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性愛に踏み出せない女の子のために 第6回WEB版 後編 宮台真司

対談・インタビュー

性愛に踏み出せない女の子のために
第6回WEB版 後編 宮台真司

雑誌「季刊エス」に掲載中の宮台真司による連載記事「性愛に踏み出せない女の子のために」。2022年6月15日発売号で第6回をむかえますが、WEB版の発表もおこなっていきます。社会が良くなっても、性的に幸せになれるわけではない。「性愛の享楽は社会の正義と両立しない」。これはどういうことだろうか? セックスによって、人は自分をコントロールできない「ゆだね」の状態に入っていく。二人でそれを体験すれば、繭に包まれたような変性意識状態になる。そのときに性愛がもたらす、めまいのような体験。日常が私たちの「仮の姿」に過ぎないことを教え、私たちを社会の外に連れ出す。恋愛の不全が語られる現代において、決して逃してはならない性愛の幸せとは?
第6回WEB版は、前編、後編にわけて、女風、斜めの関係の話題です。


過去の記事掲載号の紹介 

季刊エス78号に第6回が掲載 https://amzn.to/3xqkU0V
第1回は「季刊エス73号」https://amzn.to/3t7XsVj (新刊は売切済)
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第3回は「季刊エス75号」https://amzn.to/3KNye4r
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宮台真司(みやだい・しんじ)
社会学者、映画批評家。東京都立大学教授。90年代には女子高生の援助交際の実態を取り上げてメディアでも話題となった。政治からサブカルチャーまで幅広く論じて多数の著作を刊行。性愛についての指摘も鋭く、その著作には『中学生からの愛の授業』『「絶望の時代」の希望の恋愛学』『どうすれば愛しあえるの―幸せな性愛のヒント』(二村ヒトシとの共著)などがある。近著に、『崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する』。

聞き手
イラストを描く20代半ばの女性。二次元は好きだが、現実の人間は汚いと感じており、性愛に積極的に踏み出せずにいる。前向きに変われるようにその道筋を模索中。

ホームを持つマイノリティの
社会での生き方


――移民が、移り住んだ環境の価値観が自分に合わなくて病んでしまうことがあると聞きました。それを防ぐためには、移民に「多様な価値観がある」ことを理解させる必要があると言いますが、それを分からせることは難しいそうで、私たちのように社会常識から外れにくい人にも共通した問題のように思えます。

宮台 教育次第だと思います。学校教育だけでなく周りの大人からの教育です。価値観のマイノリティには、3つの選択があります。一つは、メジャー文化への完全な適応と同化です。黒人でいえば、「名誉白人」みたいになることです。

 対極的なのは、「マイノリティではあれ、我々にはマジョリティにない大切な価値観と生活形式がある。それを守りながら断固として差別と闘う」という生き方です。BLM(ブラック・ライブズ・マター)に示される方向です。

 三番目に「なりすまし」があります。「マイノリティの価値観と生活形式を決して捨てないものの、表立って差別と闘うことはしない」やり方です。稠密な共同体に支えられた強い人間にしか出来ない、スパイや忍びのような生き方です。

 価値観や生活形式の違いが目に見える差別とどれだけ結びついているかどうかで、妥当な選択肢が変わります。性愛についての価値観と生活形式は、黒人やユダヤ人の価値観と生活形式と違い、あまり見えず、差別と結びついてもいない。

 恋人や仲間や家族とどう関わりながら生きるかといった問題は、カテゴリー差別に抗う権利獲得という側面がないので、三番目に当たります。その場合、僕のゼミはオーバーグラウンドとアンダーグラウンドを分ける戦略を推奨します。

 例えば就職です。自分の価値観や生き方に合う就職先を探してもいいが、見つかればラッキーという程度で、難しい。とはいえ、そうした就職ができないと価値観や生活形式を変えなければいけないというのは、短絡的な考え方です。

 どんな就職先に決まったにせよ自分の価値観や生き方を守るというほうが、現実的です。それには仕事の界隈というオーバーグラウンドとは別に、自分の価値観や生き方にシンクロするアンダーグラウンドな界隈を維持する営みが必要です。

 自分の価値観や生き方にあったオーバーグラウンドが見つからない限り自分を維持できないのだとしたら、そんな価値観と生き方は持続可能ではありません。だから僕のゼミでは卒業後もグループLINEにつながり続けることを推奨します。

