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Lana Sator ラナ・サトル

対談・インタビュー
ロシア出身の写真家・都市探検家であるラナ・サトル。彼女は学生時代からソビエト時代の廃棄された建造物を探索し、数多くの美しい廃墟を撮影してきたが、なかでも軍事施設の深部を明かす撮影で世界を驚かせた。2011年に核弾道ミサイルにも使われるロケットエンジン工場に潜入し、内部を公開したことで「ロシアの軍事ロケット工場に潜入した少女」としてニュースとなり、ロシア当局から最高レベルの警告を受ける。それでもロシアとその近隣国で、自然や雪にとけこむ廃墟や、軍の施設を撮影し続けたが、2022年にアルバニアで拘束。そのまま投獄された。スパイ容疑という完全な不当逮捕だったが、さらにロシアは国際指名手配でラナの引き渡しを要求。ラナは戦争やプーチンを公然と批判していたので、国家反逆罪に近い恐ろしい処遇が想定されていた。そして、この5月にラナは突然釈放。無罪判決が出たわけではなく、不安定な状況が続いているので、弁護士の助言を受けながら、ラナの安全を鑑みてインタビューを実施した。今回は母国であるロシアの廃墟を通してラナが感じたこと、獄中にいた心境などを聞いて、戦火の国を生きるクリエイターの思いをお届けする。

 

取材:ナディア・レフ(Nadya Lev)

 

ラナ・サトル(Lana Sator)

ロシア出身の写真家、都市探検家、ブロガー。学生の頃より、ロシアの廃墟や地下を探索して、軍事施設や産業建築の跡地を写真に収めてきた。写真集に、スウェーデンで『Lana Sators Sovjet』、日本で『旧ソ連遺産』がある。現在アルバニアの刑務所に収監中のラナは、ロシアから国家反逆罪として引き渡しを求められているが、不当な逮捕に抗議して戦っている。
https://www.instagram.com/lanasator/

ラナ・サトル インタビュー

ソビエト時代の広大な軍事廃品場に置かれた戦車

ロシアのモニノ空軍博物館は、軍用機が放置された状態で展示されており、機体が朽ちている。

1940年代に使用されていたロシアのサマーラの地下壕。


──ラナの都市探検のなかで、最も印象に残っている瞬間を教えてください。写真を撮り歩く旅をしながら、思い出深いことはたくさんあったと思います。

ラナ 廃墟を訪ねる趣味を始めたのは、20年以上前の子供の頃です。10代が終わるとすぐに飽きるだろうと思っていたのですが、自分の目で見て、文字通り自分の手で触れることができるその旅は、世界の歴史とその遺物に対する、より成熟した興味へと発展しました。この膨大な期間の間に、私は何百、何千とは言わないまでも、非常に多くの廃墟を訪れてきました。それらの中から特別なものを選び出すのはかなり難しい。あえて言うのなら、ロシアのヴォルクタとノリリスクという都市の近隣や、旧ソ連の原子炉の訪問かな。また、廃墟に興味を持って33カ国を訪れましたが、特に印象に残っているのは、日本(まったく無防備なままの廃墟を残すという環境保全?のおかげ)とトルコ(廃墟となった遊園地に感動した)ですね。アルバニアも好きな国のひとつですよ。

──ラナの写真の多くは、戦争の遺物に焦点を当てているでしょう? 使われなくなった軍事施設、放棄された軍用機、戦車の墓地。これらの写真を撮ったとき、どんな風に感じましたか?

ラナ 廃墟と化した軍事施設は、現実の、あるいは架空の外敵への恐怖のために浪費された国の予算の大きさが実感できますね。ある種の壮大さ、スケールの大きさが際立っている場所が多い。興味深いのは、それらが冷戦時代のもの、つまり一度も使われたことのない軍事施設だってこと。軍備の特殊性は、進歩の背景のもとでは、産業機器よりもはるかに急速に陳腐化することなんです。同時に、進歩の時間軸はノンストップで進んでいく。その一方、戦争は何十年経っても起こらないかもしれない。国家の恐怖の具現化としての手つかずの埋蔵金、何千人もの人々の無駄な労働力がそこにはある。

──皮肉なものですね…。ところで、廃墟にはさまざまなタイプがありますよね。古代のもの、現代都市のもの。天災や人災によって滅びたもの。ある廃墟は、ギリシア遺跡のように、かつての栄光を憧憬させるところがある。またある廃墟は、滅亡する未来の地球を想像させることもある。このように、時間軸の照らして廃墟を考えるとき、ラナはどんなことに興味をひかれますか?

