属性主義から離れ、「ベンツは良いけど、お前はどうよ」と言いはじめます。女も「外に開かれた」のですね。

 パパ活の出発点は、援助交際じゃなく、2010年代からの「愛人紹介業」で、業者が双方の身元を把握していました。男は地位が高く、女は芸能の卵や表現者の卵でしたが、女の多くは「地位が高い男ほどクズ」という認識を持ちました。

 属性主義が蔓延し、大半がマッチングアプリで出会う今日、女若衆宿的な同性集団も消え、「女から女への伝承線」も切れました。だから女風界隈という局域で「女から女への伝承線」の復活は良いことです。一時的かもしれませんが。

――今は、競争はゆるやかになっているけれど、みんなの価値観は…。

宮台 時代にうんざりした人々が、局域で「良い界隈」を復活させましたが、全域ではのっぺりです。「勝ち組/負け組」という価値観にのっぺりと覆われています。女風は局域の話で、全域をマッチングアプリ的な属性主義が覆うのです。

 東大医学部受験の道を絶たれて赤門前で傷害事件を起こした高校生がいたけど、彼が受験に成功していたら同じ人格のままでマッチングアプリの最高属性を得ていたはず。東大医学部を卒業して医局に入った連中にもクズが大勢います。

 事件のニュースを知ってもそうした想像力を働かせる女が減りました。「この人は勝ち組だから好きになる価値がある」と思うのでなく、「こいつが負け組に落ちたらどんな泥沼にはまるだろうか」を想像して好きになるべきなのですね。

――社会が「多様性」と喧伝しても、価値観が固定化しているということは、肝心なところに人の考えを変える力が届いていない、ということでしょうか?

宮台 「多様性」の喧伝の意味するところを理解すべきです。三島由紀夫が言うように、日本人は一夜にして天皇主義者から民主主義者に豹変するヒラメとキョロメで、「僕こそが一番の民主主義者です」と宣う。多様性云々も同じです。

 一方、団地の子・農家の子・商店の子・医者の子・ヤクザの子が、年齢や性別を超え、団子になって「黒光りした戦闘状態」で遊ぶ機会が消えました。カテゴリーを超えて「同じ世界」で「一つになる」フュージョン経験がないのです。

 他方、60年代団地化で地域が空洞化。80年代コンビニ化で家族も空洞化。地域と家族の共同性の延長上で「世間」を想像する営みも消えます。公共規範が支える「社会」と、似た機能を果たす「世間」が消え、人は野放図になりました。

 三島が言う「からっぽ」さに、フュージョン経験の消失と、世間の消失が加わり、勝ち組・負け組云々に見るようなのっぺりとした属性主義が覆います。そんな場所で「多様性」が語られても、規範じゃなく、単なる適応に過ぎません。

 これらは日本的特殊性と思われていたけど違うようです。グローバル化での中流分解による人間関係資本の消失と、インターネット化によるフィルターバブルで、価値的貫徹より学習的適応が優位する流れは、多くの国にも見られます。

 体制の違いもないです。中国では垂直の(政府による)生体監視を含めた信用スコアを気にし、旧西側では水平の(市民相互による)「いいね!」的な承認スコアを気にし、良いとされることを損得勘定でおこなう「クズ化」が進んでいます。

 これは世界中の流れです。ならば、日本やどこかの国が「舵を切り間違えた」のではなく、「どのみちこうなるようになった」と考えるべきです。それが社会学の思考です。それによれば、今後も社会と人が劣化するのは止められません。

 でも、こうしたマクロな問題と、あなたはどう生きるのかという問題は、別です。「社会の問題」と「実存の問題」が一層鋭く分岐するだけです。だから「社会という荒野を仲間と生きる」というスローガンを語り続けてきたのですね。

 社会がどんどん劣化する。だから社会にマジガチで適応すると人も劣化する。その劣化は性愛を見ると分かる。だから「社会に適応するほど、性愛の幸いが遠ざかる」というスローガンを語り続け、性愛ワークショップをしてきました。

 性愛は、社会に過剰適応せず、「なりすまし」の相でやり過ごすための、最後の砦です。社会が劣化するほど、性愛による救済が重要になるのです。だから、この性愛についての連載や、大人向けや子供向けの性教育をしているのです。

 今は子供向け性教育も連続して実践しています。大人向け性愛ワークショップも8年前に一度やめたけど再開しました。日本はもうダメという十年前から語ってきたことがやっと共通認識になったからです。「底が割れた」のですよ。

 それで実存の時代が始まった。むろん社会がどうでもいいのではない。でもクズにはクソ社会しか作れない。まともな実存を持つ人間にしか良い社会を営めない。他方、良い社会にならなくても、まともな仲間がいれば幸せになれます。

 そういう当たり前の理路をわきまえるべきです。その上で、どんな人間たちが仲間と幸せに生きているか観察し、ロールモデルとすべきです。ところでワークショップ経験では、そこに女と男の区分に大体重なる二種類の人間が分岐します。

 1つ目は、仲間と幸せに生きる人々を参照点にして自分も連なろうとする、まともな人です。2つ目は、仲間と幸せに生きる人々に嫉妬し、口実を見つけてディスろうとする、浅ましいクズです。そこには大きな男女非対称性があります。

 だから女は、ケア役割を逆手にとって、年下の男や自分の息子をまともな男に育ててほしい。この「敢えてする性別役割分業」は長い人類史からは短い期間だし、男の感情的性能を上げるのは楽しく、子々孫々の公共性に資するのです。
 

多視座に立てば、人は変わる


――多視座の話をこれまでもしていただきましたが、女の人の中にも、ポジティブでクリエイティブだけれど、それゆえ優位に立ちたいというか、「いじられたくない」という姿勢で、かたくなな人もいますよね。自分のポジションを保ちたいから「開かれた」状態ではいられない。その場合は、強く生きているように見えて、視座が狭いと言えるのでしょうか。

宮台 そうです。僕のゼミにいた、前にも話した「私は損得勘定以外のことを考えたことがない」と言った大学生は、ゼミの子でした。その彼女も3年したら変わって損得超えの価値を貫徹する構えになり、そういう仕事に就きました。

 彼女に、損得勘定を超えろという僕のゼミに来た訳を尋ねたら「自分の生き方に漠たる不安があった」と答えました。地方のフィールドワークで、残り少ない既得権益に群がるクズどもを目撃して、衝撃を受けて変わった子もいました。

 他にも性愛を通じて変わる女も見てきましたが、女の場合、環境次第で、こうした大きな変化があり得るのです。男の場合、幼少から武術や激しいスポーツで「同じ世界」で「一つになる」経験をしてきた場合を除くと、かなり難しい。

――多視座に立って「体験する」すれば変わっていく人もいるのですね。

宮台 はい。僕の場合、風俗やヤクザ界隈のフィールドワークで得た衝撃が、「人はこのようにも生きられるのだ」という実存的フィードバックを与えてくれました。フィールドワークには社会的収穫以外にそうした実存的収穫もあります。

 女は、内と外の境界が男よりも薄く、内への距離をとりやすい。男は、幼少期のフュージョン経験があれば、そうした傾向を持ちやすいです。いずれの場合も、大人になって環境から与えられた衝撃で、別のゲームにシフトできます。
 

後編につづく