 そうすれば、オーバーグラウンドをかりそめのゲームとして遣り過ごし、アンダーグラウンドで本体を守り続けられます。アンダーグラウンドをセットしないで「なりすまし」を維持しようとしても、ミイラ取りがミイラになります。

 あなたが言う通り、若い人は「言外・法外・損得外」(社会の外)の「同じ世界」で「一つになる」フュージョンの営みを知らない。でも、あなたは知った。知ったけど、その価値観や生き方をする人が周りにはいない。どうするか、です。

 映画評の言い方では、①社会の外に開かれた人を見つける。②その人と一緒に屋上に昇って(社会の外に出て)つながる。③その人と一緒に地上に降り立つ。あなたが挙げた映画『ニトラム』で推奨されているのが、まさしくそれですね。

 社会の外に開かれた男がそうした女を見つけるのは易しいけど、社会の外に開かれた女がそうした男を見つけるのは難しい。でも自分の新しい価値観や生き方に合った界隈を見つけるより、たった一人を見つけることのほうが、ずっと簡単です。

 見つけた後、その人と一緒に屋上に昇る営みに踏み出せるかどうかが、次のハードルです。その人にも既に公私の関係があるという社会のハードルと、恐くて踏み出せないという実存のハードルがあります。そこから先は、決断です。

 もっともっとと嗜癖化する「ゲスのドラッグ」と一度の体験で世界観が変わる「神のドラッグ」の話を思い出してください。相対的快楽ならぬ絶対的享楽を与える「至高の性愛」はたとえ一度きりでも世界観が変わり、「力」を得ます。

 そこで決断しないと、あなたが生きる時空は、内ならぬ外や、浅さならぬ深さを欠いたフラットなものになります。そんなフラットな時空ではやがて「力」を失います。あなたの周りにも加齢して「力」を失った人が大勢いるはずです。

 むろん一度きりでは「力」がやがて減衰するかもしれない。でもどうすれば「力」を回復できるかをあなたは既に知った。バトルフィールドの外にホームベースを想像できるということです。ホームベースがないとバーニングアウトします。

 僕は大学を卒業して40年。学生に教えるようになって35年。「力」に満ちた仲間だったはずの連中が、次々と「力」を失って「沈みかけた船の座席争い」に淫するようになる過程を見ています。そうならないためには決断が必要なのです。
 

親子関係は縦、友人関係は横
第3の斜めの関係とは?


――ホームベースですか。周りで想像すると、友人は完全には信じられない。親とは仲が良いけれど、話せないことはある。親を縦の関係とする場合、友人は横の関係と言いますよね。そして、映画『ニトラム』では「斜め」の関係というポジションが描かれていると宮台さんは仰っていました。こうした「斜め」の位置にいる人は、人間関係において今は重要なポジションを占めると。私たちエス編集部は、若い子たちに、「絵を描いて幸せなのであれば、学校になじめなくても、良い会社に入れなくても、絵によって自分の人生を変えられるかもしれないよ」ということを伝えてきました。毎年「お絵描き合宿」を実施しているのですが、そこに来る子たちは、「不登校です」「親からは理解を得られません」という人が必ずいます。私たちには話してくれる人もいて、いろいろ自分のことを話してくれます。友だちに話せないのは、同調圧力があるのかもしれません。

宮台 今の教室はフラットな価値観で覆われます。キャラを演じてKYにならないよう四六時中気を遣います。さもないとポジションを失うという不安ベースのコミュニケーションが専らです。委ねと明け渡しの信頼ベースがありません。

 横だけでなく縦の関係も変わりました。僕の幼少期には自営の農家やお店が多数あり、その子供たちは親から「家業を継ぎさえすればいい」と言われ、「いい学校・いい会社・いい人生」という妄想の強制は今よりずっと緩かったのです。

 歴史を記憶できない「アップデート厨」だらけなのが日本人の劣等性。僕の同世代もかつての自分の成育環境を忘れ、失ってはいけないものを自覚せずに子育てをしてきた。劣化した大人が劣化した子供を生む悪循環の果てが現在です。

 今の縦(親子や先生生徒)は「勝ち組/負け組」の価値観をフラットに子供にあてがい、自尊心を奪います。「いい学校・いい会社・いい人生」の勝ち組を偏差値65以上とすれば7%未満。9割以上の子が教室で尊厳を奪われるのです。