ラナ 20世紀の歴史に心ひかれますね。20世紀は文明や科学技術の面で、全世界が最も飛躍的な進歩を遂げた世紀であり、その発展の多くは冷戦と先進国間の軍拡競争に負うところが大きい。大規模な施設を訪れると、過去の偉業への感嘆と、そのすべてが結局は近代に取り残されてしまったという喪失感の両方を感じます。とはいえ、私は「誰かが覚えている限り、その人は生きている」という考えを持っています。これは場所にも当てはまると思う。廃墟となった地域や、建造物、廃品場などを訪れ続け、私が見ることで、それらは死後も生き続けることができるのだと感じています。

──日本の小説家、日野啓三はかつて言っていました。都市の建物にはそれぞれ学校、病院といった役割がある。しかし廃墟になったとき、その役割から解放されて自由を得る。だから人が廃墟を好むのは、このような自由さと関係あるかもしれません。ラナが廃墟を見る時、それは解放をイメージさせたり、死を思わせたりしますか?

ラナ 廃墟になった建物は、まず第一に美しいと思う。人々がそこを去った後、彼らは人生の新たな段階に進んでいる。自然が文明に取って代わり、人間が使ってきた痕跡を徐々に吸収していく。時間が経てば経つほど、植物や動物が、朽ちた家屋や町、工場跡地に大胆に住み着きはじめる。そこを訪れた人間は、かつての住人の一人ではなく、すでに客人のようです。私は、廃墟になることで建物が自由を得たり死んだりするとは表現しません。建物の死は、取り壊しなどの人為的な行為による破壊や、地震、津波、ハリケーンなどの自然災害によってもたらされるんだと思います。

キルギスの首都ビシュケクにある工場跡。小型武器の部品などが作られていた。

アルバニアにある魚雷の兵器庫の跡地。ドアは堅牢なコンクリート製。

アルバニアにある魚雷艇や潜水艦のシェルター跡地。


──それで言うと、ウクライナの戦争について、後世の人々はどのように考えると思いますか?

ラナ この大惨事は狂気の独裁者の過ちとして、第二次世界大戦のように認識されることを私は望んでいる。ロシア国民は同胞の決断を恥じるだろう。しかし同時に、現代社会がその出自を理由にロシア人そのものを非難することがないように願っています。

──あなたはアルバニアで逮捕拘束され、数カ月間、独房で過ごしました。いま釈放されたばかりですが、一番つらかったことは何ですか?

ラナ 2022年の8月20日に拘束され、8月24日に裁判所が私を逮捕すると決定した後、アルバニア警察は私をスパイ組織のリーダーとみなし、外界との接触や面会を制限しただけでなく、心理的な圧力をかけてきました。彼らは自分たちに都合の良いことを私に言わせようとした。正当な理由もなく、私は健康なのに、刑務所内の病院の独房に入れられました。私の仲間であるロシア人のミハイルに対しては別の拷問方法を使った。単に殴ったんです。そして、諜報部のために働いているという「自白」を盛り込んだ報告書に署名させた。私はどうにか3ヶ月の入院と3ヶ月の女性拘置所での独房に耐えることができた。私はとても社交的な人間なので、交際禁止に耐えるのは大変でした。でも同時に、世の中のあらゆることについて考えたり、本を読んだり、自分の感情を分析したりする時間がたくさん出来ました。

──そんな状態で独房にいて、どうやって正気を保っていましたか?

ラナ カレンダーに、その日あった出来事を毎日書き込んでいました。あまりイベントがなかったので、「大きな赤いリンゴをもらった」「猫に餌をあげた」「本を手に入れることができた」というような項目で埋め尽くされましたけどね。また、病院勤務の警察官5人の中に、禁止されているにもかかわらず、私とコミュニケーションをとってくれた英語を話す女性がいました。彼女は家族のこと、ペットの猫のこと、同僚や仕事のことを話して、ときどき小さな果物を持ってきてくれました。当直のもう一人の女性は英語を知らなかったけれど、洋服やお菓子をくれた。私はほとんど毎日、病院長に「せめて弁護士と電話だけでもしたい」と訴えていました。2ヵ月半後になんとか可能になりましたね。

──独房の後、収容所に入りましたよね。そこはどんな環境でしたか?

ラナ 強制収容所や刑務所ではなかったですね。被疑者のための施設は拘置所と呼ばれ、逮捕者はそこで捜査期間中、拘束される決まりでした。私たちは、8月24日に3カ月の拘留と決まりましたが、その後2回延長されて、合計で9カ月間に及びました。私は弁護士を通じて要請を受け、3ヵ月間の病院での独房生活の後、その拘置所に移動しましたが、そこでもまた独房に入れられたんです。さらに3ヵ月間収容されました。自分で刑務所の局長に手紙を書いて、なんとか一般体制に移してもらいました。アルバニアの女性拘置所は全国に1つしかなく、庭、図書館、運動場がある散歩に適した共同エリアでしたね。独房でしたが、医療刑務所よりはマシだった。少なくとも、被拘禁者や警察官、ソーシャルワーカーなど、他の人たちと顔を合わせることができた。病院では、当直の5人以外とは誰にも会わず、散歩中の狂った人々の悲鳴を聞くだけでした。一般体制に移ってからは、テレビを見たり、英語を知っている被収容者と無制限に会話したりすることができるようになった。その頃はアルバニア語もようやく勉強し始めました。隔離病棟の食事はおいしく、売店もあり、自分で料理を作ることもできましたけどね。病院で唯一良かったのは、私の部屋がほぼ毎日掃除されていたことですが、女性拘置所では自分で掃除しなければなりません。でも、それは大した問題じゃない。