 だから横でも縦でもない「斜め」が大切です。オルタナティヴな生き方をする大人とのリアルな関係です。幸いインターネット化でそんな大人を見つけるのは簡単ですが、リアルではない。その人の近くに行けなければならないのです。

 僕のゼミが学外のオブザーバーに開かれているのもトークイベントをするのも、そのためです。『ニトラム』の主人公にとってのヘレンがそうだったように、「そんな生き方をする人が目の前にいる」という驚きを、「斜め」が与えるのです。

――「こんな風に生きられる」という意味で、『ニトラム』に登場するヘレンが斜めの存在だと宮台さんは確かに映画評で書かれていました。ヘレンはロールモデルみたいなものでしょうか?

宮台 そう。ヘレンは億万長者の社会的な成功者ですが、少しも社会に閉ざされずに「社会の外」に開かれた存在で、主人公を徹底的に助けた。そんな人がいると思ったことがなかったのに、いた。この映画が実話であることが重要です。
 

斜めの関係を担う
存在の持続可能性


――女風に行くことは、「斜め」のロールモデルを見つけることとはまた違うんでしょうか?

宮台 ちゃんとロールモデルを見つけることになっています。女風の優れたセラピストを見れば、まず「こういう男の人がいるんだ」と驚きます。そうしたら、現実についての想定が変わり、そのセラピストみたいな男を探し始めるのです。

 むろん「こういう男の人」にたどり着くまでは試行錯誤です。でも性愛には昔も今も苦労のない達成はないと心得るべきです。現に一人いるのだから、もう一人見つけることが不可能なはずがない。そう思わせるのがロールモデルです。

 すると、試行錯誤で出会う困難も、「これも練習」とクリア出来るようになる。アドラー個人心理学が導きになります。最終目標が明確でリアルあれば、人はそこから「力」を得ます。これをプライミング(未来からの導き)と呼びます。

 前に話したけど、「過去のトラウマの克服が大事」と言うフロイトに対し、「未来の最終目標の獲得が大事」と言ったのがアドラー。どちらも真実で、両立しますが、特に性愛では、最終目標をリアルにイメージできることが大切です。

――斜めにいる人のほうが最終目標に導きやすいということがありそうです。

宮台 そう。問題は持続可能性。『ニトラム』のヘレンは事故死します。実際、在宅診療をする訪問医や、問題を抱えた子をケアするNGOなど、ヘレン役をする人々がいますが、行政的事情や経済的事情で、営みが続くとは限りません。

 『エス』の編集部が「絵を通じてサード・プレイスに連れ出す活動」をしていても、廃刊になったり出版社がつぶれたりすれば終わります。だから、これらの営みをロールモデルとして、生活世界の界隈を作り出す必要があるのです。

 生活世界にそうした界隈がないから、システム世界(市場と行政)が機能的に等価な界隈を提供するのですが、システム世界の営みは、行政的事情や経済的事情に依存するので、人生の尺度に照らして持続可能だとは言えないのです。

 在宅医療は「8050問題」をケアします。80代母親を医療的にケアしながら50代息子にメンタルなケアをしてきたのが、母親が死んだ途端、行政的に訪問介護が出来なくなります。それに激昂した息子が現実に事件を起こしています。

 それで今は「訪問医はヘレン役をしてはいけない。80代母親の医療的なケアだけをせよ。手を差しのべたい気持ちは我慢して50代息子は放っておけ。さもないと、場合によっては殺されるぞ」という話になっているのです。

――難しい問題ですね。あと、そもそもヘレン的な存在を見つけることが難しいと感じます。

宮台 生活世界では難しいから、システム世界がヘレン役を引き受けるのですが、持続可能性に問題があるから、最終的には生活世界でヘレン役を見つける必要があります。でもそもそもそれが難しい。「鍵がかかった箱の中の鍵」問題です。

 僕を含めてシステム世界でヘレン役を自覚的にしてきた人々は、その問題を自覚しています。ヘレン役の持続可能性というこの問題を『ニトラム』はリアルに描きます。だから傑作なのですが、その分、僕らは問題を突きつけられます。

 「ヘレンを探せ」と言葉で言えても実際は難しい。論理的には、自らヘレン的存在になるか、ヘレン的機能を果たす組織を作るしかない。でも組織は本来持続可能ではないので、組織が機能する間に何をするのかがポイントになります。

 一つは「ヘレンがヘレンを産む」モデリング(模倣学習)の機会の提供です。僕の場合はキリスト教の教義学を使いますが、「僕がしていることをお前も出来るようになれ。お前が出来るようになったら第三の奴も出来るようにしろ」ということです。

――そこで、ヘレン的な存在が依存を受けてしまうと危ないんですよね?

宮台 キリスト教徒はイエスに依存して善をおこないます。依存を全否定する必要はありません。全否定するかわりに、①依存がむしろ自立を促すことと、②その依存先が持続可能であることを、必須条件として、依存を許容するべきです。
 

「超越系」でありながら
社会的に適応出来る「社交系」


――ヘレン役の人自身にも、人生の幸せや楽しみがあるべきですよね。宮台さんは、「一緒に屋上に登る同志を探している」という表現をされていたと思います。

宮台 社会はますます荒野になりつつあります。それゆえ人は分断されて弱くなりつつあります。防衛的になって被害妄想に駆られ、言葉と法と損得にますますしがみついている。浅ましいです。社会という荒野を仲間と生きるべきです。

 そう呼び掛ける僕の喜びは、同じことを呼び掛ける仲間が見つかることです。こうして語るのも、本を書くのも、ゼミをするのも、性愛を営むのも、自分みたいな存在が増えるのが嬉しいからです。仲間になった人たちもそうでしょう。

 社会という荒野を仲間と生きろと呼び掛ける。僕にはそれが出来る。それが出来る仲間も既に何人もいる。それでもさみしくて、もっといれば良いと思う。だから仲間が増えると嬉しい。その感情が「力」を与えるので続けられます。

 性愛や親業のワークショップも同じです。それによって「仲間を増やす」ことは子々孫々にわたる「伝承線を確保する」ことです。僕が死んでも誰かが死んでも、モデリングが雨紋上に拡がれば、ヘレンがいなくなることはありません。

――なるほど。優れた仲間で伝承していく。コントロールするだけの人が出ても危険ですから、きちんと伝わらないといけないのですね。

宮台 ヘレンは、社会の外を生きる「超越系」で、かつ社会をうまく渡る「社交系」です。そうした人は稀です。稀な存在として在ることはキリスト教でいえば召命です。つまり稀な存在として在ることで負う責務があると思っています。

 「超越系」とは「フュージョン出来る」ということ。「社交系」とは、「コントロール出来る」ということ。だから「超越系」かつ「社交系」であるとは、「フュージョンに向けたコントロール」が出来ることだ、とパラフレーズできます。

 ヘレン的存在は、実践の場で「フュージョンのためのコントロール」をします。僕のワークショップも同じ。「フュージョンするには、まずこれをし、次にこれをして…」と案内します。それは「フュージョンのためのコントロール」です。

 だから必然的に相手の反応は二分されます。それなりにフュージョンする力のある人は全面的に是認します。フュージョンする力のない人の一部はそれをコントロールだと感じ、嫉妬や拒否反応を起こします。でもそれは想定内です。

――性愛でお聞きしたことを同じですね。「フュージョンのためのコントロール」であっても、相手がただのコントロールだと思ってしまうことがある。

宮台 はい。歩留まりは、こちらの資質と、相手の資質の、両方に関係します。こちら側をNGO的に組織化する際、「超越系」かつ「社交系」の人材をリクルーティングすることと、ユニットが大きくなり過ぎないことに注意すべきです。

 ヘレン的機能を出力する組織は、内部でも「フュージョンのためのコントロール」が必要なので、内部で嫉妬や拒否反応が生じます。「お前は出来るから良いよ、自分はどうせ出来ない」みたいになる男女が一定の歩留まりで出てきます。

――女風のセラピストたちも、そこに気を付ける必要がありそうですね。

宮台 セラピストもクライアントを選ぶ必要があります。それなりのフュージョン能力のある人が「この人のフュージョン能力を信頼する」ということでないと、「フュージョンのためのコントロール」を受け容れられない可能性があります。

――この連載で宮台さんがおっしゃっているように、そもそも性愛はフュージョンになりやすいものなんですよね?