モスクワのナロ=フォミンスクにある、廃棄されたミサイル防衛システム。

日本が樺太として占有していた1920年代は野田町と呼ばれ、そこにあった王子製紙の工場跡。ロシアの実効支配後も製紙工場は続いたが、現代は廃墟。

ロシアのノヴゴロド州にある、繊維商人の邸宅跡。ラナはこの外観から「ラプンツェルの塔」と呼んでいる。

ジョージアがソビエト時代だった頃に建てられたホテルの跡地。天井はラテルネンデッケのように多角形を組んでドーム状にする構造。ジョージアではグヴィルヴィニ(王冠の意味)と呼ばれて民家で用いられた工法。


──戦争が始まる前、あなたにはソ連の廃墟を撮影していた都市探検の仲間がいました。戦争によって、その関係がどのように変わったのか教えていただけますか?

ラナ 都市探検の仲間とは3年以上の付き合いで、交際し、結婚もしていました。彼は建築や街並みを専門とする有名な写真家。私たちの共通の興味は、ソビエト時代の廃墟への憧れでしたが、私が美学的に惹かれるだけだったのに対し、彼はイデオロギーに憧れていったんです。美しいソ連のポスターを見て、共産主義を信じ、ソ連の再統一を願っていた。

──なるほど。連邦として周辺国を統一してた政治体制への憧れもあったのですね。

ラナ だから戦争が始まると、彼は開戦を支持し、やがて旧ソ連共和国がロシアと再統一できると信じ始めたんです。そして、侵略された都市の写真を撮りに行かないかと言い始めた。私が誤った軍事作戦を非難し、早期終結とウクライナの勝利を願うと、彼は私を「裏切り者、人民の敵!」と呼んだ。しかし、徴兵の見通しが迫ると、彼は戦争に行きたくなかったため、ロシアからの共同脱出の選択肢を考えた。そのあとで徴兵されないとわかると、彼は再び「愛国者」となり、ウクライナへの軍事攻撃を支持するようになった。私は二人の道が分かれたことに気づき、離婚を申請した。それ以来、互いに口をきかなくなりましたが、共通の知人が多いから、どこに住んでいるかくらいはお互いに知ってますよ。私はロシアを離れ、彼はロシアに残った。彼は自分の思想や立場を公にしたことで、出版社、ギャラリー、旅行代理店との契約を含め、ヨーロッパでのパートナーをすべて失いました。今はロシアで新しいパートナーを見つけようとして、民間軍事会社の「ワグネル・グループ」と協力し始めましたが、その協力関係もすぐに終わりました。その後、新しいガールフレンドとDVのような事件を起こし、そのガールフレンドが知り合いのジャーナリストを通じてロシアのメディアに彼の写真を載せないように仕向けた。彼はしばしば乱暴なDVぶりを見せていたからです。私にも影響があって、人為的なスパムのせいで私のブログは使えなくなったのですが、それは彼の必死の復讐であることは間違いない。

──戦争と政治が人間関係に悪影響を及ぼしているのですね。それでは最後に聞きますが、刑務所では絵を描いていましたよね。今回は逮捕、投獄の苦難がありましたが、表現活動はラナにとって、どのように役立っていますか?

ラナ 私は子供の頃からずっと絵を描いていたんです。でも、カメラを手にしてからは、絵を描く機会がぐっと減っていた。刑務所の中では写真を撮る機会もないので、鉛筆と紙に戻って、その土地の環境や独房の中、風景を写していました。刑務所にいる他の女の子たちのためにも絵を描き、彼女たちの家族が持ってきてくれるクロスワードパズルや洋服、お菓子など、いろいろな便利なものと交換しました。刑務所では金銭的な関係は禁じられているんだけど、感謝の気持ちの交換や相互支援はうまく機能しているんですよ。そんな風に絵の表現は、コミュニケーションにもなったし、私は周りの人の心を癒すことにもなりました。

(左)ラナが拘束されている刑務所内の風景を描き記したスケッチ。

(右)刑務所内の囚人たちがスポーツをしたり、所内に猫がいる様子が描かれている。