宮台 前に話したけど、性的志向は大脳ならぬ中脳に紐付きます。同性愛や異性愛の志向を学習的に変えられないのは、そのためです。だから、社会システム理論家ルーマンが言う通り、性愛はゲノムに紐付いた共生メカニズムなのです。

 生得的プログラムである身体的性能を複数身体間で噛み合わせるという絶対的営みの枠内で、習得的プログラムである文化の相対的営みが設定されるということです。性愛の営みが、文化に過ぎない自我を超え得るのは、そのためです。

――やはり、「身体」での実体験ですね。そうなると最近、充実度が高いと言われているメタバースはどうなんでしょう?

宮台 失われた共同身体性──同じ事物に同じ様にアフォードされることで「同じ世界」で「一つになる」身体性能──をメタバースで回復できるかという質問ですね。自分の偏見を取り除くべく昨年来メタバースのゲームをしています。

 開発初期段階ですが、分かったことがあります。共同身体性をどの界隈で回復するかという問題です。論理的に考えてメタバースには「皆で一つのメタバース」から「一人に一つのメタバース」までスペクトラムになるということです。

 「一人に一つのメタバース」では、共同身体性を結ぶ相手達は現実のプレイヤーとの対応がないAIアバター(NPC)になり、「皆で一つメタバース」では、相手達の多くが現実のプレイヤーと対応するリアルアバター(PC)になります。

 このスペクトラムつまり連続体に緩やかに対応して、「ユニバース(現実)への関心を失わせるメタバース(VR)」から「ユニバース(現実)への関心を回復させるメタバース(VR)」までのスペクトラムがあり得るということになります。

 それでゲームクリエイターの一部が、「現実への関心を失わせるVR」ではなく、「現実への関心を回復させるVR(AR=拡張現実)」を目指すべきだとする価値観を主張しています。ナイアンティックのCEOであるジョン・ハンケなどです。

 彼は現実への関心を失わせるメタバースは提供しないと宣言します。彼の会社が提供するのは、初期のポケモンGOや今のピクミンブルームみたいに、拡張現実上に共通のAIアバターが出現することで現実の出会いを触媒するゲームです。

――メタバースであっても、同じ世界に生きている感覚を持つかどうかなんですね。

宮台 というより、「同じ世界」を生きる感覚を与えるにせよ、その「同じ世界」が、メタバース(仮想現実)へと閉ざされているのか、ユニバース(現実)へと開かれているのか、という差異が、倫理的な問題になっているということです。

 現実には、ナイアンティックの経営危機が象徴する通りユニバースに閉ざされたメタバースが主流になっています。メタバースの性愛は、本人の意識とは別に、第三者から見てオナニーに近いものになります。それでいいのでしょうか。
 

かつてありえた微熱感を
伝承で知っていくこと


――以前に伺ったことで、セックスにおいて「飛んでも良いんだよ」と女性に伝える役割の男性の話が出ましたが、この存在も今は少ないですよね?

宮台 「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」として、最初に「女が飛ぶ」ことを促すのは男だという話でした。男が促し、女が飛び、その女の翼で男が飛ぶのだと。バタイユ『魔法使いの弟子』が描き出している図式として紹介したのでした。

 促す男は、女に「言葉・法・損得」などどうでも良いと感じさせる役割です。社会の外に出ても大丈夫と安心させる「超越系」。飛んだ後には、「言葉・法・損得」からなる社会を「なりすまして」生きろと伝える。つまりヘレン役です。

――今は友だちの圧力と一緒で、恋人も「言葉・法・損得」の内側を生きろと圧力をかけてくるから…。

宮台 ヘレン役をする男が確かにいなくなりつつある。あなたくらいの容姿と雰囲気を持っている人なら、70〜80年代では毎日男からデートの誘いがきました。大学でもそうでした。それが、信じられないことに今は誰も声をかけてこない。

 こんなに短期間に社会が変わるとは…。まるで違う国になったようです。昔なら毎日違う男にデートに誘われ、「どうだった」という話があなたから同性や異性に拡散され、男同士で「お前ボロクソ言われていたぞ」となったわけです(笑)。

――モテるだろうと周りからは言われたりしますが、実際に誘われることはほぼありません。そういう行動が今はなくなり、昔はあったというのも不思議です。

宮台 80年代には大企業の社員名簿に裏名簿があり、「誰と誰が交際中だ、元交際関係だ、交際とは別の性的関係だ」など青や黄や赤のマーカーで示されていたりしました。そのくらい社内の性愛関係が「目に見える化」されていました。

 当時はそれを前提として社員たちが性愛的に振る舞ったのですが、「誰かの女だから手を出さないでおこう」ではなく、むしろ逆のことが起こったのです。あなたが誰かと交際中だったとしても、それを前提に声をかけられたわけですね。


――そこが、お話を伺って驚くところです。今だったら、絶対に触らずにおきますから。

宮台 
そんな裏名簿を前提とした営みがあるとどうなるかを想像してほしい。会社には当然「性愛の微熱」が満ちました。そんな「微熱」があったから、「飛べと促す男」に一定の歩留まりで出会えたのです。困難の由来が分かるでしょう。

――それで上手く関係がまわるというのは、逆にうらやましいと思えてしまいますね。今は悪意しか想像できないですから。

宮台 
むろん当時も悪意やトラブルがありました。でも社会は「いいとこ取り」も「悪いところ切り」もできない。悪意やトラブルを根絶しようとする営みで「微熱」が消え、「微熱」を求める女たちが女風に向かう結果になったのです。

 こうしたことを喋れる人は僕の世代には多数いました。でも「物言えば唇寒し」を決め込んでいるうちに定年を迎えました。僕しか情報を発信していないのは、だからです。その意味で、僕には一定の責務があると感じて発信してわけです


――今号の「季刊エス」誌面でお話いただいたLSDの話題もそうですが、以前はあったことを改めて知るのは刺激的です。

宮台 
そんな情報発信が乏しいから、若い人が当たり前だと思う時空間が閉ざされたものになったのです。性愛に積極的になれと言われるだけでは積極的になれません。「何が欠けたから」積極的になれないのかを理解する必要があります。
 

「嫉妬」の感覚も
広い時代性の中で見れば考え直せる


――時代を通して得るロールモデルですね。「こういうことが現実にあったんだ」とわかれば違います。

宮台 
誌面版の話を補足すると、酒の勢いなどもあって友人の彼女と寝るという「順列組合せ的性愛関係」があった頃、男の多くが、学歴や容姿のような属性主義とは別に、自分の「営み」が比較されることを、絶えず意識しました。

 意識するがゆえに彼女をソクバッキー的に縛ろうとする男は当時もいたけど、営みを比較された時に負けないように成長しようと思う男もいました。縛っても負けるので、男の多くは、「縛る男」から「成長する男」になろうとしました。

 大学に入って、ある女を頂点とする四角関係になりました。僕が最後の参入者でしたが、嫉妬を我慢したことで、他の二人の男とどんなデートや性交をしていたのか聞けて向上できました。それで最終的に1対1の交際になりました。

 「昨日彼氏とエッチした」と聞けば嫉妬を感じます。でも過剰に嫉妬したら負けるのは構造的に明らかです。だから我慢する。すると彼女が情報を出してくれる。だから深い相談に乗れる。かくして後発の不利を有利に逆転しました。

 嫉妬で情報が入らなくなれば、彼女をどうすれば幸せにできるか分からなくなります。幸せにできる男が勝つのならば、僕がすべきことは明らかです。前に、感情的営みの前提ならびに帰結をわきまえることを「感情の論理学」と呼びましたね。


――アウェアネス・トレーニングのようなことですね。幸せになるために、自分の感情をコントロールする。

宮台 
「あなたといる方が幸せに感じる」と女が言えば、嫉妬の感情は消し飛びます。それが自信につながり、またそう思って欲しいと思い、女が他の男とデートや性交するたびにまた不満を教えてくれる。それで良い循環が出来ます。

――大学時代にそういうことがあったのですね。それは男女が逆でも同じですか?

宮台 
同じでしょう。変性意識状態への入りやすさのゲノム的差異ゆえの「女は飛び、男は女の翼で飛ぶ」という構造を踏まえることは大切ですが、「感情の論理学」においては、性別の違いや、異性愛と同性愛の違いはないと思います。

──そうですか。コミュニケーションや性愛の歴史も知りながら、自分の今の状態も見ていけたらと思いました。ありがとうございました。

 

性愛に踏み出せない女の子のために
第6回WEB版 おわり 次回もお楽しみに!